大きな栗の木の下で | ナノ


27.


引越しを前日に控えたその日も、いつものようにあたしと精市くんは遊んでいた。引越しに備えて物が少なくなったあたしの部屋は、あたし達にとって絶好の遊び場。きっとそれをわかった上で、お母さんは「名無しさんの部屋で遊んでて良いわよ。」なんて言ったのだろう。わかった、と即答するあたし達を見てお互いの両親が微笑ましく笑っていたのを覚えている。

『明日、引越しするの。』
『うん、』
『明日、お別れだね。』
『大丈夫だよ、名無しさん。少し離れるだけだって思えば。』
『うん!』
『ちゃんと見送るからね。』
『ありがとう、精市くん。』
『……名無しさん、大好きだよ。』
『あたしも大好き。』
『毎日連絡するからね。』

引越しについて話をしたのはそれきりだった。幼いあたしはどこへ引っ越すのかも理解していなくて、地名だけで距離を判断できるほど賢くはなかったから。だから引越しについて、どこか遠くへ行く、という感覚しかないあたしたちにできる精一杯の会話がこれ。それでもあたしは幸せだったし、願っていればいつかまた会えるというお母さんの言葉を信じていた。

『精市くんは大人になったら何になるの?』
『おれは……何だろうね。』
『…………、』
『冗談だよ。』
『っ!精市くんの意地悪!』
『ふふっ、俺はね、』

名無しさんと結婚して、名無しさんの旦那さんになるんだ。
他愛もない会話だったかもしれないけれど、あたしにとってはとても大切なことで、鮮明に覚えている記憶。何度も思い出したし、夢で何度も見た。忘れたくても忘れられない。これでもか、というくらいに繰り返される精市くんの言葉の記憶が何度も何度もあたしの心を揺さぶるのだから。そして引越し当日。

『お母さん、精市くんは?』
『なんかね、朝早くに走ってどこかに出掛けちゃったみたいで、』
『……そう、なんだ。』
『早く来るといいね。』
『うん。』

精市くんは引越し予定時間になってもあたしの前に現れなかった。朝早くに出かけてしまうほど大切な用事だったのか、それとも、あたしはその程度の存在だったのか。「ちゃんと見送るから」という昨日の言葉はどこへ消えてしまったんだろう。

『精市くん、何でバイバイしに来てくれないの……?』
『きっとすぐ来るから大丈夫よ。』
『うん、』

すぐって一体どれくらい?本当に精市くんは来てくれるの?何もわからない、何も信じられない。だって、あんなに信じていた精市くんは今ここに居ないじゃないか。
涙は流すつもりじゃなかった。笑顔でお別れできたらいいなって思ってたから。だけど涙は自然に溢れ出して、アスファルトを濡らしていく。こんなつもりじゃなかったのに。

『精市くんなんか大嫌い。』
『名無しさん、精市くんにもきっと理由が、』
『精市くんなんか、だいっきらい!』

叫んだ声が虚しく空に吸い込まれていった。
大好きだから会いたかった。会って、たった一言でいいから言ってくれれば、あたしはそれで幸せだったのに。

思い出したくもない最悪なその日は、あたしの生まれた日でした。


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