大きな栗の木の下で | ナノ


23.


ほんの一瞬だけ、体を支えていたはずの足に力が入らなくなって、まるで名無しさんを押し倒そうとしたような状態。そういうつもりではなかったのに、名無しさんを驚かせてしまったかもしれない、もっと嫌われたらどうすればいいのだろう。そんな考えを頭に巡らせながら、そっと名無しさんから離れて。それから、目の前が真っ暗になった気がした。

「名無しさん、」
「……っ、」
「ごめん、わざとじゃなくて、」

名無しさんの目から落ちる雫は、何物でもない、涙。俯いて手を握り締める彼女に、俺はかける言葉を見つけられない。一生懸命に発した言葉も、まるで言い訳じゃないか。今度こそ本当に「嫌い」になってしまうかもしれない。そんなことになったら俺は、もう。
けれど、そんな俺の想像とは裏腹に、彼女は小さく首を振った。

「そうじゃないの、」
「そうじゃない、って?どこか痛かった?」
「ちが、」
「じゃあどうして泣いてるの、名無しさん。」
「あたしが……、あたしが、精市くんに、酷いこと言って、だから精市くん、」

支離滅裂な言葉だけれど、名無しさんが言わんとしていることははっきりとわかった。腰を落として、言葉をまとめる余裕もないほどにしゃくりあげる名無しさんと目線を合わせれば、涙でびしょびしょになった制服の袖が目に入った。それと同時に、淡い期待かもしれないけれど、柳の言葉が脳裏に浮かぶ。
本当に嫌いな人間に嫌いと言う奴は中々いないだろ。

「名無しさん、違うよ、名無しさんのせいじゃない。」
「……でも、」
「じゃあこうしよう。」

「名無しさんが俺を嫌いになった理由を教えて。」その言葉が最低だということは分かっている。教えてくれたら俺に得があるかどうかなんて聞いてみないとわからないし、下手すれば倒れるどころの騒ぎじゃなくなるかもしれない。なんて、交換条件が成り立つなんてもんじゃないのに。
聞けば、名無しさんは顔を上げて、涙で潤んだ目を大きく見開く。聞いてどうなるかと聞かれてしまえば終わりなんだけど、運良く名無しさんはそう返して来ることはなくて。その代わりに、震えた声で「言えない」と。

「言いたくない、」
「……わかった。話せる時が来るまで待つよ。」

俺の言葉に、名無しさんは小さく頷いた。

小さい頃の俺達には隠し事なんか一つもなくて、お母さんに話せないことでも名無しさんになら全て打ち明けられた。だって、名無しさんは俺と一緒に喜んで、悲しんで、何でも共有できるって思っていたし、名無しさんもそう思っていると信じられたから。
もしも、あの日俺が隠したたった一つのことが俺と名無しさんの間に壁を作ってしまったなら、俺が全てを話してしまえば、隠し事をなくしてしまえば、名無しさんと俺はまたあの日のように話せるのだろうか。


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