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  09.傷付けあう


自分でも気付かないうちに意味不明で理解不能な行動をとってしまった経験はないだろうか。例えば、カレーを食べようと思って取ってきた食器がフォークだったり、トイレに行こうと立ち上がった休憩時間で飲み物を買うためだけに時間を費やしてしまったり。岩泉が体育の授業なのにポールを準備しようとしたり、テーピングテープを買いに言った松川がサポーターだけを買って満足して帰ってきたり、及川が男子に向かって「なぁに、子猫ちゃん」なんて言ったのもきっと同じ類だ。つまり、こういうミスは日常茶飯事であって、自分の意志とは全く無関係に起こりうる状況であり、誰が悪いなどと決めつけるべき問題ではないのだけれど。
そんなのは全て言い訳に過ぎなくて、事態に気付いた瞬間に、俺は床に頭を擦り付けた。

「えっと、なに?」

トイレに行って部屋に戻ってきた彼女には、この状況は到底理解できないだろう。なんせ、戻って来たら180超えの男が土下座してるんだから。否、この状況は見覚えがあるかもしれないが。兎にも角にも、自分でこの事態を説明しないことには埒が明かないとゆっくり頭を上げ、目の前に名無しさんを座らせて、ゴクリと唾を飲み込む。
前述した長い前置きに、名無しさんは眉を顰めながらもしっかりと話を聞いてくれた。けれど、あまりにはぐらかしているせいで、意味はさっぱりという表情が向けられる。「つまり、どういうこと?」と愈々結論を急かされてしまって、俺は誰に頼まれるでもなく再び床に顔を近付けた。

「こんなんで許してもらえるとは思ってませんが、」
「……う、うん?」
「二つとも食べちゃって……その、シュークリーム……、」
「は?」

瞬間、普段の彼女からは想像も出来ないような低くて冷たい声に、全身がビクリと跳ね上がった。怖くて顔を上げることも許されず、ただただ目をぎゅっと瞑って次の一言を待っていれば、そこで聞こえてきたのはいつも通りの名無しさんの声。「そういえばね、」なんて普通に話し出すから、拍子抜けして顔を上げたのは幸か不幸か。さっきまでの冷たい雰囲気はどこへやら、いつもと変わらない笑顔、変わらないトーンで「さっきトイレの帰りに花巻のお母さんと話してから来たんだけど」なんて話を続けるから、俺もいつもと同じように相槌を返した。良かった、怒ってないのかな、後で買いに行こう。そんな安堵の気持ちに包まれたのはほんの一瞬で、結局はシュークリームを二つとも食べてしまったという大失態を取り消すことなど出来ないのだ。

「何かあったら指の一本や二本、やっちゃって良いからね、って。」

ニコリと笑うが、それは笑顔ではない。上がる口角とは対照的に下がらない目尻。瞬時に手を握り締めて、バレー部にとって大切な指を背中の方に隠す。まるで拘束具にでも繋がれたような体勢だけど、精神的に拘束されたこの状態を考えれば、そういう発想もあながち間違いではないように思う。
「ごめっ ……なさ、い……」うまく声も出せず、ぼやけ出した視界の中、顎を掴まれて乱暴に上を向かされた。世間では顎クイなんてイケメンの常套手段として有名になっているみたいだけれど、今のこの状況はそんなに可愛いものではなく、極端に言ってしまえば生と死の境目である。数秒の間が怖くてぎゅっと強く目を瞑り、近付いてくる物影に「ひっ」と息を吸い込んだ。殴られる。

「……ふぇ、」

来ると思っていた衝撃が来ることはなく、代わりに当たった柔らかいものに、自分でも驚くほどの情けない声が絞り出された。多分、今、唇に……。考えるよりも早く真っ赤に染まっていく俺の顔を見て、ケタケタと楽しそうに笑って「ビックリした?」なんて言う名無しさん。ドクドクと落ち着くことのない心臓に無意識に手を当てたのは、きっと心臓を守ろうとする動物的な本能だと思う。ゆっくりと深呼吸をして、零れ落ちそうになる涙を堪えながら「怒ってない?」と紡ぎ出せば、笑いながら「今度買ってきてくれたら許す」と。つまりそれまではこの件を許してくれるつもりなど一切無いらしいが、シュークリームが好きだからこそシュークリームで喧嘩するのも嫌なのだと言う名無しさんが、こんなタイミングだけど本当に好きだと思った。

お泊りデートと言っても大きな出来事はそれくらいで、その日も、次の日も、俺達は家でまったりと過ごした。勿論、夜も一緒に寝るだけで、名無しさんには一切手を出さなかった。理由は語らずとも明白で、自分の指も大切だったし、それ以上に名無しさんのことを大切にしたいと思ったから。



「……マッキーがモテるくせに童貞の理由がわかった。」
「童貞とか言うな。」

お泊りデートどうだったの、なんて及川の言葉から始まった報告会は、昼休みにいつもの青城バレー部4人で行われた。松川と岩泉に名無しさんのことを話したつもりはないが、片想いの時から気付いてたとか言われたらぐうの音も出ない。
散々語らされた後に、そうしみじみと感想を零した及川に一発ビンタを食らわす。この際、俺が童貞かどうかは問題ではなく、及川の中で俺が童貞前提として扱われていることに問題があるのだ。及川のような腐れ外道の考え方は置いておいて、岩泉と松川は「良かったな」と返してくれた。「そういうことは追々だろ」なんて見た目に反して草食系な岩泉の反応に、心の中で両手を上げた。草食系、万歳。

「まぁ頑張ってね、マッキー。」
「ん、さんきゅ。」

何だかんだで応援してくれる及川だって、本当は良いやつってことくらいわかっている。デザートタイムへ向かうべく立ち上がれば投げかけられた声に、俺は片手を上げて返した。こういう所がまさに及川の良い所だ、なんて、絶対伝えてやらないけど。
いい気分で向かった名無しさんの席には、既に名無しさんが待機していて。その手の内にはごく当たり前のように幸福の塊が納められていた。何も言わずとも分け合う、これは付き合う前から仲間の証として何となく定められていたもので、ルールのような拘束力はないものの、今日もくれるのだろうと俺を期待させてしまうくらいの力を持っている。だから勿論、今日も今日とてお恵み頂けると思っていたのだけれど、そもそもそんな暗黙の了解自体が俺の勘違いだっただろうか。
チラリと名無しさんを見れば、彼女はニヤリと笑って「この前の仕返し。」と。

「……え、あ、そっか。」
「っていうか、一人で食べてって渡されたんだよね。」
「うん?誰に?」
「及川に。」

前言撤回。及川め、万死に値するぞ。


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