青葉城西 | ナノ


▽ 新しい始まり



きっかけはとても些細なことだったように思う。
隣の席になった名無しさんのことをその時の俺はただのクラスメイトくらいにしか思っていなかったのに、席替えの時に見せた「よろしくね」の明るさはどこへ行ったのか、授業中の綺麗な横顔が鮮明な記憶として俺の脳裏を支配したのだ。また、ある日の体育では類稀なる運動神経でクラスの生徒を圧倒したり、かと思えば水道近くの水たまりで滑って転んで恥ずかしそうにしていたり。あぁ、こんな表情も出来るのか、と気付けば名無しさんを目で追ってしまうようになっていた。名無しさんが好きだと意識し始めたのも、それからそんなに時間が経たないうちのことだったと思う。

「国見くんって、塩キャラメル好き?」

それは何の変哲も無い一日の古典の授業中。おじいちゃん先生の声にうとうとする者もいれば、小さな声でお喋りをする者もいる中、どちらかというと前者に含まれるであろう俺は、窓の外をボーッと見つめていたのだけれど。突然聞こえたその声がいとも簡単に俺を現実世界に引き戻して、その上、ドクンドクンと心臓をうるさく高鳴らせた。
塩キャラメル。それが俺の大好物だということを知ってか知らずか、顔をそちらに向けた俺に名無しさんはソレを差し出しす。「もし良かったら、」そう遠慮がちに言う名前に礼を言って素直に受け取り、そのまま包装から取り出して口に運べば、名無しさんは悪戯っ子のように笑って「これで国見くんも共犯だからね」と自らもキャラメルを口に運んだ。

「ずるじゃん……」
「ふふ、ごめんね」

また新しい表情をして、俺をどんどん虜にしていくのだ。そんな俺の気持ちを知りもしない名無しさんは小さく笑って謝るけれど、それすら俺をドキドキさせるんだから本当にズルい。友達と話す時の笑顔も、たまに見せる大人っぽい表情も、名無しさんを見ていると何もかもが新鮮で。
それを楽しいとか素敵とかいう言葉で表すには何とも物足りなくて、自分の語彙力の無さにこんなにもガッカリする日が来るなんて思いもしなかった。何とかこの気持ちを伝えられればこの関係に進展があるのかもしれないが、如何せん俺はそれほどの勇気を持ち合わせていないというのも、この場に於いて特筆すべき問題点の一つである。

「あのさ、」
「ん?なーに?」

興味津々、といった様子で名無しさんがこちらを見るけれど、好きな人に期待顏で見られたら何を話せば良いのか全く浮かばない。それどころか心臓は相変わらずバクバクとうるさいし、先程からずっと顔が熱くて仕方がないのだ。言葉の続きが出ないことを不安に思ったのか、名無しさんが「国見くん?」と紡ぐけれど、その表情もまた新しくて、魅力的で。

一番保たなければいけない理性というものを真っ先にぶっ飛ばしてしまうような馬鹿な真似、まさか自分がしてしまうなんて思いもしなかった。好きという気持ちが溢れ出して、けれど口に出すことは出来なくて、だから、その。
授業中、誰が見ているかもわからない状況で、俺は名無しさんにキスをしてしまったのだ。

「……えっと、その……どういう、」
「……ごめん、俺もわかんない、けど……好き、です、」
「…………え?」
「ごめん、好きなのは本当。でもこんな事、するつもりじゃなくて、ほんと、ごめん……」

失恋決定。頭の中はそれでいっぱいだった。こんな場所で急にクラスメイトにキスされて、良い思いをするやつなんて普通に考えて居ない。気持ち悪いって思われても仕方がないことを自分がしたんだから、それ相応の罰があってもおかしくないのだ。兎に角、この授業が終わったら今日は部室でサボろうと決め込んで、名無しさんから視線を逸らす。
頬に生温い感触が触れたのは、それから数秒後のことだった。ビックリして咄嗟にそちらを向けば、数秒前と打って変わって真剣な、そしてどこか緊張したような面持ちの名無しさんが俺をしっかりと瞳に捉えていて。

「あたしも、好き。」

真っ赤な顔、泣き出しそうに潤んだ瞳、きゅっと結ばれた唇。その全てが、名無しさんが本気だということを示している。頬に受けた名無しさんのキスも、きっと相当な勇気を使っただろう。……あぁ、どうしようもなく名無しさんが好きだ。好きで好きで仕方がないのだ。だから、俺も、もう一歩踏み出さなければ。

「……俺と付き合ってください。」
「はい、喜んで。」



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