▽ 過呼吸
合宿中というのは誰もがストレスの溜まりやすい時期で、音駒の部長である俺は音駒も含め周りの様子を気に掛けるようにしている。だからこそ、今目の前に居る後輩が心配でならないのだ。後輩と言っても彼、月島蛍は他校生なのだが、第三体育館で居残り練習を共にしていることもあって、その他大勢の後輩たちに比べれば仲が良いと思う。
そんな彼は今、すこぶる調子が悪いようだ。
「ツッキー、なんか飯減ってねぇけど。」
「そんなにお腹空いてないんで。」
「あんまり無理すんな。体調悪いんだったら澤村に言っといてやるから休めよ。」
「大丈夫でっ……けほっ、けほっ、」
タイミングの悪い咳に閉口するツッキーに追い打ちをかけるように「辛くなったらすぐに言えよ。」と言えば、不満が滲み出た声で「わかりました。」と。軽口でも叩かれるのかと思ったけれど、案外素直な答えに、彼の体調の悪さが滲み出ている。けれどあまり気にしすぎてもツッキーの負担になるだろうと思って、すぐに話題を切り替えた。
それから30分ほど経った頃。ツッキー達の烏野は俺達音駒より遅く食堂に来たとはいえ、まだ半分以上残っていて。流石に隠し切れないほど顔色の悪くなったツッキーにもう一度声を掛けようと目をやれば、不意に立ち上がったツッキーは何も言わずに出口へと向かう。「月島、どうした?」と烏野の部長である澤村が声を掛けるが、ツッキーは振り向く様子もない。「俺が行くわ。」そう澤村に声を掛けてツッキーの背中を追った。
「けほっ、けほっ、」
「ツッキー?」
廊下に出ると咳が聞こえて。それを頼りに向かえば、誰も見つけられないような廊下の小さな窪みのスペースで体育すわりをしてうずくまるツッキー。「おい、ツッキー、」大丈夫か、そう言おうとして肩に手を置けば、自分が想像していたよりも遥かに高い体温にぎょっとした。こんな熱で練習しようとしてたのか、こいつは。
「けほっ、くろ、お、けほっこほっ、さんっ……はぁ、はぁっ」
「熱あんだろ。部屋まで送るから今日は休め。な?」
「わかり、ま、けほっ……はぁっ、はっ、けほこほっ」
わかりました。そう言いたいんだろうが、止まらなくなり始めた咳に阻まれ、それ以上何も言えなくなってしまった。それどころか息が上がって苦しいらしく、膝に額をつけて突っ伏す。背中を擦ってやるが、果たして効いているのだろうか。こんなことなら、さっき無理にでも部屋に帰せば良かったのかもしれない。
「けほっ、けほっ、ほこっ……はぁ、はぁ、っけほ、はぁはぁ、」
「とりあえず部屋行くぞ。」
言えばツッキーはこくりと頷いた。が、立ち上がろうとしたその瞬間「ひゅっ、」とどこかから空気が漏れる音がして。途端に、胸のあたりの服を強く掴んでうずくまったツッキーは、不安定に速いテンポで呼吸を繰り返す。過呼吸らしかった。
「けほっ、はぁっ、はっ……はっ、はっ、はぁっ、はっ、」
「落ち着けツッキー、誰か呼んでくるから!」
とりあえず澤村か、幼馴染くんか。そう思いながらツッキーに声を掛けて立ち上がれば、ズボンの裾をぎゅっと掴んできたツッキーが苦しそうに絞り出した名前は、澤村でも幼馴染くんでもなかった。
「名無しさんちゃん!ちょっと来て!」
ツッキーからあまり離れることも出来ず食堂の出入り口から大きな声で彼女を呼べば、タオルを片手に駆け寄ってきた彼女は既に何かを悟ってる様子で。「ツッキー、名無しさんちゃん連れてきたよ。」そう言えば、チラリと彼女を見たツッキーは少し安心したように見えた。
「過呼吸だね。タオルあてるよ。」
「はぁっ、はっ、はっ、けほっ、はぁっ」
「体重預けて、楽にして。」
優しくツッキーに声を掛けて落ち着かせていく様子が妙に手慣れていて「もしかして初めてじゃないの?」と聞けば、小さく頷いたツッキーに合点した。だから名無しさんちゃんはそんなに焦ってないし、対処もスムーズなのかと。けれど、次の言葉はさらに衝撃的だった。
「蛍、落ち着いて、大丈夫。ゆっくり吸ってー、吐いてー、」
けい、確かにツッキーはそんな名前だったかもしれない。けれどこの合宿中ではみんな彼のことを月島とかツッキーって呼んでるし、名無しさんちゃんもツッキーって呼んでたような気がしたんだが。
「はぁっ、はっ、けほっけほっ、はっ、はっ、はぁっ、はぁっ、」
「うん、ゆっくりね。吸ってー、はいてー。大丈夫だよ、蛍。」
生理的と思われる涙を流しながら、名無しさんちゃんにすがるように服を掴んでいるツッキーは、本当に俺が知ってるツッキーか疑いたくなる。これが本当のツッキーだからこそ、この合宿がストレスで体調を崩してしまったのかもしれないけれど。
それから少しして呼吸が落ち着いてきたツッキーは「すいません、黒尾さん」と一言零した。
「いや、俺は何もできなかったし、」
「黒尾さんが名無しさん呼んできてくれたから、」
ツッキーからそんなこと言われるとか、やっぱりツッキーじゃないみたいで少しくすぐったい。「部屋行って寝よう。」そう言った名無しさんちゃんに、ツッキーは素直にこくりと頷いた。その様子を見て、ふとさっきの衝撃が疑問形となって浮かび上がる。
「え、なに、2人ってその、」
「……幼馴染で俺の彼女です。」
一瞬顔をしかめたツッキーは、あまり言いたくなかったのか「では、」と足早に立ち去ろうとする。けれど未だに足取りは覚束無くて。ふらふらなツッキーに肩を貸し、俺はわざと口角を上げて見せた。
「その話詳しく。」
「黒尾さんは練習行ってください。」
「好きになったきっかけはですね、」
「名無しさんは黒尾さんに近づかないで。汚れる。」
名無しさんちゃんの傍で気持ちが落ち着いたのか、いつもの調子を取り戻したツッキーはやっぱり俺に辛辣だった。
(160111)
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