魔王に捧ぐ硝子の花 | ナノ

 額から止めどなく流れる血で視界を真っ赤に染めながら、魔獣は地に這いつくばっていた。闇に染まったトライフォースの力は退魔の剣の輝きに封じられ、血を流しすぎた体ではもう腕すら満足に動かせない。
 脈打つ激痛に意識が朦朧とする。聖なる力を纏った少女が最後の力を振り絞って腕を掲げ、その頭上に巨大な光球を生み出すのが、霞んだ瞳にぼんやりと映る。それが自らを聖地に封じ込めるために開かれた扉であることすら、すでに獣と化した彼には分からなかった。だが、魔獣は激しい憎悪を瞳に込めてその光を睨めつける。あれは危険なものだと、本能がそう訴えていたのだ。
 ――おのれ、おのれ、おのれ! 世界のすべてを呪い、彼は牙を剥いて唸る。光輝くその扉は急速に大きさを増していき、力に溺れた魔獣を飲み込もうとそのあぎとを大きく開いた。
 ――と。不意に、ねじくれた角の下にやわらかな温もりが触れた気がした。
 殺意と怨嗟に煮えたぎっていた彼の魂が、水を打ったように静まり返る。痛みが走るのも構わずに瞳を動かすと、そこには一人のちっぽけな女の姿があった。
 女は魔獣の傍らに寄り添いながら、不安げに表情を強ばらせて光を見つめている。その横顔に、わずかながら覚えがあった。この女に対する殺意が欠片も感じられないのは、そのためだろうか。
 鈍った獣の思考能力では、彼女の名前も、彼女が自分にとってどんな存在であったかも思い出すことができない。ただおぼろげな既視感と奇妙な慕わしさだけが、彼の胸に残っていた。
 女がおもむろにこちらに目を向けた。静かで穏やかな眼差しが、まっすぐに魔獣の瞳を覗き込む。――ざわり、とたてがみが総毛立った。
 彼は動かぬはずの腕を地につき、気力で上体を持ち上げる。武器を持つだけの力はもうない。異様に重たく感じる双剣から手を離し、丸太のような腕を振り上げる。
 ――遠ざけなければ。
 魔獣は胸の内の焦燥が命じるままに、腕を大きく振り薙いだ。妙に軽い手ごたえと共に、小さな体が弾き飛ばされる。地に叩きつけられたその女は、荒れ地を転がってようやく崖の淵でその動きを止めた。痛みを耐えているのだろう、緩慢な動作で腕をついた彼女は、なんとか顔を上げてこちらを見やる。遠目からでも手に取るように分かる困惑と絶望の眼差しに、彼は奇妙な満足感を覚えた。
 白い光が急速に膨張する。それは魔王の生み出した闇を一色に染め抜いたかと思うと、瞬く間に獣の巨躯を飲み込んで――。

「我ながら愚かよな」

 何もない空間に封じられて見えなくなった『在りし日の未来』に、ガノンドロフはただそう呟いた。勇者に敗れ、自我を失い、憎悪に任せて力を暴走させた挙げ句無惨に封じられた。のみならず、自らの掌中に飛び込んできた蝶すらも安易に手放すとは。
 嘲笑しようとしたガノンドロフは、だが思い直してわずかに眉を寄せる。魔獣へと変じて理性を失った自分が、衝動的にあの女を――ナズナを己から遠ざけた。殺すでもなく、盾にするでもなく、迫る危険から守ろうとしたのだ。……それが何を意味するか、今のガノンドロフに分からないではなかった。
 恐らく、正気を取り戻した『未来』のガノンドロフは己の行動の意味を理解することはできないだろう。自分が彼女にどのような想いを抱いていたかさえ、知ることはない。その答えにたどり着く手がかりは、時の彼方に永遠に失われてしまった。彼は勇者と王女への憎悪に身を焼かれつつ、穏やかな過去のひとときを永い時の中に霧散させていくのだ。
 ……仮に。万が一にもあり得ないが、仮に同じ状況に置かれたとしたら、自分もまた同じ行動を選ぶのだろうか。あの男と同じように、ナズナを守ろうとするのだろうか。そうして流れゆく時のままに、彼女を忘却の彼方へと葬り去るのだろうか。
 そこまで考えて、彼は否定をする。――いいや。同じ『ガノンドロフ』ではあるが、自分とあの男はすでに道を違えている。だからこそ、こうして夢として他人事のようにあの男を見ることができているのだ。
 ――オレはあの女を守りなどしない。あれがどれだけ泣き叫んで嫌がろうと、その腕を掴んで地獄の底へと引きずり込んでやる。

「貴様が取りこぼしたもの、オレがいただいていくぞ」

 ガノンドロフは白い闇に――その彼方にいるはずの己に背を向ける。その双眸に、魔盗賊らしく悪辣な嘲笑を浮かべて。




 今のは、誰の夢だったのだろう。瞳を瞼の裏に閉ざしたまま、ナズナはぼんやりとそんなことを考えた。七年後のガノンドロフか、今を生きるガノンドロフか、どちらかの夢に潜り込みでもしたのだろうか。
 ……いや。それを苦笑混じりに否定したナズナは、緩慢な動作で瞼を持ち上げた。それにしては、こちらの願望が勝ちすぎている気がする。やはり、自分の頭が作り出した夢だと考えるのが妥当である。
 深く息を吸った彼女は、喉にいがらっぽさを覚えて顔をしかめる。まるで何時間も泣き叫んだ後のように全体が腫れぼったい。だがそれも当然だろう。元々あまり大声を出さない性分だというのに、昨夜散々大声で喚かされたのだから。

「……あ」

 不意に頭の中に昨夜の光景が甦って、ナズナは思わず声をこぼす。それは自分の喉から出たと思えないほど酷く掠れたものだったが、そんな些細なことに構っている余裕などなかった。
 素肌にざらついた手のひらが這い回る感覚、中心を深く穿つ鈍い痛み、それを凌駕する気も狂わんばかりの悦楽、混じり合う吐息と汗の臭い、自分を捉えて離さない一対の眼差し――。ひとつひとつの記憶が鮮烈に脳を貫き、四肢の感覚がふわふわと現実味を失っていく。まるで記憶に支配されてしまったかのような全身の火照りを持て余しながら、ナズナはゆっくりと一糸纏わぬ己の体を見下ろした。
 そうだ――そうだ、自分は。

「随分と遅いお目覚めだな、ナズナ」

 痛む喉が音のない悲鳴を上げ、ナズナはシーツを体に巻きつけながら振り返った。寝台の縁に腰かけたガノンドロフを視界に入れた彼女は、その瞬間くらりと目眩を覚える。――上裸は反則だ。
 褐色の肌を押し上げる、隆々とした筋肉。一分の隙も無駄もなく鍛え上げられた肉体は鋼のようであり、またしなやかな獣のようでもあった。それを惜し気もなく見せつけられて、ナズナは顔を真っ赤に染め上げる。……昨夜、自分はあれに触れていたのだ。熱い肌に接した指から伝わる力強い躍動を思い出し、彼女はシーツを引き上げて表情を隠した。

「今さら何を隠す必要がある」
「だって――」

 恥ずかしいんだから仕方ないじゃないですか。そう反論しようと口を開いたナズナは、だが砂でも飲み込んだかのような痛みにたまらず咳き込んだ。ガノンドロフは呆れ果てた目つきで鼻を鳴らし、サイドテーブルに置いてある杯を指差す。随分と用意のいいことだ。ナズナはシーツを体から離さぬよう意識しながら、慎重にそれを手に取る。

「ん、んん……あー、あ」

 喉を少しずつ潤し、短い発声を繰り返してしゃがれた声を調整する。なんとか聞き苦しくない程度に声が戻ったのを確かめた彼女は、その視線をガノンドロフに恐る恐る戻す。――やはり、目の毒だ。露になった彼の肉体を見ていると、昨夜の狂態を嫌でも思い出してしまう。まざまざと脳裏に再生される記憶に心身が削られていくような肩身の狭さを感じながら、ナズナは口を開く。

「あ――ありがとう、ございます」

 虫の羽音のような小さな声で礼を伝えたナズナを、ガノンドロフはだが続く言葉を求めるようにじっと眺めている。ナズナはその眼差しに居心地の悪さを覚えて眉根を下げた。……今、何を言うべきなのだろう。己の醜い一面を、よりにもよって死んでも見られたくなかった想い人に知られてしまった時。その醜さを受け入れてくれた彼と、共に朝を迎えた時。――どんな言葉が、それにふさわしいのだろうか。
 顔を耳まで真っ赤に染めたまま沈黙するナズナを、ガノンドロフは嘲るように短く笑った。

「よもや、貴様の中にあのような獣性が存在していたとはな。その人畜無害な面の裏に、よくも今まで押し込めていたものだ」
「う、あ、あんまり、抉らないでください……」

 ナズナは自分の情けなさに低く呻いて体を小さく縮こまらせる。盛られた媚薬に自制心をいくらか削られていたにしても、一時の怒りに任せて自らすべてを吐き出してしまった。嫉妬、執着、傲慢、独占欲――黒く濁った、女としての醜い顔を見せてしまったのだ。下手をすると、自ら衣服を脱ぎ捨てて裸身をさらけ出すよりもよほど恥ずかしい。
 確かに、受け入れられはした。ナズナがひた隠しにしてきた感情を、彼は真正面から見据えて、なおかつ受け止めてくれた。『結果良ければすべて良し』であることは十二分に分かっている。……だからと言って、それが慰めになると思ったら大間違いである。

「ううぅ、みっともない、はしたない、恥ずかしい……」

 ナズナは情けなさのあまり、身を隠すように縮こまらせ、手の中のシーツに真っ赤な顔を埋める。もういっそのこと、このまま小さくなり続けて消えてしまいたい。そうすれば、この羞恥心からも逃れることができるだろう。

「では撤回でもするか。今ならば、貴様の醜態を記憶から消してやらんでもないぞ」

 ナズナの呻き声がぴたりと止んだ。一拍置いてその顔が持ち上がり、ひたとガノンドロフを見据える。

「撤回、させる気でいるんですか?」

 冷たく固い声がガノンドロフに問う。こちらはすべてをなげうって彼に想いを告げたのだ。それを受け入れておきながら、ナズナの意思次第でなかったことにできるくらいに、彼にとってその決意は軽い存在だとでも言うのか。
 シーツを握り締める指先が白く強張る。もしも、本当にそうであったとしたら――。
 直後。にぃ、とガノンドロフが目を細めた。

「その眼だ」

 はっとナズナは瞬く。――やってしまった。まさか、一度ならず二度までも彼の前で失態を犯してしまうとは。どうやら昨夜盛大に弾け飛んだタガが、まだ戻りきっていなかったらしい。……この男はそれを見抜き、利用したのだ。上っ面の理性を剥がし、ただナズナの『顔』を見るためだけに。どこまでも人を虚仮にした男である。彼女は悔しさに眉を寄せ、ガノンドロフを睨みつける。

「本当に性格悪いんですから」
「戯けたことを。その性格の悪い男を好いたのは貴様だ」
「……ええ、そうですとも」

 ナズナは短くため息をつき、次いでまっすぐにガノンドロフを見据える。

「でも、そう仕向けたのはガノンさんです」

 ――ただ、共にいたい。初めに抱いていたのは確かにそんな、ほんのささやかな願いのはずだった。その想いはいつの間にやら大きく膨れ上がり、ナズナの逃げ道を奪ってしまっていた。
 彼女は膝を使ってガノンドロフの元へとにじり寄り、座っていてなおも高い位置にある彼の瞳を覗き込む。この期に及んで、なおも面白がるような光をたたえてこちらを見下ろす瞳を。
 この眼差しの奥に宿る関心が、ナズナに希望を捨てることを許さなかった。……彼が、ナズナの内に潜む獣をここまで育てたのだ。

「だから撤回なんてしません。頼まれたって、してやるもんですか」

 白い指が伸び、その目元に触れる。ガノンドロフが瞬きをすると、指先にその微かな震動が伝わってきた。

「見てください。私のいいところも、綺麗なところも、悪いところも、醜いところも、みんな」

 ガノンドロフはナズナの瞳をじっと覗き返している。その濃い金色の虹彩に闇を塗り固めたような瞳孔に、自分の姿が映っている。
 ――醜い顔だ。口元は独占欲に歪み、眉は怒りに燃え、瞳は粘つく執着に濁っている。こんなみっともない姿を見られているのだと思うと、何もかもを放り出して顔を覆って逃げてしまいたくなる。だが、それだって紛れもなく自分の一部だ。彼に捧げると宣言した、その一部なのだ。
 ……だから。

「みんな暴いて、その目に焼きつけてください」

 責任を取って、すべてを受け取って――そして、決して忘れないで。己の内側で瞳を光らせる獣が命じるまま、彼女は浅ましい願いを彼に囁いた。
 ――ふっ、とガノンドロフの口の端が持ち上がる。かと思うと、瞬く間にナズナの顔との距離を詰めてきた。急速に近づいた顔に、ナズナは思わず呼吸を止める。

「責任を押しつけるだけでは飽きたらず、オレに手間までかけさせるつもりときた。随分と大きく出たものだな、ナズナ」
「だ、だって、見られたくないんですもん」

 ガノンドロフの眉が訝しげに寄せられる。それを目にしたと同時に、ナズナの背がすうっと冷たくなった。相手からすると凄んでいるつもりはさらさらないのだろうが、間近でこの疑いの表情を向けられるのは心臓に悪い。

「ならば、暴けなどと言わねばよかろう」
「それはそうなんですけど、でもそれじゃダメでして、えっと、つまり……」

 見られたくないのならば、ひたすらに隠し続けていればよい。見ないでほしいと願えばよい。……彼の言うことはまったくもって道理だ。だが、そんな道理が通らないほどに、ナズナの感情は複雑に入り組んでいた。
 ――慕う男に自分の裏側を見られるのは死んでも嫌だ。けれど、彼にはそんな一面を含めて余すところなく自分を見てほしい。そんな相反する願望が喉元でせめぎ合っているのだ。言葉など出てこようはずもない。
 ガノンドロフはしどろもどろになるナズナを見下ろし、呆れ混じりにため息をついた。

「一言だ」

 寝台がぎしりと軋む。ガノンドロフのざらついた固い手のひらがナズナの裸の肩を無造作に掴み、その小さな体を震わせた。

「何が言いたいのか、一言にまとめろ」
「む、無茶言わないでください、そんな」
「なんだ、貴様の頭はスタルフォスか?」

 暗に頭が空っぽだと揶揄されて、ナズナは情けなく眉根を下げた。先程から自分が要領を得ないことばかり言っているのは自覚している。だがこんなごちゃごちゃとした感情を、たった一言に凝縮するなど――。

「出来ぬとは言わせぬぞ。貴様の中で、とうに答えは出ているはずだ」

 ガノンドロフの金色の瞳がひたとナズナに固定される。雑多な思念を掻き分けて最奥に根ざしたものを引きずり出そうとするその眼差しに、彼女は操られるように口を薄く開き――ふは、と気の抜けた吐息混じりの笑みをこぼした。
 いくらナズナ自身が求めたとはいえ、よりにもよってこの言葉を『暴いて』言わせようとするとは、やっぱり彼は意地が悪い。――だが、とナズナは目を細めて幸せそうに微笑む。
 だがそれは、ガノンドロフが自分を求めている何よりの証でもあった。

「それじゃあ、改めまして」

 ナズナは寝台の上に脚を折り畳んで居住まいを正す。シーツで裸身を隠しながらというなんとも格好のつかない姿ではあったが、それでもいくらかは気分が引き締まる。……気がする。
 軽く咳払いをして、頬を火照らせる照れ臭さを誤魔化す。そうして自分の答えを待つガノンドロフの瞳をまっすぐに見上げたナズナは、長年胸に抱きつつもまだ一度も口にしたことのなかった言葉をそっと紡いだ。複雑に絡まり合った願望の、どろりと黒く濁った情念の、それらを覆い隠していた意地の――すべての根源である、その想いを。

「愛しています、ガノンさん」

 ひとひらの言の葉はどこまでも透き通って美しく、そのやわらかな響きに満足したようにガノンドロフは笑みを深めた。





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