魔王に捧ぐ硝子の花 | ナノ

 ナズナの長い話を聞き終えたゼルダ姫は、静かに瞳を開いて微笑んだ。

「つまり、あなた達は時を越えて七年後のハイラルを救い、再びこの時代に戻ってきた――ということなのですね」

 全てを理解して微笑む彼女に、ナズナは少しばかり驚いた。二つの時代を行き来するリンクの冒険は、話の筋も突飛でどうにも現実感が薄い。下手をすると、ただの子供の作り話だと一笑に付される可能性だってあった。
 そんな夢物語のような冒険譚にどうにか現実味を持たせようと、ナズナは理屈や知識を駆使し、時には図解を交えつつ言葉の限りを尽くして説明した。そのお陰ももちろんあるだろう。だが、ゼルダはこの幼さでナズナの語る言葉の意味を正確に理解し、しかも真実であると受け入れたのだ。さすがは知恵のトライフォースに選ばれる器なだけのことはある。

「その通り。言うまでもないだろうけど、リンク君の手にある勇気のトライフォースがその証拠だよ」

 ゼルダとインパは揃って頷いた。彼に宿った力が本物であることは、ナズナがこの部屋に来るより先に確認していたらしい。
 リンクは真剣な眼差しでゼルダを見つめる。

「俺達は未来を知ってる。だから、この時代でガノンドロフが悪事を起こす前になんとかしに来たんだ」
「そのための情報は、みんな私が持ってる。彼が蜂起する時期も、反旗を翻す前後の行動も――今、どんな準備をしているかも」

 ガノンドロフと共に封印されると決めた日から、ナズナは様々な人物に『その日』の前後と七年間の彼の行動について聞き回った。城下町から避難したハイリア人、ガノンドロフと共に城を制圧したゲルド族、虐げられてきた小さな村の人々。消えゆく自分に代わってリンクに伝えてもらおうと、彼女は全ての情報を紙に書き留めていた。あまりにも詳細に書きすぎて伝記と呼んでも差し支えない文章量になってしまったが、そこは愛ゆえである。
 そんな彼女の努力の結晶は、ガノン城崩壊のどさくさにまぎれて失われてしまった。それでも、その内容は一字一句違わず全て頭の中に入っている。
 ナズナの言葉を聞いたインパの眉が開く。

「なるほど。ゼルダ様、もしその情報の確証が取れたならば……」
「そうですね、インパ。これでガノンドロフは追放に――いえ、彼はあまりにも危険すぎます。事が明らかにされた場合、恐らく処刑は確実でしょう」

 ――処刑。幼い少女が発するには残虐すぎる言葉に、ひやりとナズナの背筋が凍る。呼吸を一瞬止めた自分を、リンクがちらりと見たのが分かった。

「二人とも、ありがとうございます。私は間違った判断をして、危うくハイラルをガノンドロフに明け渡すところだったのですね。未然に防ぐことができて、本当によかった」

 ゼルダはやわらかな笑みで感謝の言葉を述べる。心の底から安堵したような彼女の表情に、ナズナは心がじくじくと痛むのを感じた。――これから自分は、彼女の喜びと感謝の気持ちに水を差さなければいけないのだ。

「……その、ゼルダちゃん」

 切り出した声が微かに震える。

「お願いが、あるんだけど」
「お願い、ですか?」

 きょとんと瞬いたゼルダは、すぐに納得したように頷く。恐らく、有益な情報に対する対価を求められたという形で認識したのだろう。七年後のゼルダに幼少から王族としての教育を受けていたと聞いてはいたが、いざこういった反応を前にするとやはり戸惑ってしまう。
 ナズナは唾と一緒にその違和感を飲み込み、言葉を続ける。

「私が持ってる知識は、全部あげる。だから、その代わり――少し待って欲しいの」
「待つ? だが貴殿らの言うに、あの男が事を起こすまでそう時間はない。然るべき理由を聞かせてもらえるか?」
「えっと……その、ですね」

 インパに問いかけられてナズナは口ごもった。背中に嫌な汗を感じる。決して強い口調ではないが、内容が内容なだけに詰問されているような気分になってくる。
 ――これを聞けば、彼女達はきっとナズナを軽蔑するだろう。いや、軽蔑されるだけならまだマシだ。下手をすると、国家に仇なす人物だと投獄される可能性だってある。何せ、彼女はこれから国を滅ぼそうとする大悪党を殺させないための取引をしようとしているのだから。
 七年後のゼルダが文句を言いながらもこちらの恋心を受け入れてくれたのは、それはすでにガノンドロフが魔王になっていたことに加えて、彼が封印されることを前提として話を進めていたからだ。
 一方で、『今』は話が違う。こちらは国や大勢の国民の平和な未来がかかっているのだ。たった一人のわがままのためだけに、彼女達が国の安全を疎かにすることはできないだろう。
 そんなことをぐるぐる考えていると、隣に座っていたリンクが突然立ち上がった。

「あーもう、じれったいなぁ! ナズナ、そういう時は素直にガノンドロフのことが好きだって言えばいいだろ!」
「ちょ、リンク君! いくらなんでも直球すぎだって!」

 狼狽したナズナは、立ち上がった拍子に思わず椅子を蹴倒してしまう。がたんと大きな音が静かな部屋に響き渡るが、そんなことを気にする余裕は彼女にはなかった。
 まさか、こんな雰囲気もへったくれもない形で恋心を暴露される羽目になるとは。ナズナ自身も雰囲気ブレイカーの自覚はあるが、リンクはそれを上回る猛者であったことをすっかり忘れていた。
 ぐずぐずしていた自分が悪いのは百も承知だ。だがせめて、せめてそっと名前を呼んで背中を押す程度に留めてほしかった。こんな彼を唯一叱り、諌めることのできたナビィが切実に恋しい。
 恐る恐る二人の反応を伺ってみると、彼女達は目を真ん丸にしてまじまじとこちらを見つめていた。そのまま数秒の時が流れ、先に我に返ったインパが眉を寄せて考え込んでから気遣わしげな眼差しをこちらに向けた。

「すまんが、その、なんだ。正気か?」
「……正気です。ええ、正気ですとも」
「なんということだ……。先の冒険譚以上に信じられん」

 眉頭を押さえて低く呻くインパに、ナズナは思わず乾いた笑いを漏らす。その表情に、先程までの鬱屈とした苦悩の色は一切ない。リンクが先にぶっちゃけてくれたお陰で、空気も気持ちもずっと軽くなってくれたのだ。……軽くなりすぎて風船のように弾けてしまった感もあるが、その辺りは大目に見よう。

「ありがと、リンク君。なんか吹っ切れちゃった」
「へへっ、気にすんなって」

 礼を言うと、リンクは照れ臭そうに笑った。

「うじうじ悩むなんてナズナらしくないぞ。俺の勇気ちょっとだけ分けてやるから、どーんと当たって砕けちゃえよ」
「全く、縁起でもないこと言わないでよ」

 そんな馬鹿みたいな会話をしていると、不意にゼルダが戸惑いがちに声をかけてきた。

「あなたは本当にガノンドロフを好きなのですか? あの――あの、とんでもない男を?」
「一緒に封印されたいくらい好きなんだよなー?」
「まあっ!?」

 からかうようなリンクの笑みに、ゼルダが驚きの声を上げる。ようやく彼女の年相応の表情を見られたのが嬉しくて、ナズナは小さく微笑んだ。

「そう。だから、傍にいたいの。傍にいる時間が欲しい。……お願い、できるかな」

 わがままだということは分かっている。それでも、彼女達とは協力関係を結びたかった。……最悪後ろ楯を得られなかったとしても、ガノンドロフに直接接触すれば傍にいることはできるだろう。だがそれは、この二人と完全に敵対関係になってしまうことを意味していた。
 覚悟をしてこなかったわけではない。いざとなれば、すっぱりと思いを断ち切ることもできる。ただ、一度は友人だと思った彼女達だ。せめて本当にどうしようもなくなるまでは、諦めることなどしたくはなかった。
 ゼルダはそんなナズナの瞳をじっと見つめたかと思うと、不意に優しい笑みを浮かべた。

「あなたの想いは伝わりました。でしたら、私によい考えがあります」

 彼女はガノンドロフが翻意が明らかになることを危惧して執務中に補佐の類を一切付けないこと、これまでに何度か密偵を送ろうとしたがことごとく失敗していることを語った。

「ナズナ、あなたはガノンドロフの補佐として彼に仕えてください。そして、仕事中に得た情報を私達に流す。そうすれば、少なくとも時間稼ぎにはなるでしょう」
「なるほど……さすがはゼルダ様。ナズナどのが時間を稼いでくれれば、我々も情報の裏付けを取ることができる。それがさらに奴の身動きを封じることに繋がるはず――」

 そこから、四人で具体的な案を出し合った。ガノンドロフの出方によって異なる対応策を練り、引き延ばしが限界に来た時の取り決めも作る。途中でボロが出ないよう、ナズナ自身の設定も徹底的に叩き込まされた。
 ――そうして大方の方針が決まると、ゼルダはまっすぐで力強い微笑みをナズナに向けた。

「これなら、何が起こっても安心でしょう。頼みましたよ、ナズナ」

 幼い王女の真摯な眼差しを受けて、ナズナは微笑む。

「分かった、やってみる。……本当にありがとう、ゼルダちゃん。インパさんも」
「なあなあ、俺は?」
「ふふ、もちろんリンク君も」

 ナズナはリンクと視線を絡ませて悪戯っぽく笑い合う。そんなやり取りを見ていたゼルダが、ふっと小さく息をついた。その吐息に含まれた羨望と憧憬の感情に、二人は揃って視線を彼女に移す。

「ゼルダ?」
「ふしぎな気持ち……時を越えた影響なのでしょうか。あなた達と話していると、なんだか心が弾むのです。まるで、本当に友人ができたみたいに――」

 どこか寂しげに微笑むゼルダの言葉に、リンクが強気な笑みを浮かべた。

「何言ってんだよ、ゼルダ。俺達、もう友達だろ?」
「あっ、ずるい。私だってそう思ってたよ」
「えっ?」

 ゼルダは二人の笑顔に、きょとんと目を瞬かせる。
 ――初めは、王女に対する相応の敬意を払った振る舞いをするつもりだった。彼女は七年後のゼルダとは別人なのだから、馴れ馴れしくするのはお門違いだと。
 だがこの部屋で初めて『この時間軸の』ゼルダと顔を合わせた時、彼女はナズナを見て微笑んでくれた。まるで長きに渡って連絡の取れなかった友人と再会でもしたかのように、わずかに涙を浮かべながらも心の底から嬉しそうに。
 それを目にした瞬間から、ナズナは彼女を王女として見るのを放棄した。たとえ時間軸の異なる別人だとしても、ゼルダは紛れもなくナズナの友人なのだ。

「ゼルダちゃん。私、最終的に魔王側に行っちゃう人間だけど……それでも、友達だと思ってていい?」
「そんな心配いらないだろ、ナズナ。どんなに離れてても俺達はみんな、ずっと友達なんだから。ゼルダだってそう思うだろ?」

 二人は揃ってゼルダに手を差し出した。ナズナはおずおずと、リンクは真っ直ぐに。ほんの一瞬目を見張ったゼルダは、嬉しそうに頬を綻ばせると手を伸ばして二人の手をしっかりと握った。

「はい……!」

 頬を染めて満面の笑みを見せるゼルダを、インパが優しげな眼差しで見守っていた。




 ――ナズナの長い話を聞き終えたガノンドロフは、短く唸るとしかめっ面で彼女を軽く睨んだ。

「大方の事情は把握した。オレが貴様やあの小僧に妙な既視感を覚えた理由もな」
「信じてくださるんですか?」

 ナズナは意外に思って眉を上げた。相手が相手だから、もう少しひねくれた反応が返ってくると予想していたのだが。
 ガノンドロフは眉間にシワを寄せ、不快げに鼻を鳴らす。

「与太話だと笑い飛ばすには、貴様の話には筋が通っているからな。時を越えるなど馬鹿げた話もいいところだが、それでしか説明のつかぬことも多い」

 心底不服そうな顔で言うものだから、ナズナは思わず苦笑してしまった。だが、これで一週間前に再会した時の彼の様子がおかしかった理由も分かった。ゼルダの方もナズナやリンクに覚えがあるようだったので、原因は同じ『七年後』の存在だろう。
 だが、ゼルダやガノンドロフがこうした既視感を抱く一方で、マロンやインパはナズナ達に対して見覚えのあるような反応を全く示さなかった。それを鑑みると、もしかしたらトライフォース所持者であったこともいくらか関係しているのかもしれない。

「それはさておき、問題はその後だ」

 次に続く言葉がなんとなく予測できたナズナは、頬をかいて決まり悪げな笑みを浮かべる。ガノンドロフはそんな彼女に目を向けて眉間にシワを寄せると、げんなりとした顔で長く重いため息をついた。

「――任務の内容を自ら洗いざらい暴露する密偵がどこにいる」

 彼の呆れ果てたような眼差しを受けて、ナズナは困ったように眉根を下げた。
 相手に探られる前に、こちらの手の内や腹の内を全て明かす。一見ただの無計画な行動のようだが、ナズナやゼルダ達にも考えがないわけではない。

「一応、身を守るためではあるんですよ」

 ガノンドロフはじろりとこちらを軽く睨むと、椅子の背もたれにゆっくりと体重をかける。

「なるほどな。オレが貴様を害するのを警戒してのことか」
「そういうことです。言っときますけど、私に下手なことしたら即座にハイラル王に色々な情報が行きますからね」

 ガノンドロフは目的を達成するためなら手段を問わない傾向がある。ただでさえ怪しさ全開の存在であるナズナが秘密裏に動いているとなると、情報を吐かせるために何らかの危害を加えてくる可能性があった。
 おまけに、疑念や警戒心を抱かれてしまえば、ガノンドロフと親密になるというナズナの目的の妨げになるという危険もある。少しでも彼に近づくために頭を捻って様々な協力を取り付けたというのに、それでは元も子もない。
 変に疑われて関係をこじらせるよりは、対策を取られるリスクを背負ってでも全てをさらけ出してしまった方がずっといい。加えて、弱味を握っていると匂わせることで相手を牽制することもできる。
 そうやって伏線をいくつも張り巡らせなければならないほど、ガノンドロフは危険な存在だった。……因みに七年後の彼に対して無防備でいられたのは、向こうがこちらに欠片も警戒を抱かなかったことに加えて、抵抗する気がわかないほどに相手が強大すぎたからである。

「ふふ、あなたのやり口は大体分かりますから。どうせ洗脳して使い潰してポイしよう、なんて考えてらしたんでしょう?」
「…………」

 苦虫を噛み潰したような表情からして、どうやら図星だったらしい。……本当に危ないところだった。前もって対策を立てていた自分に、ナズナはこっそり感謝する。
 笑顔の裏でほっと胸を撫で下ろした彼女を、ガノンドロフは険しい目付きで睨んでいる。剣呑な表情から察するに、碌なことを考えていなさそうだ。
 しかし彼とて、ナズナがいなければ自分が窮地に立たされていたことは理解しているはずだ。だからこそなのだろう、こちらへの対応を決めあぐねているのが目に見えて読み取れる。その様子に、ナズナはちょっぴり申し訳なくなって眉根を下げる。

「その……ホントにごめんなさい、色々とご迷惑をおかけして。――とはいえ、私だってあなたに嫌われたくてここに来たわけじゃありませんので」

 ナズナは一度言葉を切って、やわらかく微笑む。

「いくつか、ゼルダちゃん達と約束を取り付けて来たんです」

 ガノンドロフが怪訝そうに目を細める。

「まずひとつ。私があの子達に報告するのは『勤務中に入手した情報』だけです」
「――ふむ」

 彼は顎に指を添えて小さく唸る。どうやら、こちらの言葉の意味を正確に把握したらしい。
 勤務中に入手した情報は報告する。逆を言うと、それ以外の時間に何を知ったとしてもゼルダ達には伝えないということだ。
 それを上手く活用すれば、計画を頓挫させずに進めることもできるはずだ。……ひょっとしたらそういった時間帯はインパが目を光らせていたりするかもしれないが、それはナズナの預かり知らぬところである。

「ふたつ。仕事は真面目にやります。上司のプライバシーに踏み込むことはしません」
「ほう? 随分とオレに有利な条件だな」
「あら。一緒にお仕事するなら、当たり前のことじゃないですか」

 この条件を提示した時、インパにはかなり渋い顔をされたものだ。だが、なんとしてもガノンドロフに警戒されたくなかったナズナが屁理屈をこねつつ説得した結果、彼女もなんとか首を縦に振ってくれた。ものすごく不承不承といった様子ではあったが。
 その時の表情からインパがいかにガノンドロフを毛嫌いしているかを察してしまって、ナズナは苦笑せずにはいられなかった。

「みっつ。あなたが『行動』を起こす時が来たら、私はゼルダちゃん達との関係を断ち切ってあなたに付きます」

 すると、ガノンドロフは気難しげに眉を寄せて腕を組む。

「七面倒な。そのような回りくどい真似をせずとも、今この場でオレに忠誠を誓えば済むではないか」
「ダメですよ。それじゃ、あの子を裏切ることになっちゃうじゃないですか」
「何を言う、最終的に裏切るつもりでいるのだろうに」
「これは事前に告知して許可を取ってるからいいんです」

 知性の欠片も感じられない彼女の屁理屈に、ガノンドロフが呆れたように口角を下げる。

「そういう問題ではなかろう。どういった倫理観をしているのだ、貴様は」
「あなたにだけは言われたくありませんよ」

 ナズナは思わず苦笑をこぼした。ハイラルを奪い取ろうと十年近く従順な顔でハイラル王に仕えてきた彼に、倫理観について語る資格があるとはとても思えない。
 ――それはともかくとして、これで言うべきことは全て言い尽くした。ようやく肩の荷が下りたような気分になって、ナズナはほっと息をつく。
 慎重に慎重を重ねて誰も敵に回さぬよう動いてきたが、まさかここまで上手く事が運ぶとは思わなかった。まかり間違えば双方の信用を完全に失う役回りを演じているだけに、ゼルダと対面してから今日までずっと緊張しっぱなしだったのだ。
 安堵しかけたナズナは、だがふとあることに気がついて首をかしげる。

「――ところで、信用ならないとは言わないんですね」

 客観的に見て、ナズナはどちらにもいい顔をする『卑怯な蝙蝠』だ。こうやって約束事を並べ立てても、それらが本当に守られるかどうか怪しいものである。普通なら胡散臭いと一蹴されて終わりだろう。
 ナズナの言葉に、ガノンドロフは面食らったように目を見開いた。言われて初めて気がついたらしい。彼はしばらく視線を泳がせて考え込むと、憎々しげに舌打ちをした。

「貴様といると、どうも調子が狂う」
「ふふ、そうですか」

 不機嫌な様子の彼に、ナズナは穏やかに笑う。こちらのガノンドロフが七年後の自分の影響を受けているのだとすると、少なくとも幾らかはあちらの彼に信用されていたと捉えてもよさそうだ。彼の気持ちは最後まで知ることが叶わなかったが、その片鱗を知ることができたような気がして、彼女は嬉しそうに目を細める。
 微笑んで遠い未来に思いを馳せていたナズナは、そういえばと思い出したように口を開く。

「そうそう、最後に大事なこと忘れてました。……その、私的な空間では、ガノンさんって呼んでも構いませんか?」

 おずおずと申し出るナズナを半眼でじっと睨んで、ガノンドロフは軽くため息をつく。

「……好きにしろ」
「やった! ふふ、ありがとうございます」

 ナズナはグッと両拳を握って会心の笑みを浮かべた。まずは親しくなるための第一歩、愛称で呼ぶ許可を得ることは成功である。これまでずっと『ガノンさん』と呼びたいと思ってはいたのだが、前回はついぞその機会を作れなかった。なので、今回は反省して早々に切り出したというわけだ。
 ――たかが呼び名ひとつだ。そうは思うものの、自分でも馬鹿らしくなるくらいに嬉しい。たったこれだけで、彼の心に一歩近づいたような気さえする。興奮さめやらぬ紅潮した頬のまま、ナズナはどきどきする胸に手を当てて想い人に笑いかけた。

「それじゃあ、改めて。これからよろしくお願い致しますね、ガノンさん」

 ガノンドロフはそんなナズナの満面の笑みをどこか不可解そう顔つきでじっと見下ろしていたが、やがて不服も露に鼻を鳴らして目をそらす。
 敵でもなければ味方でもない。確かな上下関係があるかと言われればそんなこともないし、ましてや友人や恋人などという親しい間柄でもない。そんななんとも表現しがたい微妙な関係の二人が送る日々は、今こうして幕を開けたのだった。





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