魔王に捧ぐ硝子の花 | ナノ

 ナズナは執務室に入ると、部屋の奥にいるガノンドロフの姿を確認した。彼はナズナが席を外した時と同じく、執務机についてひたすら難しい顔で書類をチェックしている。そのあからさまな渋面に、彼女はふっと頬をゆるませた。
 ガノンドロフがあまり書類仕事を好まないと知ったのは、補佐として勤め始めてすぐのことだった。どうやら読み書き自体が嫌いなわけではなく、各方面に気を遣った言い回しや無意味に遠回しなやり口が面倒で仕方ないらしい。そんなことに頭を回している暇があったら、力尽くで言うことを聞かせた方が手っ取り早いのだそうだ。……七年後のハイラルが荒廃していた理由の一端を垣間見たような気がする。

「ガノンドロフ様、お茶をお持ち致しました」

 運んできた紅茶を机に置くと、ガノンドロフが気づいたように顔を上げた。

「ああ。……早いな、そんな時間か」
「お疲れさまです、ガノンさん。休憩に入りましょう」

 彼はひとつ息をつくと椅子の背もたれに体重を預け、ごつごつとした太い指で優雅にティーカップを持ち上げる。ナズナは穏やかな微笑を浮かべ、茶がこぼれても問題ないように紙を脇によけた。
 カップを傾けながらその様子を眺めていたガノンドロフが、ふと思い出したように呟く。

「存外、馴染むものだな」
「何がですか?」

 聞き返すと、ガノンドロフはふんと鼻を鳴らす。

「貴様のことだ。初めはただオレの後を着いて回っていただけの女が、ほんの十日かそこらでよくぞここまでそれらしく振る舞えるようになったものだ」
「あら、ありがとうございます。……といっても、まだほんの雑用くらいしかできないんですけどね」

 ガノンドロフはナズナに特別何かを命じることも指示することもない。そもそも、一人で長年この職務をこなしてきたのだ。そこにナズナが補佐として入ってきたからと言って、右も左も分からぬ彼女の助けが必要となるはずもなかった。そのためナズナはガノンドロフの言った通り、最初の数日間はひたすら彼の後を着いていくことしかできなかったのだ。
 だが、そんなことではただの人形と変わらない。ナズナはガノンドロフの行動を逐一手帳に書き留め、彼と彼の周辺を徹底的に観察し、やがて自分にできそうなことに少しずつ手をつけ始めた。
 執務室の掃除、書類と手紙の整理、仕事の準備や後片付け――時折余計なことをして冷たい叱責を食らうこともあったが、そんなことでめげるナズナではない。彼女は相手の反応を見ながら、彼の目を盗むようにして徐々に仕事の手を広げていった。この休憩時のお茶汲みもその一環である。
 まだまだ補佐というよりもただの『ちょっと便利な部下』程度でしかないが、今はまだそれでも構わない。好いた男の傍で何かの役に立てていると思うと、それだけで得も言われぬ幸福感が込み上げてくるのだ。
 ナズナはいつものように椅子をガノンドロフの近くに寄せると、自分に用意していたもうひとつのティーカップを口元に寄せる。温かな紅茶の渋味に、彼女は肩の力を抜いてほっと息をつく。……と同時に、そわそわと落ち着かない気持ちになってきた。
 ――自分ではそれなりに上手く淹れられたとは思うのだが、どうにも自分の味覚に自信がない。七年後のゼルダに「なんでも美味に感じる舌」だと評されたことがあるので尚更だ。
 自分が美味しいと感じていても、相手を満足させられないようでは補佐として失格だ。だがガノンドロフは仮にもゲルド族の王であり、ハイラル王の重鎮でもある。きっとこれまで数々の美食を口にしてきたはずだ。無論、舌も肥えているに違いない。……そんな相手を満足させることなど、果たして自分にできるのだろうか。
 ガノンドロフの反応を伺おうとそっと目を向けると、思いもかけず金色の瞳と目があってどきりと心臓が跳ねた。人の悪いことに、どうやらじっとこちらを観察していたらしい。体を硬直させたナズナの反応を目にして、彼はすっと瞳を細めて薄笑いを浮かべる。何か面白いものでも見つけたかのような――もっと言うと、企んでいそうな顔である。

「な、なんですか?」
「なに、たまには飴をくれてやろうと思ってな」
「飴……もしかしてご褒美ですか?」

 首をかしげると、ガノンドロフはにやりと唇を歪めた。あからさまに悪どいその笑みに、ナズナはじわりと嫌な予感を覚える。それが伝わったのだろう、彼はくくっと喉の奥で笑う。

「そう勘ぐるな。部下の働きを評価し、ねぎらってやるのは上に立つ者の務めだろう。……ふむ。せっかくの機会だ、ここは貴様の望む褒美を与えてやろう」
「わ、私が決めるんですか」

 突然決定権を委ねられて、彼女は戸惑いながらも眉を寄せて考え込む。

「……どうしましょう。いきなりそんなこと言われても、今この状態がご褒美みたいなもんですからねぇ……」

 正直に言って、ガノンドロフの補佐という仕事は非常に役得だ。なんと言っても、書類仕事をする伏し目がちな眼差しや高度な駆け引きを飛び交わせながら交渉する不敵な仕草、そして政敵を凶悪な笑みで威圧する彼の姿を特等席で見られるのだ。
 特にハイラル王に慇懃な敬語を使うガノンドロフは目にする度に悶え――もとい、感動で身が打ち震えてしまう。この男にあんな誠実な態度で忠誠を誓われたら、落ちない人間はまずいないだろう。ハイラル王も気の毒である。
 そんなこんなで彼の傍にいるだけで毎日が満たされているものだから、欲しいものと言われてもそうそう思い付くはずもない。うんうんと首を捻るナズナをにやにやと眺めながら、ガノンドロフは口を開く。

「なんだ、言わぬということは要らぬのか」
「ち、ちょっと待ってください。今考えてるとこなんですから」
「オレもそう気が長い方ではない。この紅茶を飲み干す頃には気が変わっているやもしれんな」

 ガノンドロフはカップを傾けて、もうほとんど紅茶が残っていないことをわざとらしく見せつけてくる。何もそんなに急かさなくてもいいだろうに。ナズナは慌てて考えを巡らせる。

「えっと、そうですね……じゃあ、美味しいもので。そんなに高くなくていいので、ガノンさんが美味しいと思うものが食べたいです」

 ハイラル城下町には、食事を摂ることのできる店が数多くある。旅の最中リンクと共に色々と食べ歩いてはいたものの、まだまだ入ったことのない店も多い。この機会に、舌の肥えたガノンドロフにいいところを紹介してもらおう。ついでに彼の好物のリサーチまでできて一石二鳥だ。咄嗟の思い付きにしては、なかなかの名案である。
 だが、ガノンドロフはそうは思わなかったらしい。不満げに鼻を鳴らすと、腕を組んでじろりとこちらを睨んできた。

「そこで色気より食い気を選ぶとはな。貴様、あの『宣戦布告』はどこへやったつもりだ? まさか忘れたなどとは言うまいな」
「うっ……」

 ガノンドロフの詰問口調の低い声に、ナズナは返答に詰まって小さく呻く。……別に忘れていたわけではない。だが、彼女がこの十日間ガノンドロフに対してなんのモーションもかけていないことは事実だ。
 初めに頭と人脈を駆使して彼の部下に収まったはいいものの、実のところそこから全く二人の関係は進展していなかった。彼に一方的な矢印を向けているナズナが踏み込もうとしないのだから、それも当然である。

「色仕掛けをしろとまでは言わん。だが、ここまで何もないと貴様が本気かどうか疑わざるを得んぞ」
「か、返す言葉もございません……」
「もう一度機会を与えてやろう。――貴様の望むものはなんだ?」

 そう静かに問いかけて、ガノンドロフはひたとナズナを見据える。こちらを射すくめるような強い眼差しから逃げるように目を軽く伏せ、彼女は再び思いを巡らせる。
 ……考えてみれば、この『ご褒美』とやらには色々と活用のしようがある。例えば、彼に自分の望む言葉を送ってもらうことなど朝飯前だろう。もっと強気に出れば、抱擁や口づけなどをねだることもできる。果ては、それ以上に過激なことを要求するのも不可能ではないわけで――。

「どうした、顔が赤いようだが」

 にやにやと笑うガノンドロフを、ナズナはむすっとしながら軽く睨む。

「……イジワルですね」

 するとガノンドロフは顎を上げ、小馬鹿にしたように軽く笑った。

「何を的外れなことを。貴様のあまりの不甲斐なさを見かねて、このオレ様自らが発破をかけてやっているのだぞ。むしろ感謝されて然るべきだ」
「うう……分かってますよ、そんなこと」

 彼の言うことももっともだ。いくら今の状態でも十分幸せであるとはいえ、これで満足してはいけないことくらいは分かっている。ナズナはガノンドロフの部下ではなく、彼の隣に立つことを目標としているのだから。
 現状を変えるには何か行動を起こさなければならない。……だが、いざそう決意してみても、どうもあと一歩のところで踏ん切りがつかないのだ。ガノンドロフがナズナにどういった感情を抱いているのかさっぱり分からないせいで、余計に二の足を踏んでしまう。やはり、リンクから勇気を分けてもらうべきだったかもしれない。
 ここは思い切るべきか、それとも時期尚早だといったん身を引くべきか。思い悩んでも一向に結論が出せず、ナズナは不貞腐れたような眼差しでガノンドロフを見やった。

「それじゃあ、ですよ。例えば私がその、そういうお願いをしたとして……ちゃんと聞き入れてくれるんですか?」
「さてな」

 彼は不敵に目を細めてみせた。瞳の色と相まって、その目付きは獲物を狙う猛禽類のようだ。

「だが、そうだな……貴様の誘い方によっては、相手をしてやろうという気が起こるやもしれんぞ」

 全身を値踏みするように眺めてからの、女心を容赦なく踏み砕く発言である。わざとらしいほど無神経な彼の言葉を批難する気も起きず、ナズナは思わず苦笑を漏らしてしまった。こうも堂々と失礼なことを言われてしまうと、いっそ清々しくさえ感じる。

「だったら、やめときます。ご褒美はやっぱり、美味しいものでお願いしますね」

 今の言葉で、彼が自分をどんな目で見ているかがよく分かった。
 好意も露に自分にまとわりつく、都合のいい女。彼にとって、ナズナはまだまだその程度の存在でしかないということだ。
 彼女が求めているのは、そんな刹那的な感情に依った関係ではない。いくら焦がれた相手とはいえ、ガノンドロフの挑発に乗って事に及ぶのは悪手だ。――焦る必要はない。もっと時間をかけて、二人の関係を育んでいかなくては。
 ナズナは吹っ切れたように微笑んで、ぬるくなった紅茶に口をつける。そんな彼女の態度が気に入らなかったのか、ガノンドロフは不服そうに鼻を鳴らした。

「貴様という女は、つくづく理解できぬな」
「そうですかね? 結構分かりやすい方だと思うんですけど」

 ナズナは首をかしげて笑う。彼女の行動や思考回路は恋する乙女そのものだ。たまに友情や人間関係が絡んでおかしな具合にねじ曲がったりするものの、『ガノンドロフが好きだ』という基本骨子は変わらない。それを把握していれば、おのずとその言動の意味についても分かってくるはず、なのだが――。
 はた、とナズナは思考を止めた。まさかとは思うが、もしかしたらこの人は……。
 じっとガノンドロフを見つめていると、その視線に彼は訝しげに眉を寄せる。

「なんだ。間抜けな顔をしおって」
「……いえ、なんでも」

 ほんのわずかな迷いを飲み込んで、ナズナはいつものように微笑んだ。知り合ってまだひと月も経たないのに、あまり立ち入ったことを訊ねるのはよろしくない。それに、プライバシーに踏み込まないと宣言したのはこちらなのだ。それを自分から破ることは、彼の信用を失うことにも繋がってしまう。
 ガノンドロフはなおも怪訝そうに眉を寄せていたが、ことさら追求することでもないと判断したらしい。煮え切らない顔をしながらも、彼はティーカップを傾けて中身を空にした。ナズナはそれを確認してから、自分もまた紅茶を飲み干す。

「そろそろ時間ですね。では、食器を片付けて参ります」
「ああ」

 言葉遣いを改めて休憩時間の終わりを告げたナズナは、カップとソーサーをトレイに戻して優雅に一礼する。短期間でインパに叩き込まれた付け焼き刃上等のマナーだが、この数日でなかなか様になってきたような気がする。習うより慣れろとはよく言ったものだ。
 彼女はそのまま踵を返し、ガノンドロフのまとわりつくような視線を背に感じながら部屋を退出した。扉を完全に閉めたところで、その口から小さな吐息がこぼれる。

「……思ってたより、難しいかも」

 ガノンドロフの言動と七年後で知った彼の過去とを照らし合わせ、ナズナはわずかな不安が胸にわだかまるのを感じた。
 ――果たして、こちらの気持ちは彼に『正しく』伝わっているのだろうか。





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