「……俺、ヘリ乗れんのか」
時計の針が九時を指したのでパチンと指を鳴らしたら、呆気に取られたような顔で二年のやつらに見られた。一人「さすが跡部様だなー」と笑っている黒羽にフフンっと鼻を鳴らす。
「……あ、あ!その、帰る前に!ヴァイオリン聞いてもらっちゃダメですか!ちょうど、こ、浩一くんにも繋がってますしっ」
そう言った夢野は金田の持っていたタブレットPCを指差していた。そこには少し照れているような表情の新垣が映っている。
そういえば、夢野は二年のやつらを名前で呼んだりすることに決めたらしい。
少しずつ人付き合いも進歩してきたのかと口角が上がった。
「アーン?いいんじゃねぇの?」
俺が頷けばすごく嬉しそうに「ありがとうございますっ!」と笑顔で頭を下げてくる。
雰囲気もやはり氷帝に転入してきたころとはだいぶ変わったなと思った。
いやそれは夢野が変わったわけではなく、俺らと夢野の距離が縮まったからだろうか。
「詩織、もう震えへんのか?」
「ふっふっふっ!光くん!もう大丈夫だよ!」
財前の台詞に偉そうにふんぞり返る夢野にくっと喉の奥で笑ってしまう。
相変わらず間抜けで面白ぇ女だ。
「じゃあ弾くね!あ、このマンション防音だから!」
んなこと誰も心配してねぇよと思ったら、石田弟が気にしていたらしい。
それからおもむろに弓を構えた夢野は、いつものへらへらした表情を一瞬にして変えた。
きゅっと結んだ唇も、真剣そのものの瞳も、全身を包み込む雰囲気が一転したのだ。
「……はっ、日吉を消したったで」
「は?夢野の演奏がうまくいったからといって、俺が消えたわけじゃないだろ……」
「まぁそれはそうだろうけど……一人だけ抜け駆けさせるわけにはいかないんだよね。……意味わかってる?」
「っていうか、俺気になってたんだけど……詩織に何をしたんだ……?その、あんなに動揺するなんて……」
「それは俺も気になってた!白状しろよ!!」
安定した演奏、確実に変わった音色。
その音を聴きながら、こそこそ話す財前、日吉、伊武、室町、切原に目を細める。
「あ?それを白状したところでお前らの立場に何か変化が起きるのか。それと……後悔するだろうからやめとけ」
それから薄く笑った日吉にフッと息が漏れた。
「は……、言うじゃねぇの」
ぼそりと漏れた台詞は何なのか。
何故俺はこんなにも痛快な気分なんだろうか。
ぐるりと見回したメンバーは、誰もがその視線を夢野に奪われている。
耳に届く心地よい音楽に聴覚も奪われて、思考や心さえも剥ぎ取られそうだ。
全員を車などに乗せて送り返したところで、既に時計の針は十時を過ぎていた。
「あ、跡部様も崇弘くんも、ありがとうございました!」
「ウス……」
「別に俺はなんもしてねぇよ」
深々と一礼した夢野に樺地が同じように一礼するのを見ながら、肩を竦める。
「それよりお前……これからが大変だぜ?覚悟できてんだろうな」
「え、あっ、は、はいっ!!私、もう真っ直ぐにヴァイオリンに、音楽に向き合いますっ」
そう大声を張り上げた夢野に、そっちじゃねぇよと声には出さずつっこんだ。
「といっても、その、ま、まだまだ未熟なので、いきなり音色が変わったり精神的なあれで影響を受けるかもしれませんが、でも、もうここまで来たら根性で!乗りきるしか!」
「はっ!根性論か……。まぁいい。逃げ道ならいつでもここに用意しといてやるよ。苦しくなったら飛び込んでこい」
とんっと自分の胸を叩いて夢野に笑ってやった。
「……は、はいっ!」
元気よく頷いた夢野に軽く手を振って樺地と一緒に車に乗り込む。
どうせお前は意味をわかってないんだろう。
それでいい。
ただ最後に、お前が飛び込む胸は俺の中であればいいと強く思った。
あの夜感じた気の迷いは、きっと俺の本音だったんだろう……。
耳に残った音色に自然と綻んでいた口元を隠すように、俺はその日生まれて初めて車の中で寝た振りをしたのだった。
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