そんな電話に耐えられるほど私のハートは強くない。結局光くんに住所も最寄り駅も教えて。
そしたらその電話から一時間もしないうちにインターホンが鳴った。
映し出されるマンションの玄関前の映像には、やはり光くんが立っている。荷物の少なさから、本当に急いで来てくれたんだと心がじわりと嬉しいと同時に重たくなった。
「……あ、あの、光くん、いらっしゃい……!」
できるだけ明るくと、部屋の中に入ってきた光くんに笑って見せる。ぐるりと部屋を見回した光くんは眉間にシワを寄せて「趣味悪っ」とだけ呟いた。
パンダだらけだけど!趣味悪くない!!
「……あぁもう馴れた。詩織と一緒に住むんならこれだらけになんのは覚悟せなあかんもんな」
「?パンダくんたちは私のものだよ」
「詩織は一回脳味噌パンダに吸われたらええねん」
耳の穴からストローさされてな、と薄く笑う光くんにぶんぶんっと首を振った。私のパンダたちが汚される!
「……で、ほんまに何があったん?」
勝手に人の冷蔵庫を開けて中を物色している光くんを二度見ぐらいしながら「何もないよ」とだけ答えた。心臓がばくばく音をたて始める。
昨日の出来事が脳裏を過り、リョーマくんと若くんの唇の感触を思い出した。
「ふーん……」
目を細めて突っ立っている私を見つめて、光くんはコップにお茶を注いで飲む。
「…………謙也さんの従兄弟からメッセージ通知きとるで」
「え?あ、後で返信する……」
忍足先輩、昨日の夜のメッセージも返してないのに……。と目線を泳がせてしまったのが悪かったかもしれない。
光くんは飲み干したコップを音をたててテーブルに置くと、そのまま椅子に腰かけた。
「……ん、じゃあ今からヴァイオリン弾いてくれや」
「……え?」
「何呆けてんねん。ヴァイオリンやヴァイオリン。詩織のことやったら、音色聞いたらわかる」
光くんの言葉に唾をごくりと飲み込んだ。
もしいつも通り弾けたら、光くんの追求は止むかもしれない。諦めてくれるかもしれない。
それならとワルキューレをケースから取り出し、ぎゅっとその大切な体を撫でた。
いつも通り、に。
いつものポジション、いつもの背筋。
腕の高さも、顎を当てている場所もいつもと変わらない。
ぐっと弓を動かす。
だけど何音か紡いでから、愕然とした。
「……何かあったんやな」
確信したような声が光くんの口から漏れる。
音色が震えていた。
正しい音を出しているはずなのに、タイミングもばっちりなのに、それでも音が違う。
か細く震えるような音色は、初めての出来事だ。いやこれはもしかしたら、人が怖くなった時期と近い音色と言った方がいいかもしれない。
「そ、そんな……ど、どうしよう。せっかく、音が良くなったと誉めてもらえていたのに……!」
「アホ。俺にしょーもない嘘つくからや」
慌てる私の頭を光くんの手がぽんぽんと撫でてくれる。
またじわりと心が温かくなって、そして光くんの顔をまともに見れなくなるぐらい心臓の音が騒がしくなった。
「……俺がそれ治したるわ」
「え……?」
突然の台詞に思わず顔をあげる。
ニヤリと意地悪そうに口角をあげた光くんの瞳と視線が絡まった。
「……せやから、俺が連絡するまでここで練習しとけや。な?」
無言でこくりと首を縦に振れば、また愉しげに光くんの目が細められる。
「準備できたら電話するわ。じゃ、後でな」
「あ……、ひ、光くん!」
颯爽と部屋をあとにする光くんの背中に急いで声をかけた。
「……っ、来てくれて、ありがとう、だよ!」
「……おん。……礼なんかもっと大切にとっとけや。後でどうせもっと俺に感謝するんやからな」
振り向きもせずそう言った光くんがすごく眩しすぎて、きゅっと唇を噛み締める。
それから閉まった玄関を見つめてから、自身の両頬をぱんっと叩いた。
ひりひりするけど、構ってられない。
光くんは全国大会が控えているのに、それでも来てくれたのだ。
だからこそ、きちんといつも通りの音を出せるよう練習しなくっちゃいけない。
ごめんねと謝る前に、大丈夫だと笑えるように。
「リョーマくんと若くんの前で動揺しないように!」
気合いをいれて何度も奏でた。
納得できるものは弾けなかったけど、それでも音はましになってはいる気がする。
お昼御飯を食べることも忘れてぶっ通しでヴァイオリンを弾いていた。
そのことに気付いたのは、光くんから『今から出てこれるか?』とメールが届いたときだった。
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