怖かった。
光くんのいつもと違う表情が怖くてたまらなかった。
今日光くんと会話したのは、白石さんがエクスタシーされた時だけである。
……何か光くんを怒らせたりしたのだろうか。
それとも光くんの機嫌がたまたま悪いだけだろうか。だったらいいのに、と切実に願う。頭の中では違うとわかっているけど、光くんが怒っている理由を聞くのが怖い。
「詩織、俺な本気で──」
「夢野っ!」
光くんが私の手首を掴んだままの手を上に上げて、炊事場の木の柱にぐっと押し付けた時だった。
驚きで見開いた目から、先ほど笑いすぎで浮かんでいた涙がポロポロと零れ落ちる。
そしてそれと同時に炊事場に飛び込んで来た若くんが、勢いのまま光くんを殴った。
「〜っ、何すんねん……!」
「お前こそ何をしていたんだっ」
どしゃっと地面に吹っ飛んだ光くんに瞠目する。私を庇うように前に立ってくれている若くんの背中と交互に見た。
「大丈夫か」
光くんを睨んだまま、私を見ずにそう言った若くんにはっとする。
若くんは何か勘違いをしているとわかった。
ごしごしと目をこすり、今にも殴り合いになりそうな若くんの背中に抱きつく。
「若くんダメ!光くん、罪ない!私、笑いすぎ泣いた!だけ!喧嘩、よくない!!」
「…………っ」
「…………ぶはっ!」
「……ぷ、あははは!」
必死に声を張り上げて叫んだら、何故か若くんが脱力したように座り込み、肩を小刻みに震わし始めるし、光くんは赤くなった頬を押さえながら吹き出すし、そして何より、何故か背後にいつの間にか幸村さんが立っていて、めっちゃくちゃ爆笑されてしまった。
……なんか解せない。
私、すごく真剣だったのに。私、本当に若くんと光くんが喧嘩になっちゃうと心配したのに。
「……財前、悪かった。俺の勘違いだったようだ」
「えぇっすわ。別に。……後から自分とこの部長さんに慰謝料請求するだけやから」
そんな会話を繰り広げながら、一応和解したらしい二人をちらちら見る。
「……ふふ、夢野さん。管理小屋まで送るよ」
二人も落ち着いたみたいだし、と笑った幸村さんに小さく頷いたら、何故か後ろから「「……ちっ」」と二人が同時に舌打ちしたのに気づいた。
え、なんなの。
もしかして私が笑いすぎで泣いたせいだとかでも言いたいんだろうか。
そもそも光くんが変なこと口走って私の手首を赤くなるまで掴んだり、くすぐったりするから悪いんじゃないか。理不尽だ。光くんなんて若くんにもう一度殴られてしまえ。
「詩織、ほんまにえぇ度胸やな」
「ゆ、ゆゆ、幸村さん!早く管理小屋に行きましょう!!」
ギロリと光くんに睨まれたので、逃げるようにその場から立ち去った。
なんか暫く光くんに近づけそうにない。殺される……!
「……じゃ、俺は行くけど……大丈夫かい?」
「は、はい」
幸村さんに管理小屋まで送ってもらい、部屋の中で私は深々と頭を下げた。
「……さっきね」
幸村さんが背中を向けて出て行こうとした足を止めて、再び私に向き直る。
顔を上げて幸村さんを見上げる。正座して頭を下げていたから、だいぶ見上げた。
「日吉が殴らなかったら、たぶん俺が殴ってたよ」
幸村さんが言うには、私は光くんに迫られて泣いていたように見えたらしい。……なんてこった。
「……でも俺が駆け出す前に、俺よりもずっと後ろにいたはずの日吉が既に殴ってた。正直、あれは悔しかったな……」
幸村さんはそう言うと、ふっと微笑んでから、ぽかんとしている私の頭にチュッと、軽い口付けを落とされた。
「な、ななな?!」
「ふふ、おやすみ。夢野さん。……最後に、一言だけ言わせて」
真っ赤になって酸欠の金魚みたいに口をパクパクしている私に向かって、幸村さんはものすごい笑顔でこう続けられたのだ。
「……俺、誰にも負けないから」
……ちゅ、中学生の中で最強なんですもんね!テニス!!と、本当は笑いながら言いたかったのに、否定されるのが怖くて声にならなかった。
50/110