「わざとらしい江戸っ子口調ムカつくからやめろ」
とりあえずぺしりと物差しで夢野の頭を叩いてから、問題集に目を通す。
俺に怒られたと思ったのか、夢野はブツブツと独り言を呟きながら同じように問題集に向かっていた。
他のクラスメートのヤツらも、必死に今更だろうと思われる悪足掻きをしている。
「…………身体はもう大丈夫なのか」
ぽつりと呟けば、夢野は恐る恐るといった感じで顔を上げた。
「……私?……大丈夫だよ?」
「そうか……」
一切夢野に視線を向けないまま、短く返す。
目で追っている数式は全く頭に入ってこない。
その理由を俺はわかっているつもりだ。
「…………夢野」
「……ん?」
短いのか長いのかよくわからない沈黙の後、俺はほぼ無意識に夢野の名前を呼んでいた。
──悪かった。
そう続けようとしてたんだろう。
あの時……夢野が倒れたあの食堂で。
俺は夢野の異変に気付かなかった。
体育の時も。
いや、その朝から隣にいたってのに。
そうだ。俺はお前の一番そばにいたはず。
だけど、夢野の異変にいち早く気付いたのは、誰でもない跡部さんで。
テニス以外でもあの人にかなわないんじゃないかと思い知らされる羽目になるとは思わなかった。
「おーし、お前らぁ。テストを始めるぞぉ」
紡ごうとした言葉は結局一音も発することなく、テスト用紙を配り始めた教員のセリフによって遮られる。
その後、俺は夢野と一言も言葉を交わさなかった。
「…………」
俺がよく訪れる場所の一つに、本館の屋上へと続く階段がある。
本来は学園七不思議の一つでも何か起こらないかと期待を込めて足を運んでいた場所だったが、今ではもう一つ意味を持っていた。
滅多に人が通ることのない階段に腰を下ろして、少しだけ開いた屋上扉の隙間から漏れてくるヴァイオリンの音色に耳を傾ける。
「……テスト期間中だぞ、馬鹿女」
呟いたセリフは誰に向けてでもなくて。
明日に控えている英語のテストの為に単語帳を開く。
……この不可解な心を整理するには、テスト期間中で良かったかもしれない。
テスト明けに控えている関東大会は、俺の下克上の場になるはずだ。
だからこそ、今の内に己の心の整理をしたかった。
……正直、悔しかった。
跡部さんよりも、他の誰よりも、アイツの異変に気づける俺でありたい。
そう強く想うのは、俺がアイツ──夢野を意識し始めているからだ。
『……お隣さんは、美人さんだった』
無意識に脳内に再生された夢野の声に、ふっと口角を上げる。
耳に届くヴァイオリンの音はいまだ鳴り響いたままだ。
「……意識したのは始めから、か」
歌うように鳴く蝉の声がアイツのヴァイオリンの音と重なる。
いつの間にか、夏だった。
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