千とせの君に | ナノ




「お休み?」
「ええ、言うタイミングを逃していましたが、明日は休みなんです」


ほのかに火照る肌も冷やされ、ひと息ついた頃。思い出したようにぽんと手を打った鬼灯は、ちょうど明日非番となったことをなまえに告げる。淡く色づいた頬やつい落としてしまった唇に触れるやわい肌に気を取られ、言う機会を逃していたのだ。未だ彼女の感触が残る口唇から言葉をつむげば、彼女は日向が差したように表情を明らめた。
休日出勤など当たり前、休みを取っても現世視察へ充ててしまうほどの仕事中毒である鬼灯だが、現在はその限りではない。なまえとの時間に費やすという選択肢以外を持たないのだから恋情とは不思議なものだ。


「わ、じゃあちゃんと身体休めなきゃだめだよ!」
「いえ、色々と入り用な物があるので買い物に付き合って欲しいんですよ。ちょうど休日ですし講義もありませんよね?」
「うん、それはそうだけど」


やわらかな羽毛に包まれて眠りにつくようになったおかげか、鬼灯の目元に疲労の影がないことを確認すると、なまえはほっと胸をなで下ろす。そうして憂慮するように揺れていた瞳をゆるめ、なまえはこくんと頷いた。
彼女がひそやかに心を砕いてくれていることに気がついた鬼灯もまたふっと眦をやわらげながら口を開く。


「では、いいんですね?」
「うん、でもどこに行くの?」
「いつかなまえさんと行った、あのショッピングモールですよ」
「あ……」


この辺りでは随一の品ぞろえを誇るあの場所ならば、手に入らないものはないだろう。
しかしどうしても胸を撫でていく彼との思い出に思わず笑みをこぼすなまえを、鬼灯は静かに見下ろす。その瞳ににじむのは幸福と思慕が溶けあったようなまどかな色。
自身の手をくるむいとしい体温とこの世で一番やさしくあたたかな感情を束ねたような記憶が心を満たす、その感覚に身をゆだねながら、ふたりはそっと互いを見交わしたのだった。





他愛のない言葉を交換しながらバスに揺られて数十分。たどり着いたそこは相変わらず賑々しく人であふれており、その騒がしさが心良い。
ぐん、と伸びをしてさやかな笑顔を見せたなまえは隣に寄り添う鬼灯を仰いだ。


「うーん、久しぶりに来るなぁ」
「そうなのですか?」
「うん、鬼灯くんが帰っちゃってから……何となく来難くなって」


足が遠のいていたのはあのやわく小さく、いとけない手を探してしまうからで。気晴らしに此処を訪れても隣には空虚な空間があるばかりで、その事実がどうしようもなく寂しく思えた。
入り口すらくぐることの出来ないまま踵を返したことは何度もある。

つい先日までなまえを苛んでいた寂寥に再び心を冷やされ、視線を落とした彼女の手を、武骨な手が掬いあげる。手のひらをさらっていったそれをたどれば、存外やわらかな眼差しを与えてくれる彼にふわりと胸がほどけた。


「今日は私がいるでしょう。それとも私では物足りませんか」
「そ、そんなことない!」


鬼灯の科白を弾かれたように否定するなまえの頭をなだめるように撫でる手のひらは、随分と大きくなってしまったけれど。
変わることのない幸福を注いでくれるから、やる瀬のない空白感を覚えることはもうない。
あえかにほぐれていく胸を抱えるのは鬼灯も同じなのだということを、その安堵したような濡羽色に悟りながらからめた手にきゅっと力を込める。


「それで何を買いに来たの?」
「現世の服を何着かと、生活用品を」
「あ、座椅子買おう!仕事する時身体が痛くならないように」
「そうですね」


あれが要る、これが要ると話し合いながら店に向かう中、ふと胸に落ちた疑問。
こうして鬼灯との時間が増え、あたたかな言葉を交わしあえるのはたまらなく幸せなのだけれど。この状況はいわゆる同棲というやつなのでは、と、なまえは今更ながら思い至った。
同棲、とどこかむずがゆい気持ちにさせる響きに思わず首をすくめる。


「どうしたんです?」
「い、いや何かこういうの恥ずかしいね!同棲してるみたい…」
「しているのでは?」
「へ?」
「いえ、男女が一つの家に住むことを同棲というので……まぁ一般的には、なまえさんが考えたように恋人同士が共に暮らすことを指しますが」
「……こいびと」
「こうして並んで歩く私たちは、どのように見えるのでしょうね」
「………!」


想いあう男女のそれを想像させる言葉運びと囁くように耳元へ落とされた低い声に、なまえは淡く速度をあげる心音を聞く。
そう言われてしまうと今まで特に意識していなかったことが急に気にかかってしまう。
触れあいそうなほどの距離にある肩だとか、なまえの歩調に合わせてゆったりと歩んでくれる鬼灯の心遣いだとか、重ねた手のひらの熱さだとか。すべてがなまえの心の柔いところをくすぐっていって、彼女は何かをこらえるように奥歯をかみしめた。


「も、もう早く行くよ!」
「はいはい」
「……もー!」


ほのかな朱が差すなまえの頬を愉しげに見つめる鬼灯に気がつくと、ますます肌を熟れさせた彼女が悔し紛れに手を引く。
前を行くなまえの、そのやわらかな髪からのぞく耳やわざとらしく怒らせた華奢な肩に視線をすべらせながら、鬼灯はどうしたってゆるんでしまいそうになる口角を引き結んだのだった。


「よし、ひと通り買ったね!」
「ええ。これで普通に生活する分には困らなさそうです」
「ちょっと喉かわいちゃったなぁ、飲み物でも買ってこようか?」
「………いえ、私が行きますよ」
「そう?じゃあお願いするね」


多様な店を巡り、その先々で目移りするなまえを呆れながらもたしなめてようやくひと心地ついた頃。喉の乾きを訴えた彼女に思い起こすのは、鬼灯が下手を打ってなまえにひどく心配をかけてしまった思い出だ。
幼かった当時は他の男に言い寄られる彼女を見て胸をくすぶらせたあの感情が嫉妬などとは思いもしなかったけれど、今ならばわかる。
鬼灯を重たく取り巻く不明瞭な靄はまだ芽吹きすら見せていなかったなまえへの恋情からうまれていたのだ。

また二の舞を演じることを良しとしなかった鬼灯はなまえを近くのベンチに座らせると、足早に店へと向かう。
そうして彼女の好みそうなものを手に振り返れば、視界に捉えた既視感のある光景。
なまえの前に立つひとりの男と、それと向き合い困ったように眉を垂れる彼女を認めると、はらわたがちりちりと焦げ付くような憤りを感じる。しかしそう何度も轍は踏むまいと、過去に怒りに任せてなまえの顔を曇らせたことがある鬼灯は何とか苛立ちを抑えつつ行き交う人の波を器用に縫い一息に彼女の元へと向かった。


「だからさ、俺と…」
「彼女に何か?」
「あ?あ、いや……」
「………」
「………」
「………あまり気が長い方ではないのですが」
「すみませんでした!」


きんと凍えそうな声色で斬りつけられ、加えてあの鋭利な瞳に見下されれば常人ならば逃げ出したくもなる。
執拗に言い寄っていたのが嘘のように一目散に逃げていく男の背中を見やり、なまえは安堵の息をついた。


「いやぁ助かったよ、ありがとう鬼灯くん」
「貴女はどうしてこうも簡単に目をつけられるんですか…」
「つっ、つめたいよ!」


のんびりとした笑みを寄せるなまえに戒めの意味も込めて、氷に冷やされた器を頬に押し当ててやる。
あどけなく、駄々っ子のように彼女を欲しがるばかりだった昔とは違う。否なまえを求めているという一点に関してはあまり差異ないが、こうして不相応にも彼女に近づく男を穏便に撃退出来るくらいには成った。それは誇らしく思えるけれど、暢気にストローをくわえる彼女の一挙一動に振り回されるこの関係は変わらないのだと改めて思い知らされた気がした。


「こっちの気も知らずに……」
「うん?」
「余計な心配かけさせないでくださいよ、気を揉むのはいつも私なんですから」
「そんなことないと思うけど…」
「あります」
「ない!」
「ある」

何度か押し問答が続けば、ふい、と視線を外したなまえは恥らうようにちらちらと鬼灯を見上げながら呟く。

「だ、だってほら昨日とか…振り回されてるのは私の方だったのに」
「………あんなの序の口ですよ」


もっとかき乱されてくれなければこちらが困る。
ほんの少し意識してもらえたくらいでは、足らないのだ。鬼灯を捕らえて止まないこの想いには届かない。甘く苦しい感情の波に溺れるこの心を救い出せるのは、なまえひとりなのだから。
消化出来そうにないそれに胸を締め付けられ小さく吐息した鬼灯は、ほのかに染まるなまえの頬を指の背でやわくくすぐったのだった。


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