千とせの君に | ナノ




鬼灯とふたりで摂る夕食にも慣れてきたある日。どこかくすぐったい思いを胸に秘めながら鬼灯と隣り合って洗いものを済ませたあと、彼に風呂を勧めたなまえは何をするでもなくぼおっとテレビを見つめていた。


「あっそうだバスタオル…」


今日は青空がのぞくことが少なく、洗濯物が乾かなかったのだ。常なら脱衣所でその役目を果たす時をじっと待っている白も未だ室内に干されていた。それが乾ききっていることを確認し、きちんと四隅を合わせて畳むとなまえはおもむろに立ち上がる。


「今のうちに置いとかないと鬼灯くん困っちゃうよね」


ひとり頷き浴室へと続く廊下を進み、たどり着いた脱衣所の仕切りを開けたちょうどその時。
唐突に、がたん、という音と湿気をふくみ漂う湯気がなまえを襲った。白く塗られる眼前に一瞬ひるむが、鬼灯が風呂からあがったことを悟るとなまえは小さく首を傾げながら平然と口を開く。


「あ、鬼灯くんバスタオルここに置いておくね」
「……あ、はい」


呆然となまえを見やる鬼灯は彼女の科白に何とか返事をすることしか出来ず、用件を終えた想い人が去るのを目で追う。生娘でもないので肌を見られたくらいで狼狽したりはしないが、それでも無防備な身ひとつの前に好いた人が現れて思考が停止するのは当然だろう。
そうして束の間動きを止めた鬼灯はなまえが脱衣所を後にしたのちもどこか意識をたゆたわせたまま、どうにか着替えに取りかかったのだった。

一方背中に張り付く視線を感じながら踵を返したなまえはというと、残りの洗濯物を抱え私室へと足を向けていた。
鬼灯と再会し、丁寧に畳むようになった衣服を箪笥に詰めながら、何の気なしに先ほど鉢合わせてしまった彼を思い浮かべる。


「意外と鍛えてるんだなぁ…。……」


あの細く薄い身体は男のひとのそれへと成長していて、まずなまえが覚えたのは安堵。きちんと食事を摂って、安寧の中無事に成長期を終えたことを知りほっと胸を撫で下ろした。

次に思い浮かんだのは筋張った男性らしいつくりと、固く締まった膨らみの間をつう、と伝う水滴。
湯気に紛れてすべては見えなかったものの、しかし浮かび上がる筋肉質の肢体はなまえの記憶にばっちりと焼き付いてしまっていた。
それをぼんやりと描き出す脳に、全身へ熱が生まれていく。


「え…、あれ?」


とくん、と主張を始めた心臓を自覚した時には、なまえの顔は真っ赤に熟れてしまっていた。何だか不純な思考が巡り出したことに動揺したなまえは、かぶりを振りながら胸にそっと手を当てる。


「な何考えてるんだろ、私……」


鬼灯は人間が成長するには充分過ぎるほどの時間を過ごしたのだ、幼子から大人に成るのは当然のこと。
そう自身に言い聞かせるけれど、火照りを帯びた肌も鼓動を速める心臓も、一向になまえを落ち着かせてはくれなかった。


「うー…鬼灯くんも鬼灯くんだよ、いるならいるって言ってくれたらいいのに……」
「…勝手に入ってきておいて何言ってんですか」
「わあああっ!?」
「あ、なまえさん」


当人の与り知らぬところで湯気をまとった素肌を想像してしまったことにひどい罪悪感を覚える。ぐらぐらと揺れる心に気恥ずかしさと熱を誘われ、頬を挟むようにぎゅっと両の手のひらを押し当てひとりぼやくなまえの肩からひょっこりと顔をのぞかせたのは鬼灯で。
飛び上がらんばかりに身体をびくつかせたなまえはそのまま安定を失い、視界が傾いていく。


「…危ないですね」
「……」


頭を壁に打ちつける寸でのところを鬼灯にかばわれ、事なきを得たのは良いのだが。

後頭部を抱えるように手を添えられているため、まるで抱きしめられているような姿勢のままなまえは身動きすら取れないでいた。湯上がりだからか、普段よりわずかに熱を帯びた手のひらがなまえのうなじと背に回る。なまえをすっぽりと囲えてしまうほどの体格差だとか、見上げるほどの位置にある濡れた瞳だとか。
何故だかなまえの心臓をたまらなく締め付けるものに包み込まれ、耐えきれなくなった彼女は思わず逃げるように身体を反らしてしまう。


「暴れないで下さいよ、頭打ちますよ」
「い、いやちょっと近いっていうか…!ももう離してくれて大丈夫だから!」
「……」
「鬼灯くんってば!」


なまえが鬼灯の肩に手を置いて突き放すようにぐいぐいと力を入れるものだから、彼も意固地になりその華奢な身体を解放しようとはしない。
なまえに覆い被さるような体勢を保ったままじゃれあいは続き、まだ碌に乾かしてもいない黒の髪束からしずくがぽたりとしたたる。


「つめたっ」
「あ、すみません」
「ううん、これくらい平気だけど」


熟れた頬には殊更冷たく思える水滴になまえはきゅっとまぶたを合わせる。

暗がりの中、なまえの肌を拭おうとすべる硬い指先を感じて何となく目を開けられずにいると、あたたかな体温がなぞったそこに、やわくかすかに湿った感触が落ちてくる。
柔い何かでくすぐられたようなそれにまぶたをまたたかせると、一番に飛び込んできたのは墨を流したような漆黒が留まる鬼灯の瞳。
鼻先が触れそうなほどの距離に迫る彼に、なまえはとっさに声をあげていた。


「うわあっ!?な、なに鬼灯くん…!近いよ?」
「いえ、これはその」
「………もしかして、今…」
「…気にしないで下さい」
「………気にするよ、ばか」


ばつの悪そうに言葉を濁す鬼灯に、とくんとくんと高鳴る胸をさらに煽られながら眉根を寄せる。やさしく頬をかすめたのはきっと彼の唇なのだとさすがのなまえも悟ったようで、眦を赤く色づかせたまま弱ったように眉を垂れた。
可愛い可愛い弟だと思っていた彼が一丁前の大人なのだと見せつけられた直後、恋人同士の戯れにも思える行為をもらって平然としていられる訳もない。
そこまで無垢なつもりもない。

しばらくの間むずがゆいような気まずいような、居心地の悪い沈黙が停滞したのち、鬼灯が小さく口を開いた。


「顔、赤いですよ」
「そそれはだって…いきなりされたら、困るし……」
「困らせましたか」
「う、うん」


ふい、と顔を背けるなまえのやわい髪から見え隠れする耳の先がほのかに染まっているのを認めた鬼灯は、胸に甘い感情を覚える。彼女を前にするととろりと溶け出すそれがせつなさも含んでいるのも、一筋縄では御し切れないほどの質量を秘めていることも知っていた。
その想いをひそやかに乗せた指先で、つい先ほどまで自身の唇が触れていたそこをなぶれば瞳だけでにらみ上げられてしまう。


「もう、反省してるの?」
「してないですね、むしろ私にとっては嬉しいことなので」
「…鬼灯くんって……」
「何ですか」
「…ううん、何でもない」


なまえの頬をたやすく包み込んでしまう手のひらが喜々としてするりと肌をすべるのを感じながら、彼女はゆるくまぶたを伏せた。
家族のようだと、弟のようだと口にしてきた穏やかな日々がどこか遠いもののように思えて、それを言葉にしてしまったらこうして触れあうことすら躊躇われるように思えて。つむぎかけた科白をぐっと飲み込んだなまえは、重なる肌から芽ぐむあまい予感に目を瞑ったのだった。


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