千とせの君に | ナノ




講義が長引き、いつもより遅くなった帰り。何かに急かされるようにアパートの階段を駆け上がりノブを捻れば躓くことなくなまえを招き入れてくれる。それは彼が帰って来ているという証拠で。逸る気持ちを抑えつつひょこりと居間をのぞくと、そこにはがらんどうの空間があるのみだった。


「ただい…ってあれ?」


煌々と輝く照明は机に乱雑と広げられた書類をもの寂しく照らしており、それに筆を入れていただろう主の姿はない。首を傾げつつ鬼灯と食べようと買ってきたアイスの入った袋を床に置くと、ベランダへ続く窓の向こうに漆黒がひらりとなびくのを見た。


「こんなところにいた」
「おや、お帰りなさい」
「ただいま。……」
「どうしました?」
「鬼灯くんって煙草吸うんだなぁと思って」


節くれ立った指先に華奢な管がかかるのを見やったなまえは初めて知った事実に目を丸くする。
こちらに流し目を寄せ、紫煙をくゆらせる彼はなまえの手が届かないどこか遠い場所にでも行ってしまったように感じた。鼻につく慣れないにおいもまたそれを際立たせるようで、何故だかきゅっと苦しく音を立てる中心に手を当てる。


「これは煙管ですけど……、どうしました?」
「…ううん、何でもない!煙管吸ってる鬼灯くんがかっこよかったから、ちょっと見惚れちゃっただけー」
「……また貴女は簡単にそういうことを…」
「うん?」
「………」


ぼおっと鬼灯を見つめる彼女に首を傾げた途端、これだ。
臆面なく素直な言葉をつむぐところはなまえの美点でもあるが、こうして彼女に恋慕する身としてはひどく心臓に悪い。鋼で出来た心の臓でも持っているのではないかと上司に疑われるほどの鬼灯のそれを、いともたやすく速めてしまうなまえには困ったものだ。

口に心地よい苦みを残すそれを吐き出しつつ、鬼灯はこっそりとため息をついた。


「どうしたの?浮かない顔して」
「どう攻めれば落ちるんですかねぇ…」
「なぁに、仕事の話?」
「厄介なひとの話です」
「んん?」


ぱちぱちとまぶたをまたたかせるその仕草でさえ愛らしく思えてしまうのだから、恋心とは厄介な上に難儀なものだ。

翻弄される自身が情けないやらきょとんとこちらを見上げる彼女がにくたらしいやら恋しいやらで、鬼灯はだんだんと苛立ちを覚えてしまう。彼は繊細なつくりをした吸い口から煙をのむと、暢気に鼻歌を奏で始めたなまえに向かって白いそれをひと息に吹きかけた。


「むわっ何するの!」
「少し腹が立ったので…」
「だからって煙吹きかけないでよもうー」
「知りません」
「鬼灯くん?」


軽く咳き込むなまえをほんの少し気にかけつつも、鬼灯はふいと背けた顔は戻さなかった。

けぶる視界が明瞭になると、なまえは広い背を向ける彼をそっと仰ぐ。その仕草が幼い頃の鬼灯と重なって、彼が拗ねては目を逸らしていたのを思い起こした。
形や成りが変わっても、嗜好が変化しても鬼灯に丁の影を見る度喜びが胸をよぎり、じんわりとあたためられていく。目の前の男性はやはりなまえがいとおしくてたまらない彼なのだと感じて、やんわりと和らぐ唇。先ほどまで締め付けられていた胸がゆるくほどけ、なまえは思わず笑みをもらしてしまう。


「へへ」
「…」
「ねぇ鬼灯くん、拗ねてても楽しくないよ?」
「拗ねてなどいません」
「あっアイスあるから機嫌治して!」
「聞いてますか?」


さっさと部屋に戻ってしまうなまえを追いつつ、鬼灯はひとつため息をこぼす。
夕食の前だというのにアイスの封を開けてしまったなまえは、乳白のそれをすくうと機嫌良くこちらへ差し出した。


「はい、どうぞ!」
「…夕飯がまだでしょう」
「甘いものは別腹だって言うし!鬼灯くんいつもいっぱい食べてくれるでしょ?このくらい平気だよー」
「……」


こちらを上目に見つめるなまえはひどく能天気だ。鬼灯はふにゃっと蕩けるその笑みにさえ心をくすぐられるのに、彼女は未だ弟のように想ってくれているようで。
それが少し腹立たしい。決して喧嘩を売られた訳ではないのだが、元来負けず嫌いな彼に仕返しを止めるという選択肢はない。

鈍い銀に光る匙にさらわれた氷がじんわりと甘い水をにじませる様を睨みつけた鬼灯は、なまえのやわらかな手のひらごとそれを掴んだ。


「ど、どうしたの?」
「食べさせてくれないんですか?」
「えっと……」


じっとなまえを捉えるその瞳に熱が揺れたような気がして、手を支えてくれる鬼灯の体温がじんと胸に迫る。
ふたりの間にたゆたう空気が、なまえを射すくめる眼差しがかすかな甘さをはらみ頬の輪郭をなぞると、それに耐えかねたように泣き出したのは嚥下されるのを待ちわびていた氷菓子。染み出した白い雫がなまえの指を伝い、線を描いた。


「あ…溶けちゃうよ?」
「そう急かさないで下さいよ」
「!」


鬼灯はなまえの手に自身のそれを添えたまま背を丸めると、匙に乗せられた小さな山を口にふくんだ。そのまま瞳だけでこちらを見上げる彼にどきりと跳ねる心臓と、意味もなく詰めてしまう息。
なまえは鬼灯がこちらに寄せる熱にあてられたように火照る頬に翻弄されながら、彼をただ見つめることしか出来なかった。


「汚してしまってすみません」
「ううん気にしないで……」
「いえ、私のせいですので」
「へ?」


彼の科白に首を傾けたその瞬間、さらに頭を沈ませた鬼灯は甘く染められたなまえの指先にためらいなく舌を這わせた。
汚された肌に余すところなくからみついていく湿った舌が、甘い毒のように瞳へ焼き付く。熱を持ったやわらかなそれがぬるりと肌を愛でていく感触がなまえの心をたまらなく騒がせて、耳の先にまで伝染する赤。


「えええっほ鬼灯くん、もういいってば!」
「おや、顔が真っ赤ですよ」
「鬼灯くんがいきなりな、なめたりするから…!」
「仕返しです」
「何の!?」


熟れた林檎のような色に染められたなまえの頬を見、満足そうに眦を和らげる鬼灯がいたずらを成功させた子供のようにあどけなくて、先ほどの匂い立つ色香との差異にまた心音が跳ねる。
しかし熱を秘めてとく、とくと鼓動を打つそれをしずめようと躍起になるなまえの傍らで、鬼灯もまた舌に名残る柔い肌に心を疼かせている事実を彼女が知る由もない。


「じゃ、じゃあご飯作るね!」
「…ええ、では私は仕事を片付けます」
「うん…っ」


互いを瞳に映すことすらままならず、焦ったようにくるりと背を向け合うふたりの合間にたゆたう気配はどこかくすぐったいもので。
包丁を動かし始めても筆を握っても、たったひとりだけに傾いてしまう心を抱え、2人は淡く熱を帯びたため息を悩ましげにこぼしたのだった。


prev next