千とせの君に | ナノ




それは珍しくなまえより寝過ごした鬼灯を起こすため、居間へと向かったときのことだ。
ソファで眠る鬼灯は毛布を頭まで引き上げ、背を丸めて眠りについていた。彼を現へと引き戻すべく、規則正しく上下するそのふくらみをそっと揺らす。


「朝だよ、鬼灯くん」
「…………ん」


寝足りないのか駄々をこねるように首をゆるく横にふる仕草があどけなく、かわいいなぁと思わず笑みをこぼす。くすくすと抑えた笑いをもらしながらふと視線をうつした先には高く積み上げられた書類の山。
なまえが眠ってからも遅くまで仕事に打ち込んでいるらしい彼の目元には、疲労のしるしである隈がほのかに影を落としていた。

そうして、まだまどろみに捕らわれた鬼灯に目を戻す。
狭いソファに身を折り畳むようにして眠る彼は疲れを癒すどころではないだろう。猫のように背を丸めても、その長い脚は肘掛けから放り出されてしまっている。

鬼灯がなまえの部屋に泊まるようになった初日、生憎客用のベッドも布団も持ち合わせていないことを思い至ったなまえが寝床はどうするかと相談した結果がこれだ。

有無を言わせず居間で寝ると言いだした彼はとてもなまえが引き留められそうな雰囲気ではなく、渋々ソファを使うことを許したのだけれど。


「これじゃ倒れちゃうよ…」


せめて仕事を持ち帰らずにおいてくれたら良いのだけれど、多忙らしい鬼灯には無理なお願いなのだろう。
むう、と唇を曲げるなまえはひとつの提案をするべく、再び鬼灯の肩を揺らす。


「ねぇ起きて、鬼灯くん」
「…なんですか……さっきからうるさいですね」
「ね、寝起き悪い………あのね、今日から私のベッド使って」
「………は?」
「うん、だからね、今日から私の部屋で…」
「嫌です」
「え」


ぽかん、と口を開けいとけない表情をしてこちらを見上げる鬼灯を可愛らしく思いながらもう一度同じ科白を繰り返すと、言葉を終えないうちにぴしゃりと撥ねつけられてしまう。そうして幼いその表情をかき消した彼はぐっと眉間にしわを刻みながら口を開く。


「というより無理です、貴女男を嘗めてんですか」
「へ?」
「ああ、頭が痛い……」
「それは徹夜のせい…」
「なまえさんのせいです」


なまえにはこの上ない良案に思えたそれをすっぱり断られ、頭上に疑問符を浮かべながら鬼灯を見下ろす。ぴょこぴょこと跳ねる髪をうっとおしそうにかきあげた彼はゆっくりと身を起こすと、鋭い眼差しをなまえに投げた。


「私を家族同然に想ってくれるのは嬉しいですが、こちらはそうもいかないんですよ」
「うん?」
「……ですから、諸々の事情で却下です」
「よくわからないけど…ちゃんと寝てないでしょ?だめだよそんなの!」


鬼灯を純粋に思いやった末の立案を嬉しくは思う。しかし鬼灯の中ですっかり成熟してしまったこの恋心がある限り、それを了承する訳にはいかないのだ。

彼女のにおいが染みついたベッドで、彼女がくつろぐ部屋で眠るなど考えるだけで色々と頭が痛くなってしまう。何の躊躇いもなくなまえと一夜を過ごしたあの幼き頃とは状況が違うのだ。
いっそ何の劣情も感じず同衾してみせたあの時代に戻りたいとすら思う寝ぼけた頭にため息をつきながら、こちら見下ろす彼女を見やった。


「別にこのくらい慣れていますから、気にしないでください」
「でも、隈出来てるよ?せめてここでまで仕事するのはやめない?」
「これで気を紛らわせてもいたんですが……」


もちろん早々に片付けるべき職務なのだが、中にはそう急いてまでこなさなくてもよい書類もある。
それさえ持ち込んでいるのは手持ち無沙汰になった際夜の帳に遮断された空間が、そこに満ちる静寂が、どうしてもひとつ屋根の下で同居する彼女のことを想わせるからだ。
そんな男の短絡的な思考を断ち切るべく仕事に打ち込んでいる、という理由もあった。
鬼灯の内情など知る由もないなまえはむっと目をつり上げてこちらを見下ろしていて、下手な嘘では引き下がりそうもない。

どうしたものかと眉根を寄せた鬼灯は、ぽん、とひとつ手を打った。


「ああ、もうこんな時間じゃないですか」
「うん?」
「そろそろ行かなければ」
「あっちょっと鬼灯くん!」
「この話はまた後で。今日は早めに戻りますから」
「…もう!」


本来ならばなまえ手製の朝食を堪能してから地獄へ向かうところを、寝坊したのをいいことに玄関へと逃げる鬼灯。
彼を追うなまえもむっすりと唇を引き結ぶが強く引き留めることはしない。
恨みがましく鬼灯をにらむ彼女の頭をなだめるようにぽん、と撫でればしかめられた表情は淡くやわらぐが、その瞳には非難の色が見て取れる。


「絶対早く帰ってきてね?」
「はい」
「絶対だよ!」
「わかりました」


草履を履く鬼灯の背後からのぞき込むようにしてひょこりと顔を出し、彼女が念を押す度に頷いてやるとようやく諦めたのかなまえは口をつぐむ。
そうして立ち上がり、ドアノブに手をかけた鬼灯の耳を撫でたのはやわらかな声音。


「じゃあ…いってらっしゃい」
「……いってきます」


いつものあたたかな笑みを寄せてくれるなまえに胸の奥がくすぐられたような想いになりながら、一歩踏み出す。
鬼灯がそのひどい寝癖はおろか身支度すら済んでいないことに気がついたのは、通い慣れたアパートの入り口を抜けた時だった。頭の中で始業時間までの猶予を弾き出しながらも、なまえに与えられた熱を抱えその虹彩は優しくやわらぐのだった。





逃げるようにして家を出ていった鬼灯を釈然としない思いを抱えながら見送ったのは今朝のこと。大学からの帰路、またかわされようものなら無理矢理にでもベッドを譲ろうと決意したなまえは彼が訪れるのを今か今かと待ちわびていた。

山の稜線を彩っていた茜色も沈み、迎えた宵の口。足を抱えてソファに座り込んでいたなまえの耳に届いた呼び鈴の音に、彼女は弾かれたように立ち上がった。


「……」
「何ですか、変な顔をして」
「へ、変って…鬼灯くんを逃がさないようにと思って気合い入れてきたんだけど……」
「逃げませんよ、出かけるので用意して下さい」
「え?今から?」
「ええ」


ぐっと眉間に力を込めて鬼灯を射すくめれば、呆れたような表情をした彼に背中を押される。促すようになまえを部屋へと追いやる鬼灯は出かける予定があるようで、首を傾げながらも上着を取りに駆けた。

彼に連れられ、やって来たのは近所に店を構える家具の専門店。なまえも度々お世話になる見覚えのある店の入り口を躊躇いなくくぐる鬼灯に、慌てて着いていく。


「どうして家具店なんかに?」
「やはり布団は一組必要だと思いまして」
「え、でも私今持ち合わせが…一旦帰らなきゃ」
「……全く、昔の私とは違うんですよ、このくらい自分で出します」
「おお……大人になったねぇ」


なまえのその一言に寝具売場に向かう足を止め、くるりと振り返った鬼灯はそのやわらかそうな頬をぎゅっとつまんだ。
しみじみと頷く彼女の物言いが何となく癇に障ったというか、まだ"丁"の面影を追うなまえに仕方ないとは思いつつも複雑な思いにかられるのだ。


「今更ですか」
「ひ、ひたひよ」
「………」
「?」


きり、と痛む程度になまえの頬を摘む指先に、思わず視界が溶けていく。
痛みにじわりと瞳を潤ませるなまえを凝視するように見つめる濡羽の瞳には愉しげな色が揺らめいていて、いつか幼い彼に危惧した嗜好を鬼灯が持ち合わせてしまったのだと悟った。
やはり加虐性嗜好を持ってしまったかとなまえが肩を落とす間も、鬼灯の指はそのやわらかな肌から離れることはなかった。

頬の肉を摘む指をゆるめ、ふにふにと弄んでみたり力を込めてみたり、思い思いに戯れていた鬼灯はふむとひとつ頷く。


「ななに?」
「そういえばなまえさんのその表情、気に入っていたな、と思いまして」
「ちょ、ちょっと人の顔で遊ばないでよー……!」


再び巡り会ってからというもの、微笑みすら滅多に見せてくれなくなった鬼灯の眦がこんな時に限って淡く細められるのに釈然としない思いを抱きつつ、節くれだった指をかいくぐる。
獲物にするりと逃げられた鬼灯が残念そうに視線を落とすのを見て引いた頬の痛みの代わりにちくちくとつつかれる胸には目を瞑り、なまえは店内を歩き始めた。


「布団どうする?やっぱり羽毛があったかくていいよね」
「そうですねぇ…」
「このくらい大きい方がいいかなー」
「……それダブルなんですけど」
「え、だめ?」
「何で一緒に寝る気満々なんですか」


再度こちらへ伸びてくる指を何とか避けつつ、なまえは小さく首を傾げる。
鬼灯がなまえのベッドで眠れないのはサイズの小ささゆえではなかったようだ。それに今彼女が寝床としているそれは、羽毛などという良い素材は使われていない。
綿布団では冷え込む冬はつらいし、あの圧迫感が好きではないのだ。
だから2人くらい軽々横になれるダブルサイズなら一石二鳥だと思ったんだけどなぁ、となまえは暢気にまぶたをまたたかせた。


「だめかー」
「だめです」
「………」
「そんな顔したってだめなものはだめです」
「…はーい」


不満そうに唇を尖らせながらもふかふかと沈む布団の感触を楽しむように腕を沈ませるなまえをちらりと見やり、鬼灯はため息をもらす。
彼女との逢瀬すらままならなかった頃と比べればそれこそ極楽浄土に訪れたような心境なのだが、新たな悩みの種もうまれてしまい複雑な思いにかられてしまう。
なまえに笑みを寄せられる度幸福が芽ぐむ胸はあたたかにほどけるけれど、現状に不満を持つ自身がいることも確かで。

ふう、と再び吐息した鬼灯を巡る思考から現実へと引き戻したのはなまえの声だった。


「鬼灯くん、見て見て!」
「何ですか?」
「ここ食器とかもあるんだ、それでね、これ!」
「マグカップですか」
「うん!」


おいでおいでと鬼灯を手招きするなまえに歩み寄れば、彼女がその手に持っていたのはふたつのマグカップ。
太陽のやさしい光を溶かしたような淡黄色は彼女の、もうひとつの夜に浸かったような黒は鬼灯のものだろうか。
嬉しそうにそれを持ち上げる彼女に、熱を持った胸がゆるく締め付けられるのを感じながら口を開く。


「お揃い……ですか?」
「お揃いですね!」
「…仕方ないですね、買いましょう」
「やったー、鬼灯くん太っ腹!」
「はいはい」


にこにこと屈託ない笑顔を浮かべたなまえにつんつんと腕を小突かれながら、購入が決まったそれらと本来の目的である夜具を会計へと運ぶ。
そうして支払いを済ませ外に出れば、穏やかな月の光が世界の輪郭をなぞるように降り注いでいた。


「これで鬼灯くんはちゃんと寝られるし、お揃いのカップも買えたしよかったね」
「そうですね、眠れるといいんですが」
「あれ?枕とか変わっちゃうと眠れないタイプ?」
「まぁ…そのようなものです」

貴女のせいですとは言えず、曖昧に茶を濁す鬼灯になまえは首を傾げつつはっと我に返ったように声をあげる。

「でも布団が届くのは明日だから、結局今日はちゃんと寝られないよ!」
「生憎明日中に作成しなければならない書類がありますので、元々あまり寝る気はありませんでしたしよかったんじゃないですか」
「えー……じゃあせめて体力がつくように、夜ご飯は鬼灯くんの好きなものつくるよ」
「おや、いいんですか」
「うん、今日ちょうど買い出しして来たから!」


他愛のない会話の節々にあふれる慈しみに、鬼灯の内側はやわらかなぬくもりに包まれる。

いつか、初めて彼女からもらった幸せを思い起こすようなくすぐったさと、それとはまた別のもどかしい熱を秘めながらアパートまでの短い道のりをゆっくりと歩む。隣に寄り添うなまえが時折鬼灯を見上げるその眼差しと街灯に照らされ揺れるふたり分の影に、彼はそっと目を細めたのだった。


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