千とせの君に | ナノ




言葉通り、こちらを見下ろす濡羽色の虹彩にこくんと生唾を飲み込む。かすかに甘さをふくんだ眼差し。なまえの知らない、色。

間近に迫ったなまえの丸い瞳がぶれたようにゆらりと震えるのを見て取った鬼灯は、伸ばしかけていた手をそっとおろした。
それを合図として2人の間にぴんと張り巡らせられていた糸がほどけていったように思えて、意味もなく堰きとめていた息を吐く。どこか安堵しているようにも見えるなまえを一瞥した鬼灯の瞳にはもう、あの色彩は見えなかった。黒曜に沈んでしまったようにも思えて、ほっと胸を撫で下ろしている自分がいた。

強ばっていた身体からゆるゆると力がほどけていったのをいいことに、すっかり油断した腹の虫がきゅる、と情けない声をあげる。


「………」
「…何だか前もこんなことありましたねぇ」
「よ、よく覚えてるね」
「なまえさんとのことですから」
「嬉しいけど出来れば醜態は忘れてほしかったかな!…じゃ、ご飯にしよっか」
「……」


恥ずかしさに熱を帯びた頬へ手を当てながらすっくと膝を伸ばす。立ち上がったなまえにかすかに瞳を見開いた鬼灯は身動きひとつしないまま冷えた床の上に座り込んでいた。そんな彼が幼子と見間違うほどあどけなく見えて、首を傾げながらどうしたの、と優しく訊ねるように笑う。

幼い記憶と寸分違わない日だまりのような笑みと、差し出されたやわらかな手のひら。鬼灯に寄せられた他愛のない言葉にさえひどく心を揺さぶられて、鬼灯の根底に降り積もったなまえとの思い出が脳裏に浮かんでは消えていく。
目の前には焦がれていたなまえがいて、彼女の心地よい声色が鼓膜を震わせる。それがどんなに幸せなことなのか、痛いほど思い知らされた気がした。


「末期ですね……」
「うん?なに?」
「いえ、何でもないです。なまえさんの腹の虫が我慢できなくなる前に朝食にした方がいいですよ」
「う、そうします……鬼灯くんは?食べる?」
「ええ、是非」


気を取り直したように腰をあげた鬼灯を見上げて再び明朗な笑顔をくれるなまえに、もう掠れた記憶の淵から彼女との思い出を呼び覚まさなくてもいいのか、と何ともなしに思った。
幾星霜の間繰り返し想ってきた彼女との記憶。鬼灯から切っても切り離せない大切なもの。しかしそれを突つく度に上手く消化できない焦燥にかられる自分も確かにいたのだ。
追憶の彼方の彼女に思いを巡らせても何ひとつ満たされることはなかったけれど、今手を伸ばせば触れられるところになまえがいる。空虚な宙を掻くことなく、あたたかなぬくもりを持った彼女がそこにいて、鬼灯に抱えきれない感情をくれる。

そう考えてゆるゆると胸の内側がなだらかになっていくような感覚を覚え、ふっと息をついた。


「あれ?いいことでもあった?」
「…何故そう思うのですか?」
「嬉しそうだから」
「…嬉しいですよ。またなまえさんに会えて」
「もう、照れるってばー!……あ、ちゃっちゃとご飯作っちゃうから鬼灯くんはテレビでも見ててね」


笑い飛ばすようにそう言ってエプロンを身につけ、台所に立つなまえにまた懐かしい思い出がにじむ。鼻をくすぐる美味しそうなにおいと、時折こちらに寄せられる優しげな眼差し。台所に立つ彼女の背中が記憶のそれと重なって、溶けて、ひとつになっていく。
なまえとの思い出はまた作っていくことが出来るのだ。新しく彩られていく彼女との記憶に目を細めながら、鼻歌をうたうなまえの声に耳を傾けたのだった。


魚が焼ける香ばしいにおいと、味噌を溶かした中に浮かぶつややかな白。適当に繕った朝食にしては見栄えのいいそれにひとり満足していると、向かいに座る彼がお椀に口をつけ、片眉をあげた。淡くだが、空気も共にやわらいだように思えて鬼灯を見やる。


「どうかした?気に入らなかったかな」
「いえ、逆です。私がずっと食べたかったのはこの味だと思ったんですよ」
「え?鬼灯くんってそんなに和食好きだったっけ?」
「いえ、そういうことではなく……ああ、この鈍さも変わりませんね」
「うん?」


千歳の時を重ねても常に身体が、心が求めていたのは彼女のぬくもりが感じられるこの味なのだと痛いほど想う。食堂で口にする食事も格式張った料亭で振る舞われた懐石料理も、どこか味気なく感じていたのはなまえの手で作られたこれを心の底から欲していたからなのだと今更ながらに気がついた。

彼女を間近に感じる毎に自覚する余裕のなさに、鬼灯自身辟易する。積もり積もった想いは彼の胸を圧迫して、今にもあふれてしまいそうだった。
それでもなまえを困らせるようなことは、気を病ませるようなことはしたくない。その日だまりのような笑顔を曇らせたくはない、そう強く想いながら、仏頂面を貼り付けた。


「でも…こうして一緒に食べるご飯はやっぱりおいしいね」
「……そうですね」
「へへ」
「……」


そう、この日が射したような笑み。叶うならば永久に見ていたい願うほどに鬼灯の胸を揺する優しい表情。それを焼き付けるように見つめたあと、鬼灯は自身の内側にゆるりとたゆたう甘みをはらんだ苦い心にそっとまぶたを伏せた。




朝食を食べ終え、ソファに座って談笑をしていた時だった。尽きない話題の延長のようにあっさりと落とされた科白になまえは思わず眉を下げる。


「ああ、もうこんな時間ですね…行かなくては」
「そっか……じゃあまた夜、だね」
「ええ」
「…何か通い妻みたい」
「………少々癪ですが、通い妻にでも何にでもなってやりますよ」


顔色ひとつ変えずに淡々と頷かれてなまえはまぶたをまたたかせた。眇められたその瞳が緊迫している気がしてならなかったのだ。

思い起こされるのは、ひとつの蒲団の中で丁とふたりくるまったあの夜。焦燥にかられるようになまえの"一番"を望んだあの小さな彼が、濡羽色の瞳を凜とこちらに向ける鬼灯と何故だか重なった。
何が鬼灯を苛んでいるのだろうか。彼の心に蔓延っているもの、それは不安に引き摺られた焦慮のように思えた。
そう考えつつ、なまえは彼の瞳をすくいあげるようにのぞき込む。


「…何ですか?」
「あのね、何に焦ってるのかわからないけど、私はここにいるからね」
「なまえさん」
「これからは鬼灯くんが会いたい時に会える。私はずっとここにいるよ」
「……そう、ですね」


なまえの科白に彼の瞳がゆらりとふるえたのはひと瞬きの間だけで、その奥に隠された心情はわからなかったけれど。ゆるく細められた目が、今度は違えずなまえに寄せられたのを認めて彼女もやんわりと微笑む。

ひと心地つき吐息した鬼灯は、惹かれるようになまえへと手を伸ばした。不思議そうにまばたきをした彼女に躊躇うように動きを止めた刹那ののち、彼の指はなまえの髪をそっと梳く。壊れものを扱うような、侵しがたい何かに触れるような仕草でやわらかく撫でられてなまえは鬼灯を見上げた。


「鬼灯くん……?」
「…いえ、すみません。貴女はどうして、何もわかっていないくせに解っているんですか」
「な何それ、哲学的な問題?」
「……わからなくていいですけどね、今は」
「んん?」


4千年の間に彼女への想いでふくれてしまった心は行き場をなくしたまま鬼灯の中に在る。今まではこらえられた、たどり着くべき場所が見つからなかったから。その想いを寄せる相手との邂逅は叶わなかったから。

だが今は違う。ひと度なまえを捉えたら、触れられる距離にいるのだと認めてしまったらもう鬼灯には御し切れないほどの感情が箍が外れたように暴れ出して、彼が何重にも施した理知の鎖を今にも喰い千切ろうとしているのを感じていた。

様々な欲にまみれたそれを、お得意の無表情で隠した鬼灯の耳に届いたのはやわらかな彼女の声。

また彼女が離れてしまう前にと駆り立てられる自分を、まるで透かして見たようにつむがれたなまえの言葉は鬼灯の心の奥にゆるゆると沁み入って、荒くれていた心の内が瞬く間に穏やかな凪に包まれてしまった。
どれほどの時を越えても鬼灯にとってなまえはやはり厄介で、掴めなくて。あたたかな感情を与えてくれる特別なひとなのだと切に想い、慈しみをこめて彼女の滑らかな髪に触れる。
その柔い素肌に触れようとして惑ってしまったのは、なまえと自身とでは想いの質が明確に異なっていたからだ。

まだ熟さない彼女のそれをそのまま落としてしまうか、それとも芳しい実をつけるに至るかは鬼灯次第だ。
彼はなまえの屈託のない笑みを見つめながら、それが深紅に色づきあまやかに実るその時を待つことをひそやかに決めたのだった。


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