鬼灯と共に朝食を食べ、暫しの間語らったあと地獄へ戻ると言う彼を見送った。 あたたかな余韻に浸る間もなく掃除や洗濯、一人暮らしの日常に追われ大学にて講義を受け…何だか未だ夢見心地なまま帰宅した夕月夜。再び鬼灯が顔を見せたのは、夕食の支度が終わってからだった。 眼前で味噌汁を口に運ぶ彼をそっと盗み見ると、その長く、糸のように繊細なまつげがまぶたを縁取っているのが見える。 「何です、じっと見て」 「えっ!?い、いや…何でもないよ」 「そうは見えませんが」 「…その……疲れないのかなって思って」 なまえの言葉に、伏せられていた黒曜色が白いまぶたからのぞく。 何だかその深い黒に吸い込まれそうになりつつ、ひそかに憂慮していたことを吐露した。 「まだ一日目だからわからないけど、地獄との往復って大変でしょ?通い妻なんて茶化しちゃったけど、やっぱり心配で」 「徹夜に比べればどうってことありませんが」 「え、いつも徹夜してるの!?…って今はそれは置いておいて、やっぱり毎日来るのはやめておいた方がいいんじゃないかな…」 気難しくひそめられた眉を見やり、鬼灯の反応をそっとうかがう。眇められた瞳には案の定不愉快そうな色がにじんでいて、思わず首をすくめてしまった。 鬼灯は気後れしたなまえを一瞥し、彼女が鬼灯を思いやって言った科白だと心付きつつもその声音が沈むのを止められないまま声帯を震わせた。 「なまえさんは嫌なんですか、こうして私と共に過ごすのが」 「嫌な訳ないよ!ただ鬼灯くんにとって地獄って特別なんでしょ?」 「…なぜそう思うんですか?」 「地獄のこと話してくれる鬼灯くん、うれしそうだから」 「……」 「家みたいなものなんじゃないの?大切なんだよね?それに補佐官って重要な役職なんだろうし…身体壊したら大変だよ」 手にした箸をぎゅっと握り、彼女は胸に重たく落ちた不安と寂寞をやり過ごす。 今朝共に過ごした優しい時間の中で鬼灯が語ってくれた大半は、彼が身を置く世界のことだった。きっと素直に言葉にしたりはしないのだろうけれど、鬼灯が地獄を大切していることはその冷静な虹彩にたゆたうぬくもりや地獄を想いあえかに和らげられる唇が物語っていた。 その傍目には認められないだろうささやかな変化が、なまえの胸には痛いほど迫ったのだ。 「それだけですか、言いたいことは」 「うん?」 「私にとってはなまえさんに会えない方が余程……いえ、第一私が抜けた穴くらい塞げないと有事の際に困ります」 「そ、それはそうだろうけど…」 努めて怜悧な思考の上に成り立っているらしい鬼灯がなまえの提案を却下すると、そのあたたかな瞳をゆらりと揺らした彼女はわずかにうなだれる。俯きがちななまえの垂れた眉や表情がどこか寂しげに見え、鬼灯は小さく首を傾げた。 自分とは質の異なるそのやわらかな髪が、しゅんと落とされた華奢な肩からすべり落ちるのを何ともなしに目で追いながら口を開く。 「何を落ち込んでいるんですか」 「へ?」 「気付いていないのですか?なまえさん、寂しそうですよ」 「…」 彼のために、彼が想う地獄のためにと口にした言葉は鬼灯と再会してからずっとなまえの心の奥底にくすぶっていたものを浮揚させた。 なまえの知らないところで彼が積み上げてきた年月の中で、鬼灯にとって大切にすべきものが出来たのはとても嬉しい。幼い彼と笑みを交わしたあの時のようにやさしい幸福が鬼灯を満たしているのだと想うと、なまえの心までたまらず華やいでしまうほどに、ほころぶ顔が抑えきれないほどに嬉しいのだ。 しかし何となく、彼に置いていかれてしまったようなもの寂しさにさらされる。家族も同様に想っていた鬼灯の傍らに居るべきなのはなまえではない、そう知らしめられた気がして、心の隅が少しだけ苦しい。 「知らないうちに鬼灯くんがいっぱい大切なものを作って…嬉しいのに、ちょっと寂しいの」 「…」 「勝手に置いてかれたような気持ちになっちゃって……だめだね、私」 「なまえさん、」 「ほんと…だめだ……」 地獄と現世の兼ね合いも、この世とあの世のしくみのすべてを理解した訳でもないけれど、鬼である鬼灯となまえが笑いあって過ごすのはきっと例外的なことなのだ。雨の日のあの出会いがあればこそで、本来なら許されるべきではない…などと、なまえはらしくもなく考え込んでしまう。 それほど直向きに彼女が鬼灯と向き合っているのだということを、彼も漠然と感じ取っていた。 きゅっと引き結ばれた唇と、あの日だまりのような笑みに飾られることのない翳りを帯びた表情に鬼灯は眉根を寄せた。そうして彼は容易くない思考に凝り固まったなまえの心をほどこうと、唇を割る。 「確かに私の帰るべき所は地獄です。しかし、心はいつも貴女の傍らに在るんです」 「…どういうこと?」 「気を抜くとなまえさんのことばかり考えています。おかげでつまらないミスを犯すところでした」 「……」 「どう責任取ってくれるんですか」 「そ、そんなこと言われても…!」 不謹慎にも、鬼灯の心を占めるなまえの割合が存外大きなことに喜びを覚えてしまう。彼が望むのならこうして忍び逢う日々も叶うのだろうかと考えてしまい、どうしようもなくあたたかになる胸。 単純な自身を内心で叱りつけるなまえの頬に桜色が戻ったのを認め、鬼灯はひとつ吐息した。 「あと、らしくもなく小難しいことを考えているようですがそこまで細かく現世への干渉を制限している訳ではありませんから」 「へ…?」 「なまえさんとこうして話すくらいなら何の支障もありません。どうせ逝き着く場所は皆同じですし」 「あ、案外ゆるいんだね…」 「ええ、ですから貴女は能天気に笑っていればいいんですよ。私は居たいからここに居るのです」 「……うん!」 彼が寄せた言葉には呆れが混じりつつも、秘め切れないなまえへの想いをはらんでいていて。それをすべてではないにしろ察した彼女がようやく日が差したような笑みをこぼし、つられて鬼灯も淡く眦をゆるめる。 彼女はいつもわらっていればいいのだ。 そう切に#name2の幸せを願うのはきっと、この胸をせつなく締め付ける想いの所為。しかしそれも悪くないと鬼灯は胸中でひとりごちながら、その太陽のやわらかな光を集めたような笑顔をまぶしそうに見つめたのだった。 |