千とせの君に | ナノ




前作うたかた最終話の続きからです


なまえの隣に腰を落ち着けた鬼灯。ふたり肩を並べ会話をする訳でもなく、再会を噛みしめるような、互いの存在を確かめるような沈黙が落ちる。
暫くの間穏やかにたゆたうそれに浸っていた鬼灯はわずかに顔を俯かせたまま、ぽつりと言葉をこぼした。


「戻りました、とはいいましたけど、すぐに行かなければならないのです」
「…そっか」


たまらなく寂しいけれど、何か理由があるのだろう。そうは思っても沈んでしまう声色を掬いあげることはできなかった。
鬼灯もきゅっと眉を寄せて目の前におりる夜の帳を切り裂こうとするかのように鋭くにらみつけている。
せっかくまた会うことができたというのに、重苦しい空気が2人の間に澱む。
嫌だな、と心の中で呟いて、そんな雰囲気を払拭するようにベンチから立ち上がるとにこりと笑顔を浮かべた。


「でも会えただけでよかったよ、元気みたいで安心した」
「なまえさんもお元気そうで何よりです」
「…もう行っちゃうの?」
「ええ、荷物を取りに行ってきます」
「へぇ、荷物……荷物?」


地面を冷たく固める灰色を見つめながら交わしあった言葉に疑問を覚えて彼を見つめる。その唇からさらりと落とされた科白にぱちりとまぶたをまたたかせると、なまえに倣うようにして腰を上げた彼は予定調和のようにするすると言い連ね始めた。


「そういえば言っていませんでしたが、今は丁ではなく鬼灯と名乗っていまして」
「え、そうなの?じゃあ鬼灯くんって呼んだ方がいいかな」
「はい、そうしてください。それと私が今身を置いている場所ですが、地獄なんですよね」
「………ん?」
「地獄で閻魔大王の第一補佐官をしています」
「…えんまだいおう」
「それで、昼間はあちらで仕事がありますが夜には時間が作れますので…泊めて頂いてもよろしいですか」


鬼灯の口からぽんぽんと飛び出してくる聞き慣れない単語や突拍子もない言葉を反芻させつつ呆気にとられていると、うかがうように顔をのぞきこまれて我に返る。
見紛うことのないあの黒曜色に促されて、まだ鬼灯の現状を理解しきれていない頭を必死に働かせ、思考を巡らせる。

確かに丁は死んだはずで、あの世というものがあるのなら地獄だって存在するのだろう。地獄があるのなら罪人を裁くといわれている閻魔大王がいても可笑しくはなく、鬼灯は閻魔を補佐する役人の職に就いている、ということだろうか。
頭が追いついていないのは否めないが、うん、とひとつ頷いた。


「わかった!」
「……本当ですか?」
「泊めるって件だよね、それはいいんだけど寝るところとかどうするの?」
「それはまた追々決めましょう。今日のところは帰ります」
「うん。じゃあ、また明日…?」
「何で自信なさそうなんですか」


だって未だに信じられないのだ。こうして眼前で呆れ交じりになまえを見下ろす鬼灯が、丁が地獄のひとだとか、閻魔大王とか。
あまりに彼との再会を望むために見ている夢まぼろしなのではないかと疑ってしまうのは仕方のないことだろう。
過去からやって来たと打ち明けた丁をすんなりと受け入れたあの時より成長したのかなあ、なんて思ってひとりほのかな笑みをもらす。
だとしたら、なまえの傍らで何か仕出かす度に眉間へしわを刻んでいた彼のおかげなのだろう。

そんなことを考えて頬をゆるめるなまえに鬼灯は訝しげな眼差しを投げたあと、くるりと踵を返した。
もうお別れなのだと悟って、背を向けた鬼灯を引き留めるように口を開く。


「行っちゃうんだね」
「ええ。…そんな捨てられた子犬のような顔をしなくとも、すぐ会いに行きますよ」
「……」


会いに行く。
その言葉が心にひっかかった。そのままそこに浅いひっかき傷をつくって、そよいだ風にさらわれていった音にまぶたを伏せる。
きっともう、彼の息づく場所は地獄なのだ。あの狭いアパートの一室でもなければなまえの隣でもない。唯一鬼灯が根をおろすことのできる場所は、帰るべき場所はここではない。それは彼自身が決めたこと。
そう言外に思い知らされた気がして、真新しい傷がじくじくと痛みを生んだ。


「どうしました?」
「…ううん、何でもない」
「……ではまた明日、ちゃんと会いに来ますので」
「うん」


こくんとあどけなく頷いたなまえの頭をその大きな手のひらで名残惜しそうにひと撫ですると、鬼灯は再び背を向けた。りん、と鈴の音を響かせながら小さくなっていく背中が完全に闇夜に溶けてしまうまで見送る。
彼の広い背中や低く心地よい声色を焼き付けるように脳に刻み込むと、一度まぶたをおろしたなまえはゆっくりと歩き出したのだった。




薄い皮膚をちかちかと瞬く日の光が照らし、目覚めを誘う。きゅっと強く目を瞑ったあとゆるくまぶたを開いていくと、ぼんやりと霞む視界にうつったのは漆黒。まだ夜だったのか、とはっきりしない頭で結論を出して再び眠る体勢に入ったなまえの耳朶を、聞き慣れない低い声色が撫でる。


「相変わらずお寝坊さんですか」
「?鬼灯くん…?」
「はい」
「………あ、あれ?何でいるの?」


ベッドへ肘をついて中途半端に起き上がった体勢のままこちらを仰ぐなまえに眉間のしわを深めた鬼灯はおもむろにその長い指を彼女の額に触れさせた。ぱちぱちとまぶたをまたたかせるなまえを軽くにらみつけながら、指先にくっと力を入れる。


「わっ!?」
「窓が開いてたんですよ」
「え?」
「朝早くにこちらへ着いたのでどこかで時間を潰そうと思っていたのですが、貴女の部屋の窓が開いていたので入らせて頂きました。まぁ、始業時間が始まるまでしか居られませんが」


鬼灯によって身体を倒されたなまえは背中をふかふかとした蒲団に受け止められながらそういえば、と思い至る。
少し蒸し暑かったから窓を開けて、そのまま眠ってしまったかも知れない。
丁と過ごしていた頃は彼が戸締りにうるさかったので気をつけていたけれど、周囲に無防備なところがあるらしいなまえはひとりになると更に無用心になるようで。しまったなぁ、と目の前で眉をきゅっと眉をしかめてなまえを見下ろす鬼灯を見つめた。

なまえと瞳をからめた鬼灯は、ひゅっと息を吸い込むとひと息に言葉を吐き出す。


「いくら日本の治安がいいとはいえ女性の1人暮らしが狙われやすいことくらいは知っているでしょう、無防備にも程があります。世の中にはなまえさんが想像もつかないくらいの悪事をたくらむ輩が五万といるのですよ、わかっているんですか」
「わ、わかって」
「ません。全く理解していません、いいですか、何かあってからでは遅いのです。……貴女が傷つけられでもしたら、私は貴女を守ることができなかった自分自身を許せないでしょう」
「鬼灯くん…」


鬼灯がぐっと握り締めた拳に気がついたなまえは、身を起こすと彼の手をほぐすようにそっと両手で包み込む。
ひと回りもふた回りも大きくなった鬼灯の手のひら。そのぬくもりがいとしく思えて、なまえの体温に促されるようにしてゆるゆると開いていくそれに慈しむような眼差しを寄せた。


「頼みますから、警戒するということを覚えて下さい」
「…うん」
「……わかったのならいいです」
「………あ、でもそれって鬼灯くんにも当てはまるのかな?」
「は?」
「警戒…した方がいい?」


こてん、と首を傾けて鬼灯を見つめるなまえに何とも言えずに言葉につまる。以前と変わらない、純粋な色をにじませる虹彩に射抜かれて思わず顔をしかめた。

ますます気難しそうに目を細めた彼に聞いてはまずかっただろうかと様子をうかがうと、鬼灯は諦めたように、どこか呆れたように。それでも濡れた黒の虹彩にやわらかな光を溶かしてなまえを見つめ返した。


「まぁ警戒されすぎても困りますけど、あまり無防備にいられても嬉しくはないですね」
「…??つまり?」
「程よく警戒しろ、ということです」
「…難しいね」


曖昧な科白に首を傾けたなまえは答えを探すように視線をふらりと宙に彷徨わせる。
その仕草が記憶にある彼女よりずっと幼く鬼灯の目に映った。
いや、こちらが成長したのだ。幼い自身では決して届くはずのなかった彼女の頭に造作もなく触れられるほど、空から見守ってくれているやさしい太陽を思わせる笑みを見下ろせるほど。何せあれから数千年の年月を重ねたのだから。

ふっと息を抜いて立ち上がった鬼灯は運んでおいた荷物を解こうと窓際に近づいた。
鬼灯に倣うようにしてなまえもその大きな背中を追い、彼の肩越しに見えた山と詰まれた荷にぽかんと口を開けた。


「随分たくさんあるねぇ」
「デスクワークくらいはこちらでも出来るので運ばせて頂きました」
「……あれ?よく考えたら二度手間なのに、どうして昨日会いに来てくれたの?」


家主に許可を、とは言われたけれど、なまえの性格を考えたら断りはしないことなど分かっていただろう。ならば何故、とまたもや疑問符を浮かべたなまえに鬼灯の肩がぴくりと揺れた。
相変わらず鬼灯の弱いところを探し出すのが得意らしい彼女に深い深いため息をつく。じっとこちらを見つめたままのなまえにちらりと視線をやると、観念したように引き結んでいた唇をほどいた。


「貴女が幼い私と出会い、別れるまで会いに行く訳にはいかなかったのです」
「うん」
「本当は"丁"が消えてから1日と経たずになまえさんの前に現れるつもりだったのに大王が………まぁそれは置いておいて、つまり早く会いたかったんですよ」
「……」


会いたかった。
無防備だったなまえの心にぽとん、と落とされた、どこか熱のこもった声音。警戒なんてする暇もなくつむがれた言葉はじわじわと波紋を広げていって、なまえの心をまるごと飲み込んでいく。
ぱっと頬に朱色を散らしたなまえを目にした鬼灯は小さく顔を傾けて彼女の名を呼んだ。


「正直限界が近かったので1日すら待てる自信がなく……なまえさん?」
「ちょ、丁くんってそんな、ストレートに色々言える子だったっけ!?どっちかといえばツンデレくんだったような…!」
「そりゃ数千年も待たされれば余裕だってなくなります。あと呼び方戻ってますよ」
「わ、私の余裕もなくなりました…!」


ほのかに頬を色づかせてあたふたと忙しなく周囲を見回すなまえは照れているのか鬼灯と視線を交わそうとはしない。

幾星霜を積み重ねて、過ぎ去る日々の中でなまえを想わない時はなかった。待ち焦がれ想い焦がれ、ようやく再会が叶ったのだ。心地よい彼女の声が鼓膜をくすぐり、触れ合う手のひらのぬくもりが肌を染める。ずっと求めていたものがそこに在るというのに、くだらない片意地を張るのは時間の無駄だと思えた。
彼女がそこに居ることを確認するように、その赤の混じったやわい頬を指の背でなぞると、なまえはぎゅっと目を瞑ってしまった。


「ではこれからは余裕のなくなったなまえさんを存分に堪能することにします」


なまえは愉しげな音をふくんだその科白に嫌な予感をひしひしと感じながら、淡く火照った吐息を唇からゆるりと逃がしたのだった。


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