落ち着きを取り戻したなまえは今度こそ着替えをするために立ち上がる。名残惜しそうに部屋を出た丁の背を目で追い、手早くいつもの部屋着に袖を通した。 泣いた後特有のぼんやりと霞がかった頭に気合いを入れるようにぱちん、と頬をたたいたなまえは、小さく唇を開けて酸素を取り込むと丁の待つリビングへと足を向けた。 「お待たせ!」 「…もう平気そうですね」 「お、お見苦しいところをお見せしました…」 初めてではないとはいえ、幼い丁に泣き顔を見られるというのは何とも気恥ずかしい。 むずむずとする内心を誤魔化すようにはにかむと、どこか優しげな眼差しをくれた丁がぽんぽん、と隣を叩いてなまえをソファへと促す。 「それで伝えなきゃいけないことって、…時間がないってこと?」 「ええ、それもありますけど…」 元の調子を取り戻したなまえを見て安堵の色を見せていた丁の瞳が、まるでおぼろ雲が太陽の日差しを隠したかのように薄く翳る。 ためらうというより何かを恐れるように目を伏せた丁は、なまえの服の裾を掴んだ。縋るようなその幼い手のひらはきつく固められている。 「何を言っても何を見ても、怖がらないでくれますか?」 「うん」 「…嫌わないで、くれますか?」 「当たり前だよ」 何を打ち明けられても丁が丁であることには変わりない。いとしい彼を無碍にすることなんてなまえには出来る筈もないのだ。 まっすぐなまえを見つめる淡く濡れた瞳をやわらかく受け止めると、心の準備を整えるように1度息を吸い込んだ丁は帰ってからも外すことのなかったキャスケットに手をかけた。そこから垣間見えた白いそれに、なまえはあえかに目を見張る。 「……それ、なに?瘤じゃない…角…?」 「わかりません、硬さから推測すると角だとおもいますが…」 「触ってもいい?」 「………はい」 キャスケットの下に隠されていた小さな角と尖った耳。それは丁がこの世界には異質な存在なのだと言外に訴えているようだった。 始めは額に主張するそれに驚いていたなまえだったが何かに怯えるようにうつむきがちに震える丁に気がつくと、おもむろに身体を寄せて手を伸ばした。 目と鼻の先のごく近い距離になまえがいる。 そっと角を撫でられてふるりと肩を揺らした丁を気遣うようにやわく指先を滑らせる仕草には確かな想いがにじんでいて、日光をいっぱいに浴びた洗濯物を取り込んだ後のような、なまえのあたたかく優しいにおいが鼻をくすぐる。 丁を取り巻くすべてに安らぎを感じ、彼はゆるゆるとまぶたをおろした。 なまえはさらりとした乾いた感触のする角に触れたあと、鋭さを増した耳の先に指を這わす。なまえと何ら変わりない体温を持った柔らかな耳。 多少見た目が変わっただけだ、丁を慈しむその気持ちに変化などない。 艶やかな黒髪を梳くようにするりと撫でると、目を閉じていた丁が黒曜色をのぞかせてこちらを見上げる。 「生える時も今も…痛くはなかった?」 「はい、大丈夫でした」 「そっか。丁くんが苦しい思いをしなくてよかった」 「………なまえさんは、本当に変な方です」 「えっ」 なまえの言葉はたまらなく嬉しいものだったが、これ以上丁の心を縛り付けて何がしたいのだろう。 そんなあまのじゃくな思いを胸になまえの手にぽすりと軽く拳をぶつける。かすかに突き出た唇になまえがくすくすと笑いをこぼすと、我に返ったように動きを止めた丁はひと呼吸おいて口を開く。 「今日はずっと、傍にいてくれますか?」 「うん。傍にいる」 なまえの一言を聞き届けた丁は、ソファに座る彼女の膝の上にそっと頭を乗せた。 思いがけない丁の行動にまぶたをまたたかせたなまえも、膝にかかる愛くるしい重みとぬくもりに表情をほころばせ、流れる黒髪に指先を差し込んで愛でるように撫でつける。 丁はじんわりと伝わるなまえのあたたかさを全身に感じながら、手にした朱色の鈴をぎゅっと握りしめた。 「約束、覚えていてくださいね」 「うん」 「私がいなくなっても泣かないでくださいよ。泣くなら私の前にしてください」 「…うん」 「悪いひとにだまされないよう気をつけてくださいね、もう見張っていられないんですから」 「ふふ、わかった」 身体を包むなまえの体温に溶かされて、このまま彼女とひとつになれたらいい。 そんなくだらない願いを本気で祈ってしまうくらい、丁にとって此処は自身のすべてだった。あの他人行儀な冷たい目に囲まれる村よりも、あのほの暗い夢よりもなまえのいるこの世界に、叶うことなら彼女の隣で息づいていたかった。 丁のひそやかな想いを否定するように、ゆらり、と自分の中のほむらが揺らぐのを感じる。 もういかなくてはならない。 「なまえさん」 「……ん?」 「すきですよ」 「…私もだよ」 丁の唇からうまれ落ちたその言葉は、ほのかな甘みを帯びてなまえの胸に染み込んでいった。 丁は慈愛と優しさに満ちた眼差しをくれるなまえを見上げずっと心の内にせき止めていた想いを吐露すると、ふっと唇に微笑みをこぼす。 胸のすくような思いを感じながら、丁を優しくくるむような日だまりを思わせるあの笑みを浮かべたなまえを、目の前が暗闇に閉ざされるその時まで虹彩へと焼き付けるように見つめた。 ちりん、と丁に寄り添うように響いた清く澄んだ音色が、耳の奥でこだまする。 * あの子が消えてしまってから1ヶ月が経った。なまえの腕の中で徐々に輪郭を溶かしていく彼を思うと冷たい手に心臓を握られたように苦しいけれど、流れゆく時間は待ってくれない。 まだあの日に囚われたままのなまえを連れて、日々は無情にも過ぎ去っていく。 丁の思い出を胸に抱えながら灰色の道を進む。ぽつぽつと佇む街灯に照らされてこの道を歩くのが、ひと月前からの日課となっていた。 白い枠に切り取られた向こう側を、ふたつの目を爛々と光らせたそれが駆け抜けていく。車を初めて見た丁は心底驚いていたなぁ、といとしい記憶が呼び覚まされて唇に微笑を乗せた。 思い出の海に浸っていると、ポケットの中で携帯が震える。 着信だ。 画面に映し出される名前を確認して、冷たいそれを耳に押し当てた。 「もしもしお兄ちゃん?久しぶり。うん、元気だけど……嘘じゃないって、ほんとに元気にやってる。 ………ううん、ごめん、嘘ついた。ちょっといろいろあって…うん、でも大丈夫」 なまえの繕った声色など簡単に見破ってしまう兄には頭が上がらない。 彼の仏頂面がまぶたの裏に浮かぶ。けれどその言葉の節々になまえを案じる優しさを感じて心がゆるんでいった。 彼の低い声を聞きながら、目的の場所までたどり着いたなまえは手になじむ心地の良い木の感触に口の端から笑みをもらした。 そこに腰掛けて肩越しに背後を振り返っても、もうあの子の白は見えない。思いやるような兄の声に上の空で返事を返しながら、そっと木造りのベンチを撫でた。 一言二言交わし、まだ何か言いたそうな兄の科白を遮って電源ボタンを押し込むと、脳裏にふつふつと蘇る大切な思い出たちに手繰り寄せられる感情の糸を弛めるように息をついた。 暫く辺りを包む吸い込まれそうな暗がりをぼうっと見つめ、丁との記憶のかけらをひとつひとつ拾い上げていく。心の柔らかいところをつつかれたように次々とあふれるあたたかい想いにふわりと唇がほどけた。 どのくらい其処に居たのだろうか。 夜風になびかれて冷えた指先を握り、もう帰ろうかと前を向いた、その時だった。 ちりん、となまえを呼ぶようにささめいたその音は夜の帳を裂いてやわらかに鼓膜を揺らす。 りん、ともう1度耳に快く響いたその音色は、重たい闇に飲み込まれることなくなまえへと届いた。その音に重ね合わせるように、手の中の鈴が涼やかに鳴る。 りん、りん。 ふたつの高い音色は逢瀬を喜ぶように仲むつまじく語り合う。 嬉しさや喜びや今までの寂漠が綯い交ぜになり胸を突いて、くっと喉元にこみ上げた。ふくらんだ水滴がまぶたの縁からこぼれそうになるのを懸命にこらえて、鈴の音の主を見上げる。 闇色に染まったそのひとは呆然とこちらを見つめるなまえを一瞥して気難しそうに眉をひそめ、こう言った。 また泣いているのですか、と。 「………丁くんが遅いせいだよ」 「…すみません、もう少し早く終わらせられると思ったのですが、使えない上司が厄介な案件を持って来やがりまして」 「………丁くん」 「はい」 「おかえり…!」 「……只今戻りました」 それだけで十分だった。 数分にも満たない間交えた言の葉は、この1ヶ月を、彼にとっては気が遠くなるほどの膨大な時間の渓谷を埋めるには十分すぎるほどの切なる想いが込められたものだった。 また泣き出しそうに顔をゆがめたなまえをあやすように優しく頬をなぞる手のひらは随分成長してしまって、あのあどけない柔さはなくなってしまったけれど。 この温度は丁のものだ。焦がれていたあの子の感触だ。 そう思い知って、なまえは彼のぬくもりに心ごとうずめるようにすり寄ったのだった。 |