「いたたた…容赦ないんだからなぁもう」 「痛いのが嫌なら仕事溜めないで下さい」 期限が迫った書類の山を見けた鬼灯に先ほど制裁を受けたばかりの腹をさすりつつ、閻魔は巻物に目を通す部下を盗み見る。 いつも通り淡々と迅速に職務をこなしていく彼はどこか急いているようだった。思考と身体は黙々と労働しながらも心は誰かの傍らにあるような、そんな気配に包まれている気がして閻魔は鬼灯を観察するように眺める。 この厳しく冷徹な部下といえば、近頃どこか様子がおかしい。 もちろん有能な彼らしく仕事はきっちり完遂するのだが、定時を過ぎると日常と化していた残業をするでもなく夕食をとりに食堂へ向かうでもなく、足早に姿をくらませてしまうのだ。 それを不思議に思ったのは閻魔だけではない。 彼の幼なじみたちや新入りの獄卒にも奇怪に思われ、何やら並々ならぬ事情があるのではないかと変に勘ぐられてしまうほど、ここ最近の鬼灯はおかしいのだ。 今朝、例に漏れず彼が不在の食堂で語りあった会話を思い描き、閻魔は緊張から表情筋がひきつるのを感じながら口を開いた。 「そそういえば鬼灯君、最近仕事が終わったらすぐどこか行っちゃうけど何してるの?」 「何、と言われましても…」 「寮にも戻ってないみたいだし、ずっと朝帰りみたいだし……ままさか花街にでも…!」 「んな訳ないでしょうが、どこかの白豚さんじゃあるまいし」 「だ、だよねぇ」 まさか酒や女に溺れているのではないかと最も可能性の低い予想をあたってみたのだが、やはり外れていたようだ。 それならば、彼が目をかけ可愛がっている金魚の他に趣味でも出来たのではないだろうか。 存外凝り性で妙なものに興味を惹かれやすい鬼灯ならば考えられないことでもないと考えた閻魔は彼の様子をうかがいつつ問いかけた。 「じゃあ何か趣味にでも入れ込んでるとか?」 「いえ、別に趣味ではありませんけど」 「うーんそれなら…」 「…さっきから何ですか。誰のせいで私の仕事が増えたと思ってるんです、口ばかり動かしていないで手も動かしなさい」 「は、はい!」 質問に質問を重ねられ、探るような目も相まって苛立ちが最高潮に達したのだろう。重苦しい影を背負い射殺されそうなほどの眼力を携えた鬼灯ににらまれ、閻魔は情けなく縮こまった。 身を固くしながら筆を取ると、低い声音がぽつりと落とされる。 「通い妻…ですか」 「……は?」 「いえ、こちらの話です」 以前なまえが冗談めかして言った言葉が鬼灯の頭をふとよぎり、思わず口を突いて出る。 手元に目線を落としながらもやはり意識はこちらに向かっていたのか、ひそめて呟かれたそれを耳敏く聞きつけた閻魔は声をあげた。 「いやいや聞こえてたから!!通い妻?え鬼灯君が!?」 「うるさい」 「あごめん…じゃなくて!それ鬼灯君が言いそうにない単語ベスト30くらいには入る!」 「微妙ですね」 「その話詳しく聞かせてくれないかな!?ほらちょうどお昼だし食堂行こう!」 「あ、ちょっと大王」 時計の針がちょうど真上を指したのをいいことに、これ幸いと仕事を中断した閻魔に半ば無理矢理腕を引かれる。 いささか気分が高揚しているらしい彼のみぞおちに拳を叩き込むと多少大人しくなったものの、喜々として前を行く閻魔は鬼灯からすべて聞き出すまで諦めないだろう。 はぁ、と深いため息を吐き出した彼は、地上で勉学に励んでいるだろうなまえを想って意味もなく閻魔殿の天井を仰いだのだった。 * 「か、通い妻?鬼灯様が?」 「うそだろ…」 「意外と尻に敷かれるタイプだったのかな…?」 「これで少し落ち着いてくれたらいいのに…」 鬼灯から要所をかいつまんで聞いた話に、顔を突き合わせ思い思いの反応を示すのはお香や鳥頭、蓬だ。自身の希望も混ぜ込んだ一言を漏らす閻魔をひと睨みした後、鬼灯はお椀に口をつけながら呆れたような眼差しを幼なじみたちに向ける。 「何でお香さんたちもいるんですか」 「そりゃ皆気にしてたしねぇ」 「はぁ…」 彼らにまで心配をかけていたことを悔やみつつ肩をすくめると、向かいに座るお香が内緒話をするように口元を手で隠しながら声をひそめた。 「…ねェ鬼灯様、そのお相手ってずーっと昔話してた方?」 「……よく覚えてましたね、そんな昔のこと」 「覚えてるわよォ、あの時随分かわいらしい顔をしてたもの」 「…できれば早急に忘れてほしいですけど……まぁ、そうです」 「本当に?良かったわねェ鬼灯様、何たって4千年だものね…」 「…」 恋の話に目がない乙女のようにぱっと表情を明らめたお香をよそに、鬼灯は幾星霜を越えた幼い時を想起する。 そう、あれはなまえと名残惜しくも別れ黄泉へとたどり着いて、少し落ち着いた頃のこと。 教え処にも通うようになった鬼灯は師へのいたずらや友人たちとの戯れで退屈と寂しさを紛らわせようとしていた。 もちろん、黄泉での暮らしに不満はない。友人たちとの関係はあたたかなものだったし、あの小さな村での生活を思えば天と地ほどの違いがあった。しかしここには彼女がいない。何故と問われれば返答に詰まるが、なまえがいない日々は胸にぽっかりと穴があいたようだった。どんなに遊びに興じようとうまれた愉楽やあたたかな想いは、心に出来た空虚な隙間から器を失くした水のごとくこぼれ落ちていく。 それを相談しようにもお世辞にも頼りがいがあるとは言えない友人に打ち明けるのははばかられ、鬼灯は寂寥を抱えたまま繰り返される日常を過ごしていた。 そんなある日、ふと思い至ったのだ。 歳のわりには大人びているお香ならば何かわかるのではないかと。 その頃には心にさびしく巣食うその想いが姉や母としてなまえを求めているのではないと薄々感づいていたし、もしも鬼灯が考えているもの―…色恋の類いならばなおのこと女子である彼女が適任だと思案した。 そうしてなまえとの思い出をにじませる度胸をせつなくきゅうっと締め付けるその正体を彼女に問うてみたのだ。 ―あるひとを想うと胸が苦しい、息も詰まって動悸も激しくなる。しかし何故か心地よくもあるこれは、いったい何なのか、と。 唐突な質問に面食らい困惑していたお香が、言葉を探しつつ与えてくれた答えはやはり"恋"で。 鬼灯に日向のようなぬくもりを注いでくれるなまえの笑顔を脳裏に描いていたところに、お香から頬が赤いと笑いをふくんだ声色で指摘されたことは今でも覚えている。 いとけない恋に揺れていた当時を思い出すと綿羽にこそぐられたようなくすぐったさに襲われるが、それも悪くないと思い直せるのはなまえとの再会が叶ったからだろう。 感慨深く吐息した鬼灯に、お香は再度声を落とす。 「それで、どうなの?そのひととは」 「…どう、とは?」 「4千年越しの恋が叶ったら素敵だわ」 「そう、ですね。努力はするつもりですが……」 「…ふふ、本当に素敵」 努めて冷静に返す鬼灯だが、その表情はどこかやわらいだものだった。つむぐ声の音にはまだ見ぬ彼女へ寄せたやさしさや慈しみや愛情がこもっていて、お香は思わず微笑んでしまう。 彼女は見守るような微笑を唇に乗せ、永遠のような年月の間一途に想い続けた彼へどうか福音が訪れるようにと心から願ったのだった。 |