「衆合地獄が人手不足、ですか」 「はい、どうやらたちの悪い風邪が流行っているようです」 「困ったわァ、人が足りないんじゃ呵責しようにも…」 「他の部署から少しずつ人員を回しているんですけど、どこも余裕がなくて…」 困り果てたように顔を見合わせたなまえとお香に、眉を曇らせる鬼灯。彼らの悩みの種は衆合地獄の欠員だった。 ただでさえ地獄全体が人材不足だというのに、どこからか運ばれてきた病原菌が獄卒たちの間で流行っているのだ。なまえは問題ないところを見ると鬼インフルエンザのような、鬼たちにのみ罹る病だろうか。 数日経てば全快するほどの軽いものなので、明日になれば何とか刑場も立ちゆくようになるだろうけれど病み上がりの彼らに残業などさせられる筈もない。今日に割り振られた職務は何とかこなさなければならないのだ。 他の部署は充てられた仕事に忙殺されているためこれ以上人員を割くゆとりはないだろう。 何れほど考えを巡らせても、ひとつの結論しか導くことが出来ない。なまえは鬼灯の反応をうかがうようにそっと彼を見上げた。 「あの…鬼灯さん」 「………気は全く進まないんですが、仕方ないですね…」 「じゃあ、」 「なまえには1日、衆合地獄の獄卒として職務に就いて頂きます」 じっと鬼灯を見つめると、彼はなまえの言わんとするところを悟ったように重みのあるため息を吐き出した。 背に腹はかえられない。仕方ないと自身を半ば強引に納得させ、鬼灯はなまえが1日だけ衆合地獄の獄卒を務めることを認めたのだった。 安堵の息をついたなまえと懸念にざわつく心を鉄面皮で覆い隠した鬼灯を交互に見やったお香は、早速といった具合になまえに向き直る。 「じゃあお化粧し直してもいいかしら?着物ももう少し派手目な方がいいかもォ」 「あ、はい」 「……お香さん」 「ふふ、露出は控えるから安心してね、2人とも」 「それは有難いです…」 亡者を誘うにはやはり多少肌を見せることが必要だろうかと思案し、妖しげな暗がりの中に映える艶めかしい白を思い起こしてひとり頬を赤らめていたなまえにとっては有り難いことだった。 お香の科白は彼女だけではなくその背後でじわじわと眉間にしわを寄せていく彼にも向けられていたものだったのだが、なまえは気がつかない。色目を使うという慣れない行為に気を張っている様子の彼女を連れ、鬼灯からの視線を受け流しつつお香はなまえの身支度を整えるべく踵を返したのだった。 * 金糸で刺繍をほどこされた帯と、落ち着いた黒地に鮮やかな牡丹の花が咲き誇る着物が彼女の隠れた清艶さをにおいたたせている。真朱色の紅に染められた唇がまた人目をいた。そして極めつけは着崩した足元。布を裂いたような裾の合わせからわずかにのぞく白い脚がなやましい。 なまえは着慣れない艶やかな装いに恐縮したように肩を縮こまらせながら、恐る恐るお香に訊ねた。 「これ派手すぎませんか?それに脚が…、私には似合いませんよ……!」 「そんなことないわよォ、よく似合ってるわァ。人手が足りないから少しでも目立って亡者を誘い出さなきゃ、ね?」 「そそれはそうですが…」 艶美な見目とは裏腹に、恥じらい伏せられた目を縁取るように色づく頬が彼女の清らかな性質を際立たせている。その噛み合わない色合いが人を惹きつけることをなまえは理解していないのだろう。 現に衆合地獄へと向かう道すがら、通りすがる男の目を集めていたことを彼女は知らない。 人の心の機微には一際敏いというのに、こういう方面に関しては気がないというか、殊更鈍いのは如何したものか。 彼が目を離せないのもわかる、と考えながら、お香は緊張した面もちで足を進めるなまえを安心させるようにそのやわらかな手を取った。 「そういえば呵責する獄卒の数も足りないようでしたけど、そちらはどうなったんですか?」 「ああ、すごく頼もしい人が引き受けてくれたのよ。他の獄卒の仕事も取っちゃうんじゃないかしらァ」 「…?」 ふくみのある微笑みをくすくすともらすお香に首を傾げつつ、なまえは刑場へと足を踏み入れた。 お香は他に職務があるらしく、彼女と分かれたなまえは割り当てられた持ち場でひとり腰を落ち着けた。 ほのかな明かりの元、なま暖かい空気がなまえの無防備な脚をなぶっていく。 男を誘うなんて出来るのだろうか。否やらなくては、と意気込むなまえの周囲に張りつめた気配がたゆたうのが自身でも認識出来た。 これでは蜘蛛の子一匹誘き寄せられてはくれない、と憂慮に沈む思考を払拭し、先ほど分かれたお香を脳裏に思い浮かべる。 彼女の技を盗めばいい。付け焼き刃でも構わない、憧憬を寄せている彼女がするように色香をはらんだ瞳を対象に流す。露わにしている脚は武器として使うのだ。羞恥は捨てる、これは立派な仕事なのだから。 そう繰り返し胸の内で呟き、なまえは闇の向こうにうごめく亡者たちにその妖艶な甘さをはらんだ眼差しを投げた。 「………」 「あれ、鬼灯様どうしたんですか?」 「いえ、ここら一帯は私が担当するので、貴方は別の場所をお願いします」 「はぁ、わかりました」 怪訝そうな目を向けながらも去っていく獄卒を横目に、鬼灯はふっと息をつく。 しなやかな甘みを内包した香りが漂う周囲にぐるりと視線を巡らせた彼は、他よりかすかに薄く霞むそこを透かすように射抜いた。 女を求めるその動きに合わせゆらりと混ざる白。鬼灯は彼女がにじませる蜜に誘われてきた害虫を靄に紛れて薙ぎ、粗暴に踏みつけながら背後に目をやる。 鬼灯に背を向けているなまえは罪人の気配を追っているのかこちらに気がつく様子はない。 時折薄霧の隙間からまみえる艶めいた瞳と、ちらりとのぞく白雪のような脚が鬼灯の網膜に甘美な毒となって焼き付いた。 普段は恥ずかしがって滅多に肌を見せないくせに、ひと度仕事だと割り切ってしまえば事もなげにその釉に覆われたような白を露わにしてしまうのだから困る。いたずらな蝶のようにちらちらと見え隠れする様子がまた男心をくすぐるというのに、なまえは何もわかっていないのだろう。 深くため息をつき足の下で芋虫のように無様に這い蹲るそれを足蹴にすると、わらわらと集まる虫共を駆除するべくなまえの元へと歩み寄った。 「なまえ」 「あ、鬼灯さん!頼もしい人って鬼灯さんのことだったんですね」 「…露出、しないんじゃありませんでしたか」 「あ……ええと、これは鬼女さんたちに無理矢理着せられまして…」 鬼灯の指摘にしどけなく見えていた柔肌を慌てて隠すなまえはふらふらと瞳を泳がせて曖昧に笑う。 鬼灯ははぐらかすような笑みに騙されることなく彼女を射すくめたあと、下卑た笑いを浮かべる亡者たちに視線を滑らせた。 腹に渦巻く苛立ちをぶつけるように残ったそれらをひと思いに打ちのめすと、彼は再びなまえの眼前にゆらりと佇み目を眇める。 剣呑とした眼差しにちくちくとつつかれ、なまえは萎縮したように首をすくめた。 「なまえなら露出に頼らずとも亡者の数人くらい誘い込めたでしょう」 「え?」 「私の嫁は、色目など使わずとも男をたらし込める器量を持ち合わせていると言ったんです。それを見せなくてもいい肌をさらして……全く、職務でなかったら許しませんよ、こんなこと」 「鬼灯さん…」 「……私は叱っているんですけど?どうしてそう嬉しそうなんですか貴女は」 思いもよらない鬼灯の科白が脳に届くまで随分と時間を要したけれど、頬へじんわりと広がった熱に浮き立つように心までもが華やいでいく。 握られた拳が叱りつけるようにこつん、と軽く額に当たるその仕草でさえ胸の内をくすぐっていって、ゆるんだ表情はなかなか引き締められない。 重なった雲の隙間からこぼれた陽のように彼女の顔に差し込む笑み。それにほだされそうになりつつも、鬼灯は眉間に刻んだしわを解くことはなかった。 「なまえ、わかっているんですか」 「ふふ、はい。…でも鬼灯さんがいてくれるなら、私に危険はないんですよね?」 「…当然でしょう」 「頼りにしてます、旦那さん」 「………」 調子づいてしまったなまえに先手を打たれ、唇をきゅっとへの字に曲げた鬼灯は如何やっても心にこみ上げるいとしさに人知れず白旗をあげた。 しかし諦めたように吐息をもらした鬼灯がただやり込められる筈もなく。 おもむろに屈んだ彼はたなびく靄のカーテンに隠れるようにして、無防備にほころんだなまえの唇にかぶりついた。 まるでうまれた恋情を注ぐようにそこを二度三度とやわらかく啄ばまれたなまえは、暴れ回る心臓を抱えて鬼灯を上目に見る。そうして目に入ったそこに、とくり、と大きく心音が高鳴った。 「……っ鬼灯さん、唇が…」 「…ああ、移ってしまいましたね」 「拭きますか…?」 「いいえ、どうせまた付くので」 なまえの唇を染めていた朱色が彼のそこを淡く彩っているのを目に止め、どうしようもない気恥ずかしさと共に甘やかな幸せが心を満たす。 なまえに示されて唇に指を這わせた鬼灯の虹彩はやわらかく揺らぎ、胸をあえかに通う喜びが浮き出たかのようだ。 言葉はなくとも、なまえを愛しむ心をこぼしたような彼の瞳と間近で混ざり合う。 今すぐにでも逃げ出したくてさざめく想いと、まだこの熱の余韻に浸っていたいという相反した想いにその身を疼かせながら、なまえはもう一度近づく濡羽色を見つめたのだった。 |