彼女の帰りを知らせる明るい声音が丁の耳に届く。彼は理解出来ない文字の羅列を追っていた目線を持ち上げ、なまえの部屋で暇つぶしに眺めていた雑誌を閉じて彼女を迎えに玄関先へと向かった。


「丁くん丁くん!」
「何ですか?…それは」
「カボチャ、安かったから買ってきた!」
「そんな重いものを持って、歩いて帰って来たんですか?」


帰宅を告げる挨拶もそこそこに、無邪気な声を響かせて丁の名前を呼ぶなまえ。
春の日差しのような笑顔をほろりとこぼす彼女の両手に抱えられているのはダンボール箱。その中に窮屈そうに詰められていたのは南瓜だった。

手首には他にも買い物袋が提げられている。山の葉は茜や楊梅に色づき、稲穂は重たそうにその頭を垂れ、すっかり秋めく今日この頃だというのに大荷物を抱えて帰宅したからかなまえの額にはわずかに汗がにじんでいた。
何が彼女の心を浮つかせるのかは知らないが、荷物をおろしたなまえの手首には赤い痕がくっきりと残ってしまっている。
健康的な柔い肌に痛々しく残った紅にむっと眉をひそめた丁は、床におろされたそれを奪い一足先に居間へと進んでいく。


「あ、丁くん?」
「たくしー、でしたっけ。それでも頼めばよかったじゃないですか」
「ん?すぐ近くだしそこまでするほどじゃない…」
「あります。痕になってるじゃないですか」
「痛くないから平気だよー」
「そういう問題ではありません」


幼い身体を揺らし前を歩く丁の、どこか怒気をこめた声色がなまえを責める。
音にはならずとも普段よりも強い口調の節々にはなまえを想う気持ちが垣間見えた。
胸をほっこりとあたためるそれに思わず笑みをもらすと、気配を察した丁から鋭い眼差しが飛んできた。

笑い事ではない、と言外に訴える瞳をなだめるように彼の頭をやわく撫でれば丁はふらりと目を逸らす。
どこか嬉しさをこらえるようにきゅっと唇を引き結んだ彼は、暫くなまえのぬくもりに身をゆだねるようにじっと動かなかった。


「心配してくれてありがとね」
「べつに、心配とかでは」
「ふふ」
「………」


なまえのゆるみ切った頬をちらりと上目に見上げた丁は手のひらの下でもぞりと身じろぐと、その心地よさを振り切るように荷物を片付け始める。
その墨を流したような黒髪の隙間からのぞく耳がほのかに染まっているのを認め、なまえはまた眦をなごませた。

そして自身が抱える箱の中にふと目を落とすと、疼く胸をはぐらかすように黙々と作業に徹する丁へ朗らかな声をかける。


「ね、丁くんこれ!」
「カボチャでしょう?こんなに買ってきて…ぜんぶ食べるんですか」
「違うよ、これは食用じゃないの。ハロウィンっていう行事に飾るための物なんだよ」
「はろ……」
「ハロウィンはね、本当は海外のお祭りだったんだけど……」


どこかの国では悪魔祓いだとか厄除けだとか、宗教的な意味合いもあるらしいけれど日本では違う。ただ仮装を楽しんだりお菓子の交換をしたり…良いところだけをかい摘んだイベントになってしまうところが自国らしいというか。

元来大雑把な性格をしているなまえにとっては楽しめれば良い、という考えなのだけれど、丁は気難しそうに考え込んでしまった。


「甘味を貰うだけ……?何のためにですか」
「え、さぁ…何でだろうね?」
「わからずにやってるんですか?」
「そんなものだよー。楽しければいいの!タダでお菓子が食べられるなんて幸せだもん」
「はぁ…それで、このカボチャで提灯を作るんですね?」
「うん!」


お気楽ななまえに呆れたような視線を刺しつつも、丁は新聞紙を床に敷くのを手伝ってくれる。
とりあえずお手本として丁には傍らで見ていてもらい、なまえは準備を整える。ちょこんと膝を抱えなまえの手元を覗き込む彼は口では難色を示していたものの、瞳は好奇心を映し出したかのように揺らめいていた。

丁の様相にひそやかに笑んだなまえはまず南瓜のお尻の部分を円状にくり抜き、そこから種を取り除いた。
あとは顔を描いて線に沿ってまたくり抜き、中にろうそくを立てるだけだ。案外簡単に出来るけれど皮が硬いので丁には小さな南瓜を選んで渡してやる。


「怪我しないようにね」
「はい……なまえさんこそドジを踏まないで下さいよ」
「はーい」


両手でくるめるくらいの大きさの南瓜を小さな腕に抱える様子が可愛らしく見え、丁を眺めてだらしなく表情をくずすなまえ。それに気がついた丁に膝をぽんとはたかれたり、取りとめのない言葉を交換しているうちに橙色の提灯は完成していく。
その頃には夕焼けに焦がれていた街並みも青藍色の闇にとっぷりと浸かっていた。


「あとはろうそくを入れて出来上がり!ベランダに置こうか」
「はい」


透き通る隔壁を開けて外に出ると、やわらかな小夜風が丁の髪を梳いていく。銀色の枠に仕切られたここが、何故だか外界とは違う特別な空間に思えてならなかった。それは単に見慣れないからか、それとも彼女との、稀有だけれどとても大切な時間が流れゆくからだろうか。

思いを巡らせながら2人揃って屈み込みろうそくの芯に火を灯すと、あたたかな炎がゆらりと辺りを照らした。どこか冷たさを感じる人工的なそれではなく、誰かの腕に包み込まれるようなほのかな明かり。

ふとなまえに瞳をうつすと、金を帯びた橙色はそよいだ風にゆらゆらとたゆたい、彼女に柔らかな光の織布をかけたように見えた。


「綺麗だねぇ」
「ええ、……とても」


橙色の光から目を離さないなまえをちらりと見上げる。彼女の満月のような瞳にちかちかと揺らめく炎。それがひどく目映くて、こがねに等しい寶のように思えた。
火影に縁取られる彼女の横顔に何故だか見惚れてしまい、胸をくすぐる妙な感覚にぎゅっと膝を抱える。すると、なまえは寒がっているのだと勘違いをしたのかそっと身体を寄せてくれた。

衣擦れの音と、衣服越しに感じる彼女のあたたかな柔さに心の奥がゆっくりとほどけていく。
もどかしさと嬉しさと、小指の爪ほどの焦燥。色とりどりの感情がぐるりと胸をかき乱して、ざわつく心に翻弄される。しかし中でも色濃く残ったのはやはり幸福で。丁は一際心惹かれるその色合いに染められたのだった。


「ちょっと寒いね」
「…そうですね」
「……ん?丁くん少し顔赤くない?もしかして風邪でも引いちゃった!?」
「赤くないですよ、火のせいでしょう。それより、もう少しここにいたいです」
「それはいいけど…」


頬をあえかにあたためる火照りの元が、病原菌などでは決してないことはわかっている。
心臓が常より速く脈打っていることも、この身だけではなく内面に芽生えたその熱も、原因のすべては丁の具合に心を配ってくれている彼女にあるということもわかっていた。
そわそわと浮ついて思い通りにならない心に腹立ちさえ覚えながら、風に震えるほむらを眺めた。


「なまえさん」
「うん?」
「トリックオアトリート、です」
「えっ?」
「お菓子、ないのならいたずらしますよ」
「えっ!?ちょ、ちょっと待って部屋にならある…!」
「今、ここで下さい」


立ち上がりかけたなまえを引き留めるようにして、丁のあどけない手のひらが彼女のそれを握る。彼によって縛られた手を降りほどくことなど到底出来ず、なまえは小さく呻いて負けを認めるしかなかった。
やがて彼女からつむがれた降参の言葉に丁はおぼろげに笑みを浮かべる。


「ここにはないよー…」
「ではいたずらですね」
「うん…ででも痛いこととかやめてね!?」
「なまえさんの泣き顔を気に入っていると言いましたよね」
「ええええっ」


自身より随分と年の離れた幼子に怯える彼女は情けなくて意気地がないけれど、弱ったように下がる眉もまぶたの裏に恐々と隠れた双眸も、いつも弧を描く唇が引きつるその様もいとしいと呼ぶべき造形をしていた。
丁は彼女に一通り視線をすべらせると、柔らかそうにたゆむ頬をぎゅっとつまんだ。指先を押し返そうと弾むそれの感触を楽しむようにふにふにと力を操る。
そうしているうちに芽生えたのは、ほんの小さないたずら心だった。


なまえは青墨に塗りつぶされた視界で、頬を挟む丁のいとけない指を感じていた。多少痛みはあるけれど泣くほどのものではない。それから暫時、つつかれたりつままれたりしながら頬肉を存分に遊ばれると、傍らで満足そうに息をつく気配がした。
もう終わりかな、と目をふさいでいた蓋を薄く開きかけたその時。
丁の指から解放されたそこを、ふんわりとかすめた何か。真綿が触れたかのようなくすぐったさに瞬きをして丁を見下ろすと、ふいと視線を逸らされて首を傾げた。


「今、何かした?」
「いいえ。気のせいじゃないですか」
「んん?そうかなぁ……」
「そうですよ。冷えてきましたし、中に入りましょう」
「…うん」


しっとりとしたささやかな感触の名残るそこを指先でなぞりながら、珍しく丁から差し出された手を取り室内へと戻る。
先ほどより赤みの増した彼のふっくらした円かな頬と、わかり難いけれど機嫌の良さそうな面貌になまえはますます首を傾げたのだった。


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