頭に靄がまとわりついたようにぼんやりと霞む思考。ふわふわと浮つく頭の中と同じように、なまえの足取りもおぼつかないものだった。
そんななまえを困ったように笑んで見つめた白澤は、おもむろに彼女へ歩み寄る。


「眠そうだね」
「はい、昨日はなかなか寝付けなくって……」
「へぇ、どうして?」
「…わかってるくせに聞くんですね」


額にかかる艶やかな黒髪とふわっと和らげられた眦に、思い起こすのは辺りを夜の闇がやわく包み込んだ夜分のこと。

隣に横たわる彼の気配と、時折耳をなぶる衣擦れの音、あたたかな蒲団の下でそっと繋がれた指先。
これ以上は何もしないから、と耳元でやさしく囁く声と触れた指からなまえを大切にしようとしてくれている白澤の想いが流れ込んできて、やわらかな熱が胸に灯ったことを覚えている。

嬉しくて、たまらなく幸福で、けれど妙に浮ついて落ち着かない心にすっかり目が冴えてしまった。やがてゆるやかな寝息をたて始めた白澤がにくらしいやら愛おしいやらで、目の前に宵闇がおりる中からめた指をきゅっと握りしめる。
そうして結局賑やかな小鳥のさえずりが鼓膜を揺するまで、なまえはひと時だってまどろむことはなかったのだった。


昨夜を想うと心臓が音をたてて熱をはらむ。頬は火照り、きっと淡い朱に染まっていることだろう。それはなまえの顔を見つめたままにこにこと明朗な笑顔を浮かべる白澤を見れば察しのつくことだった。

昨晩寝付けなかったことや今でさえ胸を高鳴らせていること、そしてそのすべては白澤に翻弄されているからだということも、目の前でにこやかに瞳を細めるこの神獣にすっかり見透かされている気がして幼い悔しさが胸に湧きあがる。


「もう、今日は一緒の蒲団では寝ませんからね!」
「ええ、そんなぁ!なまえちゃんあったかくてよく眠れたのに……」
「子供体温で悪かったですね!…私は寝るどころじゃなかったんです」
「え、それって僕のせい?」
「だだから何でいちいち聞くんですかっ」


わかってるくせに、と繰り返し口の中で呟く。
一見とぼけたように見えても、このひとはなまえの心情や性質の一切を理解した上で自分の思ったとおりに事が運ぶよう図らっている気がある。
女性経験が豊富だからか万物の知識に精通しているからかは知るところではないが、彼によって巧妙に張り巡らされた罠をくぐり抜けていくのは今までまともなお付き合いなどしたこともないなまえにはいささか難題だった。

だからこうして上手く手のひらで転がされてしまうのだけれど、何とも歯がゆい状況だ。
むう、と唇を尖らせたなまえに気がついたのか、白澤は優しく彼女の髪に手を滑らせた。


「ごめんね。あんまりにもなまえちゃんが可愛いから、からかいたくなっちゃうんだよね」
「……だったら、私を可愛くさせてるのは白澤さんです」
「へ?」
「白澤さんの言葉だから、白澤さんが触れるからこうやってすぐ赤くなるし……貴方のことで胸がいっぱいになるんですよ」


途中気恥ずかしさがこみ上げて、耐えきれずにふいと顔を背けながらつむいだ言葉に嘘はない。
白澤に触れられたところから熱がうまれて全身を巡り、瞬く間に頬を色づかせる。心臓だって壊れたみたいに鼓動を打って、なまえにとっては情けなくて仕方のない誤作動を白澤はかわいい、だなんて言ってくれる。
それは全部、彼にもたらされる反応だ。


どうにでもなれ、と半ば自棄になり口から突いて出た科白に、いつものような軽い答えは返って来なかった。
不思議に思って首を傾げ、白澤に問いかけようと名前を呼んだ途端、小さな衝撃と共に背中があたたかな体温にくるまれる。
胸元と腰に回るのは白澤の細い、けれど引き締まった男のひとの腕。真白をまとったそれがぎゅっとなまえの身体を抱きしめて、じんわりと甘いぬくもりを伝えていく。


「え、あ、あの白澤さん…?」
「……なまえちゃんってさ、本当に僕が初めての恋人なの?」
「そうですけど、いきなり何ですか?」
「あーもう、無自覚って怖い……」
「え?」


ぽつりと落とされた言葉に頭をひねっていると、なまえの肩口に埋められた白澤の鼻先。
彼の頬とわずかに露わになっている肌が触れ、その熱さにまぶたをまたたかせる。もしかして照れているのだろうか、と満足に思考を巡らせる前に、白澤が弱ったように口を開いた。


「僕なんかよりよっぽどタチ悪いよ…」
「……何か貶されてます?」
「褒めてるの、さすが僕の恋人。………ほんと、好きだなぁ」


好いた女が自分の言葉、仕草ひとつに染められていく様がどれほどの充足感を与えるか、なまえは知らないのだろう。あまつさえ彼女の心をさらっていく存在が白澤だけだなどと音にされたら、肌は甘く熱をためる上に心音が煩く胸を穿つ。
翻弄しているつもりがされていた、なんて格好がつかないが、これ以上の幸せはないのだと痛いほど想った。

胸をなまえへのいとしさで満たされ、唇から自ずとこぼれ落ちてしまった言葉に彼女はふるりと身体を揺らす。
なまえの華奢な肩に顔をうずめたままそっと瞳を持ち上げると、白澤の目元に差した紅とお揃いの赤が彼女の横顔を彩っていた。


「…真っ赤だね」
「……誰のせいですか」
「んー、僕?」
「ばか」
「あはは、でも僕の気持ち全部持っていっちゃうのも、やっぱりなまえちゃんだからさ」


彼女が苦し紛れについた可愛らしい悪態を愛くるしく想いながら笑みをもらす。

心に映った感情を純粋に伝えた白澤の言葉に、なまえの胸はきゅっと締め付けられた。背に集まる熱がもどかしくて、もう少し近づきたくて。なまえの身体を抱き寄せる白澤の腕にそろりと触れる。


「ん?どうしたの?」
「またお見通しかも知れませんけど……ちゃんと前から、その」
「抱きしめてほしい?」


こくん、と頷くと何も言わずに離れる体温。
それに寂しさを感じる間もなくなまえの身体をくるりと反転させた白澤に、再び抱きすくめられて広がるぬくもり。
身体をくるむそれに唇をほころばせて彼を見上げると、切なげに眇められた瞳と視線がからんだ。その紺桔梗の虹彩にゆらりと立ちのぼった熱には狂おしいほどの恋情がにじんでいて、なまえは白澤の心を汲み取ったようにまぶたを伏せる。

目尻、頬、鼻先といとおしむように降ってくる熱がやんわりと唇に重なる。その恋しい感触に溺れるように、求めるようになまえは彼の背に縋ったのだった。


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