閻魔殿に務めることなって十数年が経ち、なまえはごく平凡な平獄卒として職務をこなしている。そんな彼女が優秀な補佐官である鬼神と睦む関係にあることなど、誰が想像するだろう。
不思議な縁が幾重にも積み重なった巡り合わせ。それでもなまえは彼のことが恋しいのだ。

同じ閻魔殿内にいるといっても、鬼灯と顔を合わせることは少ない。ゆえに閻魔殿の悠久ともいえるほど長い廊下で鉢合わせたり、思いがけず昼休憩が重なった時が彼との逢瀬となるのだ。
なまえはそのたまゆらの時をとても大切に思っていたし、口には出さずとも鬼灯もそうだと信じていた。


自身が所属する部署へと戻る道すがら、向かい側から凜と背筋を伸ばして歩みを進めるそのひとを視界に捉える。
彼を一目見た途端、意味もなく心臓が甘く跳ねた。一歩歩むごとに胸の辺りがふわふわと浮き立つような感覚に包まれて、面はゆくもどかしいのにそれがひどく心地よい。
彼との距離がほんのひと跨ぎほどに迫ると、一際心音が高鳴る。じんわりと頬が熱を帯び、それにせかされるように口を開いた。


「鬼灯様」
「…………」
「鬼灯様?」
「…ああ、なまえさんですか」


一度目の呼びかけに目もくれなかった鬼灯は、少し声を張った二度目に漸くこちらへ視線を寄せた。彼はどこか上の空というか、他事に思考をさらわれていたらしい。なまえは訝るように鬼灯を見上げ首を傾げた。

鬼灯は切り替えが上手い。どんなに職務が立て込んでいようとなまえを無下にせず、心のすべてを注いでくれるのだ。それが申し訳なくもあり、特別に扱われているという事実が殊更に嬉しくもある。

しかし今日はどこか様子がおかしかった。その有能な頭を何かに占拠されたように気もそぞろだ。


「あの、何か悩みでもあるんですか?良ければ話して下さい」
「………いえ、結構です。すみませんが用事がありますので、これで失礼します」
「あ………はい」


宙を漂っていた黒曜色の瞳がなまえの言葉にぴたりと止まるが、思い直したように瞬きをするとゆるく首を横に振る。
いつもなら数分ほど会話を交わしてから別れるのだけれど、それすらなく彼はなまえひとりを残して歩み去ってしまう。

鬼灯から名残惜しむような眼差しも他愛ない言葉も与えられず、呑気に浮かれていた気持ちがしゅんと萎んでいく。
否、彼は忙しいひとだ。きっとなまえなどに気をやる余裕もないほどの大事な案件を抱えているのだ。暫く時間を置けばまたあのたまらなく幸せな空間が戻ってくる。
そう自身を諭し、嫌な予感にざわりと波立つ心を懸命に抑えたのだった。





結局、あれから数日が経過しても鬼灯と言葉を交わすことはなかった。忍び逢っていたあの時間も挨拶をする程度で、鬼灯は立ち所に所用だと言って踵を返してしまう。
何処か事務的な反応は、普段なまえに向けられるそれではない。逆さ鬼灯が提灯のようにゆらゆらと揺れ遠ざかるのを見ていると、きゅっと胸が締めつけられて堪えきれないほどの切なさが迫った。

鬼灯にとってなまえとの恋路をつむぐひと時など取るに足らないものだったのだろうか、なんて考えに胸中が淀む。泥濘に嵌った思考が巡り心はふさぐばかりだ。
彼に心を囚われているおかげで近頃は眠りにつくことすら儘ならない。意識が遠く彼方を旅しているように思考が曇り、わずかな目眩を感じながらも気を逸らすように職務に勤しむ日々。

なまえははあ、と今日何度目かの重苦しいため息を吐き出し、昼食など口に入れる気にもなれないまま食堂へと足を踏み入れる。


「……!」


自然と瞳が引き寄せられた一角で、食事を取る鬼灯の姿を見つける。普段ならいち早くなまえに気が付いてくれるのに、やはり彼はもの思いに耽っているようでこちらを見る気配すらない。
それにまた胸を軋ませつつ、今日こそはと鬼灯に歩み寄った。


「鬼灯様」
「…なまえさん」
「こんにちは、あの……ご一緒してもいいですか…?」


どうか拒否しないで、と願いながら喉の奥から絞り出した声は情けなく震えていて指先はゆるやかに温度を失っていった。憂いや寂寞や悲しみや、様々な感情が綯い交ぜになって込み上げる衝動をやり過ごそうと、きゅっと唇を噛みしめる。

鬼灯はそんななまえに一瞥すらくれず口を開いた。


「すみませんが、もう食べ終わってしまいました」
「…そうですか」
「では私はこれで」
「待ってくださ、……あ」
「なまえさん?」


なまえの哀願にも似た問いは、想いは鬼灯に届かなかったのだろうか。
鉛を呑んだように重たくなる胸が痛い。じんわりと潤む瞳に視界が溶けていく。せり上がる涙が光を弾き、くらりと目が眩んだ。

地面が揺れたように思えて足元をふらつかせると、驚きをふくんだ彼の声色がなまえの鼓膜を振動させる。漸くなまえに向けられた鬼灯の声にやわい笑みを描いて、彼女の意識は暗い水底に沈んでいったのだった。


身体を包むやわらかな感触と労わるように頬をなぞる誰かのぬくもり。そこからうまれる熱が心良く、ひどく肌に馴染むそれは鬼灯のものだとたゆたう意識の中で想う。
その熱に導かれるように浮上していく感覚にまぶたをふるわせた。


「ん、」
「なまえさん…!気がつきましたか」
「……はい…ここは鬼灯様の…」
「私室です。運ばせて頂きました」


おぼろに霞む眼前に広がったのは何度か立ち入ったことのある、乱雑とした鬼灯の私室だった。
自分が身を横たえているのが彼の寝台だと悟り、なまえはほんのりと頬を色づかせながら身体に力を入れる。


「駄目ですよ、まだ横になっていて下さい」
「で、でも」
「頬に赤みが差して来ましたね、………良かった」


自分に言い聞かせるように小さく呟かれた科白は安堵に満ちていて、あたたかさが胸に落ちる。なまえの知る鬼灯を取り戻したような気がして心にふくらんでいく想いのままに頬が緩んでしまう。

なまえの微笑みにつられるようにして表情を和らげていた鬼灯はおもむろに首を傾げた。


「寝不足のようでしたけど、どうしました?」
「いいんです、もう。杞憂だったってわかりましたから……」
「そうはいきません、貴女のことならどんなに些細なことでも知りたいんです」
「…鬼灯様」


鬼灯の骨張った手のひらはもの柔らかな仕草でなまえのそれをくるみ、手の甲を宥めるようにゆるゆると撫でた。
射すくめような眼差しに反してその虹彩に映し出される色は優しい。なまえを拒むように避けられていた瞳はからみ合っており、鬼灯に疎まれているのではないかと憂慮し心を苛まれることはもうないのだと知る。

なまえの心に漸く安らぎが訪れ、ふっと肩の力を抜いた。彼女を見つめる濡羽と見交わすと、ゆっくりと唇を開く。


「最近、鬼灯様に避けられている気がしたんです」
「……なまえさん、それは」
「いえ、いいんです、言えないことなら…。
でももしかして嫌われたんじゃないかって、私は鬼灯様にとっていらない存在になったんじゃないかと思って……、!?」


言葉をかけても返ってくるのはどこか冷ややかとした素気無い声。脳裏をかすめる苦い思い出にじくりと胸が疼く。
そこを握りつぶされるかのような苦しさをこらえて眇められたなまえの瞳を目に止めた鬼灯は、そこから流れ込んでくる彼女の悲哀を認め弾かれたように動いた。

横たえていたなまえの身体に覆い被さるいとしい重み。背後に差し入れられた腕に強く引き寄せられ、言葉もなく抱きしめられる。なまえへのいとしさや贖罪が織り交ぜられた抱擁が胸にあたたかく沁みた。


「ほおずき、様?」
「不安にさせて、申し訳ありません。…本来なら明日まで内密にすべきなのでしょうけど、これ以上貴女を苦しめることは本意ではないのでお話しします」
「………はい」
「なまえさん、これを」
「……これは…?」


腕の中から見上げた鬼灯はその眉間に痛々しいしわを刻み込んでおり、それが彼自身を責めているようで心苦しさを感じた。

鬼灯は名残惜しむように一度なまえの身体を強く抱き、傍を離れる。そっとほどかれた腕に寂しさを感じていると、時を移さずして戻って来た彼の手には可愛らしい包みがあった。
鬼灯に支えられて身を起こし、差し出されたそれを躊躇いつつ受け取る。
彼に視線で促され桃色の包み紙を剥いていくと、愛らしい包装紙から姿を現したのはひとつの簪だった。

艶と深みのある漆塗りに淡い七色の光を散らす螺鈿細工が施されている。儚くも美しいそれに思わず感嘆してしまう。


「わぁ、綺麗……!」
「…1日早いですが、誕生日おめでとうございます」
「あ………」
「気に入って頂けましたか?」
「……っはい、とっても!」


なまえは鬼灯の科白に驚いたように目を丸くすると、簪を大切そうに抱きかかえるようにして胸へと寄せた。

月がおぼろげな光を西の空に沈ませ、生まれたての朝日が稜線を縁取る。明日はなまえがこの世に生を受けた日だ。

本来なら明日を迎えるまで鬼灯の元で持ち主とまみえる時を待っていただろうそれは今、なまえの手にある。
申し訳なく思いながらも胸をふるわせる幸福にたまらず顔がほころんでしまった。
幸せがあふれたような花笑みに彩られた表情は、鬼灯が今まで見た笑顔の中でも最もいとおしく想えるものだった。恋しい想いをつつかれて再び彼女を懐に閉じこめる。


「なまえさんが生まれ、共に季節を廻れること…全てに感謝します。………生まれて来て下さって、私にあたたかな想いを寄せて下さって、ありがとうございます」
「………こちらこそこんな私と共に居て下さって、ありがとうございます…」
「これからも、どうかよろしくお願いします」
「はい…!」


抱きすくめられた腕の中、感じるのは鬼灯のぬくもりだけ。彼に包まれて交わした言葉はあまやかな熱をはらんでなまえの内側にあたたかく広がっていく。
鬼灯の広い背中へ縋りつくように手を回すと彼の腕の力が一際増した。
彼への慕情がまたひとつ芽吹いていくのを感じながら、残った疑問を口にする。


「じゃあ私が避けられていたのって……?」
「……人の誕生日なんて、碌に祝ったことがなかったんです。一体何を贈ったら良いものかと悩んでいたんですよ。友人には適当に用意していましたけど、なまえさんとなると話は別でしょう」
「そ、そうですか?」
「ええ。色々と調べている内にますます見当がつかなくなって、正直切羽詰まっていたんです。…ですから貴女への対応がおろそかになってしまいました」
「そうだったんですか……」


職務でもプライベートでも、彼を思い悩ませるものに出会ったことがなかった。それほどまでに優秀な彼が、恋人への贈り物ひとつに気を取られていたなんて誰が想像するだろうか。
ばつが悪そうに瞳をさまよわせる鬼灯にきゅうっと胸がときめいて、狂おしいほどにいとしい。
唇の端からくすりと笑いをもらすと、それを耳敏く聞きつけた鬼灯は眉をひそめてこちらを見下ろした。


「何ですか」
「いえ、……幸せだなって」
「…私もですよ。これから先も、貴女を手放せそうにありません」
「…………手放さないで」


懇願に近いなまえの言葉にゆるくまぶたをまたたかせた鬼灯は瞳を細め、優しく手を伸ばす。頬に添えられた鬼灯の体温を確かめるように自身の手のひらを重ねると、ふたりはゆっくりと顔を寄せ合った。
早鐘を打つ心臓の音に翻弄されながら、やがて落とされた綿羽が触れるような口づけは互いを求めて深くなっていく。

甘く痺れる脳の片隅で、ほのかにきらめく虹色を見た。


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