じくじくとした痛みが腕に走る。神経を伝う疼きになまえはぎゅっと唇を噛みしめた。暫くして鈍痛が通り過ぎると、淡く息をついて器用に包帯を巻いていく。
手当てを申し出てくれた同僚はいたけれど、なまえはそれを断って自室へと足を向けた。医務室を使えば誰かと鉢合わせてしまうだろう。その際この情けない顔を見られることに耐えられなかったのだ。

はあ、と重たいため息をこぼす。
最近では怪我などというつまらないへまをすることもなくなったのに、油断した途端にこれだ。我ながら不甲斐なくて仕方がない。


「はあ……」
「なまえさん…っ」
「え、鬼灯様?どどうしたんですか?」


もう一度淀んだ息を吐くと同時に扉が押し開いた。勢いづいたその音にびくりと肩を跳ねさせながら視線を移すと、ドアを開け放った体勢のまま佇む鬼灯に目を丸める。
彼も驚いたようになまえを見ると、1度深く息吹いてこちらへと近寄った。
壊れ物を扱うように華奢な肩へと手を置いた鬼灯は、肩口から順にするりとなまえの身体に触れていく。鬼灯は彼女の着物の袖からのぞいた白いそれに目を留め、触れるか触れないかのところを手のひらで優しくなぞった。


「痛いですか?」
「……大丈夫ですよ」
「…本当に?」
「はい」


どこか焦燥をにじませた濡羽色の虹彩になまえは無理に繕った笑みをふわりと向けた。強引に形づくられたその表情に眉を曇らせながらも、鬼灯は安堵したように瞳を和らげる。労わりを込めた手つきでなまえの頭を撫でつけたあと、彼女の頬へと指先を滑らせていく。

なまえはあたたかい指の腹でゆるゆるとそこを愛でられて思わずまぶたを伏せると、次の瞬間にはぎりりと頬を抓まれた。


「いひゃ!?」
「貴女の同僚に事情を聞きました。全く、衆合地獄に務めて何年になると思っているんですか、気が緩んでいる証拠です」
「ふみまへん……」
「……まあ、貴女のことですから存分に落ち込んだあとでしょうけど。…事後報告を受けるこちらの身にもなって下さい」


張り詰めていた糸がほどけたように吐息をもらす鬼灯をそろりと見上げると、彼はいつもよりわずかに乱れた髪をぐしゃりとかきあげた。
妙に男らしく粗雑なその仕草に、とくんと心臓が跳ねる。常にそつがなく礼節をわきまえた鬼灯だが今ばかりは所作に気を配る余裕もないように見えた。
なまえの私室に飛び込んで来た彼のかすかに弾んだ息が耳に蘇り、もしやと鬼灯を見やる。


「あの、もしかして物凄く心配かけましたか…?」
「………だとしたらもうお粗末なミスを犯さないと誓いますか」
「う、努力します……。でも鬼灯様がこんなにも心配してくれるなんて、…嬉しいです」


自分は負傷したというのに安穏とした花のような笑みを咲かせるなまえは心から嬉しそうで、それがにくらしくもあり等しいだけ心が安らいだ。

なまえと仲の良い獄卒から彼女が怪我を負ったことを聞き届けた瞬間気味が悪いほど胸がざわりと波立ち、彼女の元へ駆け出したくとも足が根を張ったようにその場から動けなかった。ほとんど話の内容が呑み込めない中で如何にかなまえの居場所を知り、弾かれたように執務室を飛び出したのが先刻のこと。
寝台に腰掛けるなまえのきょとんと間の抜けた顔を見て、どれだけの安堵に襲われたか彼女は知る由もないだろう。

生きた心地がしなかった、という科白はこういう場面に用いるのか、となだらかに均された胸中で想う。


「ところで、どうして怪我をしたんですか?」
「え、報告があったんじゃないんですか?」
「…それどころじゃなかったんですよ」
「……?ええと、呵責していた獄卒の隙をついて亡者が逃げ出したんです。私も反応が遅れて…」


なまえの色香に誘われてくれた亡者は悪賢い男だった。獄卒の一瞬の隙をついて小刀を奪い逃げ出したあげく、運悪くその場に居合わせたなまえを切りつけたのだ。
その時のことを思い起こし、取り押さえられた亡者の恨みのこもった目玉が脳裏によぎってふるりと身を震わせる。
自分を抱きしめるように身をすくめたなまえを一瞥した鬼灯は彼女の隣へと静かに腰をおろし、その丸みのある肩を自身の懐に抱き込むように引き寄せた。


「あ、あの…」
「怖かったでしょう、我慢せずとも良いのですよ」
「…すみません、情けないってわかってるんですけど、小刀を向けられた時のことを思い出すと……」
「今は私がいるので安心してください」


一際強く抱き寄せられ、頬に当たる鬼灯の少し堅い胸板にあまやかに心臓が鳴った。
力強い仕草とは裏腹に肩へ添えられた手のひらはあたたかく、ひどく優しい。耳に注ぎ込まれる囁きは慰撫するような声色をはらんでいて、心にじんわりとぬくもりが広がった。

彼の隣で、彼の体温に触れてようやく安寧を取り戻したような気がした。ゆるゆると息を吐き出したなまえはそっと鬼灯の胸に身を預ける。


「ごめんなさい、少しだけ…」
「私の胸で良ければいくらでも。貴女が落ち着くまで、傍にいますよ」
「……はい」


何れくらいそうして寄り添っていたのだろう。心に平穏が訪れても、もう少しだけと長らえさせていた体勢をゆっくりと起こし、なまえは照れたようにはにかんだ。


「もう平気です、……ありがとうございました」
「それは良かったです。で、その亡者というのは昨日衆合地獄に送られた男ですか?」
「あ、はい。そうですけど…それがどうかしたんですか?」
「いえ、処罰を考えなくてはなりませんし、……個人的にお話が」
「…えっと……」


夜の帳を思わせる虹彩に重苦しい影が落ち、眉間のしわを深く刻んだ鬼灯からは先ほどの穏やかさなど微塵も感じられない。

彼の背後にゆらりと立ち上ったまがまがしい気配に口元をひきつらせていると、なまえと瞳がからんだ鬼灯は切り替えるようにそれを払拭し、やわらかく手を取られた。

傷つけられた方の袖を捲り、肌を露わにした鬼灯に首を傾げると彼はおもむろに背を丸める。
なまえが見つめる中そのまま恭しくうなだれた鬼灯は、施された真白の包帯の上にふわりと唇を触れさせた。

清らかで侵しがたい誓いの儀式のように落とされた口づけに、全身へと巡る熱。
夕日をこぼしたような紅に色づいたなまえの頬を瞳だけでちらりと見上げた鬼灯は、間の抜けた表情できょとんとこちらを見下ろす彼女に目を眇めた。
甘美な火照りを帯びた眼差しを寄せられて現実に引き戻された彼女は、金魚のようにはくはくと口を開閉させる。


「ななな何を…!」
「もう二度と貴女を傷つけさせないと約束します」
「だだからってせ、せっぷんなんて!」
「衆合地獄に務めているくせにこういう耐性はないのですか?」
「それとこれとは別ですっ!」


拳をにぎって憤慨するなまえの真っ赤に染まった、否鬼灯によって染めさせられた頬を彼は満足そうに見やり、恥ずかしさを紛らわせるようにぐずぐずと文句を口にする彼女へほのかに表情をやわらげたのだった。


prev next