太陽が地平線へ身をうずめて数刻ほど経った時分。私の時間だと主張するようにまばゆい光を放つ月を横目に、鬼灯は明かりが煌々と灯った店内へと足を踏み入れた。


「おや、鬼灯様。こんばんは」
「どうも。茶葉を頂けますか」


天国のとある店。
素朴ながらに和を感じさせるその店構えと、店主である彼女の気さくな人柄が相俟って客を集めるそこは鬼灯も常連として通い詰めている茶屋だ。
茶を振る舞う処なだけはあり多種多様な茶葉を扱っていて、更には好みの味にブレンドまでしてくれるのだから長年愛されているのも頷ける。

店のすぐ隣には小さな茶畑があり、さわさわとこすれる葉のささめきがまた心を和らげる。
穏やかな時間がたゆたうその茶屋は仕事に追われる鬼灯がゆっくりと腰を落ち着けられる場所でもあった。


「はいはい、いつものですよね。今包みますからどうぞお掛けになってくださいな」
「ありがとうございます」


丁寧な所作で頭を下げた鬼灯の目元には疲労が影を落としている。
また徹夜でもしたのだろうか。何度言っても治らない彼の仕事人間ぶりは、店の従業員たちに働きすぎだと注意されるなまえをも軽く凌駕してしまう。彼の様子に逐一心を砕くこちらの身にもなってほしいものだ。

ふう、と呆れ交じりの、しかしどこか親愛のこもったため息をもらしたなまえは急須に鮮やかな緑を散らすと、沸かしておいたお湯を円を描くように注いでいった。小ぶりな唇からこぼれる濃い緑がとぽとぽと湯呑みに満たされていく。
それを彼御用達の茶葉と共に漆塗りの上品な盆に乗せ、ぴんと背筋の伸びた背中に歩み寄った。


「はい、これお品物です」
「ありがとうございます。…なまえさん、これは頼んでいないと思うのですが」
「いつも頑張っている鬼灯様にサービスです」
「……あたたかいですね」


つるりとした陶器で出来た白い湯呑みは茶を煎れた彼女の心を映したかのようにあたたかく、手のひらで包み込めばしっとりと肌に馴染んだ。それを満たす水面は優しい緑に縁取られ、口にふくむと心を洗われるような心地よい渋みが咥内に広がる。

身体に滞っていた疲れが溶け出すような感覚に思わずほう、と吐息すると、鬼灯を穏やかに見守っていたなまえはやわらかく顔をほころばせた。


「お疲れみたいですねぇ」
「まぁいつも通り使えない上司の尻拭いですよ」
「私でよかったら聞きますよ」
「そうですか?…では甘えさせて頂きます」


新人でも間違えないミスをしただのすぐに仕事をため込むだの、しまいには椅子にくくりつけてしまおうかと剣呑とした瞳をぎらつかせながら吐露する鬼灯はよほど日頃の鬱憤を腹に募らせていたらしい。
うん、うん、と何度も頷きながら彼の愚痴を聞くなまえは決して愉快な話ではない筈なのにどこか嬉しげに眦をゆるめていた。

やがて、膿をすべて出し切ったようにひと心地ついた鬼灯はゆるりと湯気の立つそれを一口啜る。


「毎度のことながらすみません、不快ではなかったですか?」
「いいえ、私もたまに鬼灯様に色々零してしまうからおあいこです」
「なまえさんには心の内に留めておくようなことも話してしまえるから不思議です」
「あら、それは私もですよ。鬼灯様といると何だか落ち着くんです」


彼女がふふ、ともらした微笑みは鬼灯の淀んだ感情を包みこむように柔和で、ぬくもりにあふれたものだった。
地獄にも良い茶葉が手に入る店はたくさんあるのに、わざわざ天国にまで足を運ぶのはひとえに彼女とこうして他愛ない会話を交わしたいからだ。そして、その真綿のように優しいなまえ自身に如何しようもなく惹かれていた。

心にぽとんとこぼれ落ちたあまやかな雫はじわじわと鬼灯の内側に沁み入り、眉間に刻まれたしわをさらっていく。
鬼灯のそんな内心を知ってか知らずか、なまえはゆるやかな笑みを崩さないまま言葉をつむいだ。


「それに鬼灯様のぼやきを聞けるのは嬉しいことですから、気になさらないでくださいね」
「嬉しい、ですか?」
「ええ、ここが貴方の安らぐ場所になれていると思うと嬉しいんです」


どのような雑言でも愛せてしまうのは、それが鬼灯の内に芽吹いた感情で、彼の唇から生み出された言葉だからだ。そしてそんな後ろ暗い思いでさえもなまえだけに吐き出されたものだから嬉しくて、いとおしい。
ここは人様の心が少しでも休まるようにと願いを込めてたち上げた茶屋なのだから。


「それ、私にもなれますかね」
「え?」
「なまえさんの心が安らぐ場所になれるでしょうか」
「………もう、とっくになっていますよ」


テーブルにことん、と湯呑みを置いた鬼灯が、向かいに座するなまえの白くしなやかな手をそっと取って訊ねる。
わずかに揺らぐ虹彩に優しく語りかけるように答えると、なまえの科白を噛みしめるように一度まぶたを伏せた鬼灯はまるで彼女の感触を焼き付けるように、捕らえたままのやわい肌に指先を滑らせた。


「ならば良いのです。…なまえさん」
「何でしょう?」
「私がいつもこの時間に貴女の元へ訪れる理由、わかりますか?」
「え?」


手の甲をくすぐる指先に気を取られつつ、鬼灯からの設問に思いを巡らせる。
言われてみれば、彼は決まって閉店した直後、月が東の空に生まれ出ずる宵の口に茶屋へと訪れる。如何せん忙しいひとなので仕事が立て込んでいたからだと思っていたのだが、よくよく考えると毎回この時刻に足を運ぶのは妙なものだ。

従業員もお茶を片手に話に花を咲かせる客もいない、なまえとふたりきりのこの空間。鬼灯との温い言葉が交わされる居心地の良いこの時間が、もしも彼に仕組まれていたとしたら。

そんな甘い期待に胸をふくらませてそろりと彼を見上げると、淡く瞳を細めた鬼灯と視線がからまり、心音がとくんと鳴った。


「貴女と2人で居るこの時間が、とても大切だからです」
「……それは、どういうことですか…?」


甘美な予感を秘めつつ囁くと、わかっているくせにとでも言いたげに眇められた目が間近に迫る。
温かみのある色合いのテーブルを突いた彼の肘によって与えられた振動が、萌葱に染まった水面に波紋を形づくっていく。
なまえの問いかけを飲み込むようにふんわりと重ねられた唇は、ほろ苦くてあまい味がした。


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