ざわつく金魚の群はゆらゆらと気ままに身じろぎ、赤いさざ波が寄せては引いていく。閻魔殿の中庭、緑あふれるそこは彼との待ち合わせ場所のようなものだった。 明確な約束を交わした訳ではない。しかしいつからか、その決してロマンチックとはいえない場所で過ごす時間がなまえの中では宝物のようにきらきらと輝いている。 時には甘く、時にはほろ苦い感情を植え付ける花園。今日も一歩歩むごとにあまやかに高鳴る心臓を抱えながら、不思議な動植物が根付くそこに足を向けたのだった。 穴を開けた特製の桶から雨のように降り注ぐ雫を金魚草へと与える広い背中。彼を視界にとらえた途端、弾むように軽くなった足取りのままなまえは駆けだし、その漆黒に染めぬかれた着物を身にまとった彼へと明るい声をあげた。 「鬼灯様!」 「おや、なまえさん。今日も来て下さったのですか?」 「はい!ほら、昨夜風が強かったじゃないですか。この子たち大丈夫だったかなって……」 「そうですか」 昨夜、空気の塊が自室の壁に当たり叩きつけられるような風がびゅうびゅうと鳴っているのを聞いた時、よほどこの中庭の様子を見に行こうかと思ったくらいだ。けれどびちびちと元気良く身を跳ねさせる朱色を見る限り懸念は杞憂に終わったようで、ほっと胸をなで下ろす。 そんな彼女を見下ろした鬼灯の淡く細められた虹彩には、どこか優しい光がにじんでいた。 「今日も暑いですね…」 「夏も終わりとはいえ、残暑は厳しいですからね」 「この子たちは涼しそうでいいですねぇ」 地獄には照りつけるような日差しがない代わりに、呵責に用いられる炎や火山から湿気をはらんだ空気が運ばれてくる。ゆえに現世のような爽やかな暑さではないのだ。 まとわりつくような蒸し暑さにじんわりと浮かぶ汗をぬぐい、なまえはふう、と息をつく。 彼女の視線の先には時折そよぐ冷たい飛沫をふくんだ風の中を、涼やかに泳ぐ金魚たち。はくはくと口を開閉させるそれらになまえは羨ましげな眼差しを向けた。 「水遊びでもしたいところです……」 「残念ですが午後からも仕事がありますしそれは…」 「鬼灯様、なまえ」 「?」 叶いそうもない望みを口にしてみる。遊ぶことが仕事と言われる子供をこんなにも羨んだことはないだろう。気ままに水浴びでもしたい、と小さく息をつくと、最近閻魔殿に住み着くようになった彼女たちの声が鼓膜を揺らした。 黒白の、対象的な色合いが目を引く座敷童子たちは相も変わらない無表情で、どこからか見つけてきた桶をその稚い腕いっぱいに抱えていた。 水に満たされたそれは彼女たちの仕草に合わせてゆらりときらめき、何とも涼しげだ。 「一子ちゃんたち、どうしたの?」 「今日暑い」 「だから、水遊びする」 言い終わるや否やぽてりとした紅葉の手が水をすくいあげ、ぱしゃぱしゃと跳ね上げられる水滴。 さすがに着物を身にまとったまま水を浴びる訳にはいかないけれど、冷たい飛沫の粒を帯びた涼やかな風がひんやりと肌を撫でていく。 「鬼灯様たちもしないの?」 「冷たいよ」 「……じゃあ私も少しだけ遊ぼうかな!」 「なまえさん、濡れますよ」 「大丈夫ですよ、ほんの少しですから」 そう言って屈み込み、麗らかな春の陽のような笑みを咲かせたなまえは幼子と一緒になって清涼な水中に手のひらを潜らせる。 細かい硝子のかけらのような水沫が閃き、なまえは子供たちよりよほど楽しげに顔をほころばせていた。 ふと動きを止めたなまえはこちらを見守るように眺める鬼灯を認めると、珠のような水が伝う手を拭いながら彼に歩み寄る。 「どうかしましたか?」 「鬼灯様にもお裾分けです」 ほのかな微笑みと共に、ふわっと包み込まれた手のひら。鬼灯のそれを挟むようにしてくるんだ彼女の柔らかな手は冷や水に晒されていたからか肌にしっとりと睦み、ひどく心地よい。 重なった素肌がじんわりとお互いの体温を伝えあう。その優しい感覚がゆるく胸をくすぐって、何故だかたまらない気持ちになった。 「………」 「………あ」 2人の周囲に訪れたどこかむずがゆく、あえかに甘い静寂にはっと我に返ったなまえは自分が随分と大胆な行動をしてしまったことに気がつく。 彼女は慌てて重ね合っていた手を放し、熱がたまっていく頬を自覚しながらふらふらと惑うように視線を彷徨わせた。 「ごごめんなさい、手なんか握ってしまって!」 「いいえ、心地よかったですよ。お裾分け、ありがとうございます」 「…本当にすみません……」 冷涼な水の感触が心良かったから鬼灯にも味わってほしいと、その一心だったのだろう。恥じらうように縮こまった身体がいじらしい。 淡く染まった彼女の頬に心がやんわりとほぐれていく。暫くなまえを見つめていると、不意に座敷童子たちがすっくと立ち上がった。 なまえも彼女たちに目を向ければ、桶を抱え上げた2人が気怠げに口を開く。 「まだ暑い……これ撒いたら涼しくなるかな」 「やってみよう」 「ちょっと待って、打ち水するなら…」 暑さにぼんやりと霞みがかった2人の頭にはなまえの言葉は聞き届けられなかったようで、止める間もなく振りあげられた桶。 しかし幼い腕力ではきまり良く水を打つことも儘ならずその身を収めていた器を失った水の塊は重力に逆らえないままなまえに向かって落下する。 飛び散った水鞠や円を描くように広がった水膜が眼前に迫るのを呆然と眺めていると、ぐい、と身体を引き寄せられて視界が夜の色に染まった。 ふっと浅く吐き出された息が耳たぶをくすぐり、漸く我に返ったなまえは自身の肩を抱く筋張った男の腕をたどる。 「ほ鬼灯様!」 「コラ2人とも、無茶は止して水風呂にでも浸かってきたらどうですか」 「…そうだね」 「そうしよう」 こてん、とあどけなく首を傾げた子供たちはぱたぱたと嵐のように去って行く。 2人をぼうっと見送っていると、何の気なしに足を止めた幼子たちは仲良く振り返り、小さな唇を愛らしく動かした。 「鬼灯様たち、いつまでくっついてるの?」 「!!わあっ」 「あ、なまえさんそこぬかるんでますよ」 「きゃ!?」 ぴたりと隙間をなくすように触れ合う半身に今更ながら気がついたなまえは心音を大きく跳ねさせた。 胸をふわふわと刺激する甘い感覚と、じわっと熱くなっていく頬に気恥ずかしくなってしまう。 思わず突き飛ばすように鬼灯の腕から抜け出た彼女はたたらを踏んで、先ほどの水分をふくみ泥濘の出来たそこに足を捕らえられた。ぐらりと身体が傾き、景色が反転する。 倒れる、と衝撃を覚悟したなまえをぽすんと受け止めたのはあたたかくたくましい鬼灯の胸板だった。 その硬い感触に縋り、鳴り響く心臓からまた甘美な熱が芽吹く。 「すっすみません!」 「いえ……しかし危なっかしいですね、これでは嫌でも気を引かれてしまうじゃないですか」 「あ……」 呆れたような口調と言葉とは裏腹に、なまえを見つめる瞳には慈しむような色がゆらりと映し出されていた。それがあまりにも優しくなまえを見つめるものだから、甘みをはらんだ恋情が喉元まで込み上げてきゅっと胸を締めつける。 心からあふれそうになる鬼灯への想いを抱えながら、なまえは彼の腕の中で火照った吐息をこぼしたのだった。 |