にぎやかな声に満ちる食堂。向かい合わせに座ったお香とゆるやかな談笑に花を咲かせていると、どこからか流れて来た棘のある視線がなまえをつつく。それを受け流すように笑みで躱せば、食堂の一角がひっそりとさざめいた。 なまえに集まる眼差しの中に鋭いものがふくまれていることに気がついたのは最近のことではない。女性特有のまとわりつくような嫌悪と妬みを内にはらんだそれは時を移すごとにその鋭利さを増している。 心当たりがない訳ではないが、果たしてこちらから行動に出ていいものか計りかねていた。 ふう、と思わず陰鬱なため息を吐いたなまえに、心配そうに細められたお香の瞳が寄せられる。 「なまえちゃん、大丈夫?」 「はい、今のところ実害はありませんし……」 「困ったわねェ、辛かったら何でも言ってちょうだいね」 「ありがとうございます」 お香は聡いひとだ。なまえを悩ませる元凶が何なのかわかっているのだろう。 弱ったように頬へと手を当てるその仕草からなまえを想う気持ちが見て取れる。こうしてなまえに心を砕き、優しさを向けてくれるひとが居るから滅多にないやっかみにも耐えられるのだ。 あたたかさにあふれる胸を押さえ、なまえはふわっと微笑んだ。 食事を終え、お香と分かれたなまえはひとり、閻魔殿の悠久にも続く廊下を歩いていた。不意になまえの足音を追うように駆けて来るいくつかの気配を感じると、彼女は首を傾げながら振り向く。 「…こんにちは」 「……………」 「何かご用でしょうか?」 胸に立ちこめる憎しみにも似た感情をその目に揺らめかせ、ぎっとこちらを睨みつける彼女と、数人の取り巻き。主犯格だろうその鬼女の周囲を固める彼女たちは友人か、どことなく居心地が悪そうに身を縮めていた。 どうやら彼女たちはなまえに敵意を持ってはいないようだけれど、友人を止める気もないらしい。彼女を気にかけ連れ立って来たのだろう。 なまえは観察するように集団に目をやると、こちらを射抜くように見据えるその瞳をまっすぐに見返した。 なまえの穏やかに澄んだ、しかし強い光を宿す虹彩に彼女はかすかにたじろぎながらも深く息を吸い込む。 「何であんたなの」 「…何がでしょう」 「今まで第二補佐なんていなくてもやってこられたんでしょ、だったら必要ないじゃない」 「私が上司の位置に居ることが気に入らないのですか?」 「ええ、そうよ!聞けば拷問が苦手なんだってね、そんなことも出来ない人に上に立ってほしくないわ…!」 「拷問は……確かに書類整理より不得手ですがやれと言われればやりますよ。でも、現場に居て下さる貴女たち獄卒を信頼して任せています」 「………っ」 敵愾心が浮き彫りになり、ぴりぴりと肌を焦がすような空気を帯びた彼女は今にもなまえに向かっていきそうな身体を必死に抑えているようだった。 小さく震える彼女を見やり、思考を巡らせる。 関係が拗れる前に彼女と会話を交わしたのは一度きりだったが、向上心があり野心にも似た志を持っている女性だと感じた。 けれど、闘争意識を向けるなまえに対してただ指をくわえて見ているような性格ではない印象を受けたことを覚えている。 負けん気が強く、それと同等に努力する性分だと見受けられた。鬱憤を吐き出すより先に相手の鼻を明かしてやろうと尽力するような女性だったと思う。 それが間違いでないのならなまえの見解は正しい筈だ、と不安定に揺れる彼女の瞳に視線を移した。 「鬼灯さんも私もただ座っている訳ではないので……」 「…………な……で…よ」 「え?」 「…慣れ慣れしく呼ばないでよ」 「……貴女はやっぱり」 「何で全部あんたなのよ…!」 虚言に塗り固められた上澄みをすくうと、彼女が隠したいだろう本心が見えてくる。なまえと同じ、純粋に彼を慕うその心が。 憎悪の下になまえと似通った色を認められたから彼女の思いには理解出来る部分もあった。 羨望と憧憬と、幼い嫉妬。 その源にある恋心にどうしたものかとなまえが考え込むように目を逸らした時だった。自分でも制御仕切れないその泥のようにつきまとう醜悪な感情に呑み込まれた彼女が耐えきれずに振りあげた手のひらが、なまえに襲いかかろうとしたのは。 降ってくる痛みを覚悟して思わずぎゅっと目を瞑ったけれど、いつまで経っても痛覚を刺激されることはない。 首を傾げたなまえの鼻をくすぐったのは、慣れ親しんだどこか甘い紫煙の香り。それに混じって届いた鬼灯のにおいに、まぶたを持ちあげることなく心がゆるい安堵に包まれた。 「…鬼灯さん」 「なまえ、大丈夫ですか?怪我は」 「ありませんよ」 無事を確認するように頬から肩、腕をたどり爪の先までするりと優しく触れた鬼灯にやわらかな笑みがこぼれる。 武骨な手で両頬をいたわるようにくるまれて、そのあたたかさに心が安らいだ。急いたのか、彼のいささか乱れた呼吸がまたいとおしくて、頬に添えられた手に自身のそれを重ねる。 彼の背後から騒ぎを聞きつけたらしいお香やシロたちが駆けてくるのを目にしてわずかに強張っていた身体から力が抜けていった。 なまえの変わらない笑顔に息をついた鬼灯は、手を振り払われた格好のまま石のように固まっている彼女に刃のような眼差しをぎらりと突き刺す。 「なまえの立場を羨むのは勝手ですが、手をあげたのは許し難いことです」 「……っ」 「貴女の気持ちもわからなくはないけど…力に訴えるのは駄目よ、大事になったらどうするつもりだったの?自分のことも考えなきゃ」 「なまえさんをいじめる奴は俺たちが許さないぞ!」 「わ私……」 「…あ、あの皆さん、違うんです!」 なまえを守るように立ちはだかった彼らに一斉に言葉を浴びせかけられる彼女の表情が痛みをこらえるように歪められたのを目にして、なまえは慌てて声をあげる。 暴力を振るいそうになって最も後悔し傷ついているのは彼女自身のように思えたからだ。瞳の奥に膨れ上がっていた憎しみが見る間に萎んでいくのを認めて、自分の行いを悔いているのだと悟った。 そして鬼灯のしたたかな視線と言葉に切りつけられ、打ちのめされたように沈んでいく彼女を目にしたら無意識に身体が動いていた。彼女はきっと、只管に鬼灯を想っていただけなのだから。 彼女を庇うように間に割り込んだなまえを見て、鬼灯たちもなまえの背を見つめる彼女も、驚いたように目を見開く。 「なまえ、貴女自分が何をされたかわかっているんですか」 「えっと……誤解なんです、ちょっと話がヒートアップしたと言いますか、その」 「なまえちゃん…」 「盛り上がってしまいまして!」 「…………もういいわよ」 「あ………」 「…ごめんなさい」 「!」 ぽろりと落ちた呟きは彼女の心を映し出すかのように真摯な響きを持っていた。 肩越しにこちらを振り返って瞳を丸くするこの心優しい人に敵わないことは、とうにわかっていた。彼が彼女に触れるそのやわらかすぎる仕草も声色ににじむいとしさも知っていた。 戦う前から負けが決まっていたのに、当人から庇い立てされては面子などあったものではない。 その聖人君子のような優しさが時には残酷なものをもたらすことを、彼女はきっと知らないのだろう。 それでも、彼女から向けられる感情のあたたかさを目の当たりにして如何しようもなく和らいでしまった心は未だ認められそうにないけれど、受け入れてみようと思えたのはその清らかな水のように澄み切った思いやりがじわりと沁み込んでいくからか。 彼女は自嘲気味に笑むと、丁寧に頭を下げた。 「騒ぎ立てて申し訳ありませんでした、今後はこのようなことのないようにします」 「………」 「鬼灯様、………なまえ様」 「っはい!」 「失礼します」 戸惑う友人を付き従え、踵を返して去っていく彼女の背は消沈しているようにも、凛と前を向いているようにも思えた。 それを呆然と見送る鬼灯たちはどこか毒気を抜かれたように顔を見合わせ、肩をすくめる。 自分たちの助けなどなくとも、放っておけばなまえに絆されてしまったかもしれないと考えを巡らせながら、彼女の後ろ姿を見守るなまえに瞳を滑らせた。 「さすが、ですね」 「え?」 「本当。なまえちゃんってやっぱりすごいわァ」 「はい?」 「もうちょっと見せ場があると思ったんだけどなー」 「コラシロ、滅多なこと言うなよ」 「そうだぞ、平和的に済んでよかっただろ」 「…?」 頭上に疑問符をいくつも浮かべるなまえに苦笑しつつ、大切な彼女が無事でいてくれたことを喜び合うようにお互いを見交わす彼ら。 ひとつ問題が解決したことで、足取りも軽くなったお香たちの少し後ろをなまえと鬼灯はゆっくりと歩む。 鬼灯は、まだなまえを守ろうとするように肩が触れそうなほどの距離に寄り添ってくれている。彼をちらりと見上げ、なまえはほどいた唇の隙間から吐息をもらした。 鬼灯は彼女との諍いの原因が自分にあることを知る由もないだろう。 鬼灯が異性に関して引く手数多なのは昔からだけれど、結婚という形を取ってから彼に取り入ろうと近づく女性の数は目に見えて減っていた。 その事実にあぐらをかいていたのがいけなかったのか、と深く内省してなまえはきゅっとこぶしを握る。 彼へのあたたかくも強い想いを、恋情に揺れる心を改めて思い知らされたような気がした。 「どうしました?」 「………罪作りなひとを好きになりました」 「何か言いましたか?」 「いいえ。私、これからも頑張りますね」 「?」 ささめくような声は鬼灯には聞こえなかったらしく、小さく首を傾げられる。この恋しいひとを浚われないように、心を結びつけるようにとその大きな手のひらを取った。 やわらかなぬくもりに包まれた手に瞬きをひとつ落とした鬼灯を見上げ、なまえは顔をほころばせる。その屈託のない笑顔につられるようにして淡く口元をやわらげた鬼灯は、いとしい体温を強く握り返したのだった。 |