地獄の中でも一際賑わう繁華街。
小物問屋や旅籠、茶屋や小間物屋など、所狭しと連なる店に華やぐ通りを鬼灯とふたり肩を並べて歩む。拳ひとつ分空けた距離に恋しいひとが寄り添ってくれているというだけで、なまえの心は春風に包まれたかのようにぬくくなった。
思わずほころんでしまった顔を鬼灯に向けると、彼は氷砂糖をひとかけら溶かしたようなわずかに甘い眼差しを返してくれ、それがまたなまえの胸をくすぐっていく。

そんななまえを見つめていた鬼灯は不意に彼女の髪紐へと目を落とし、小さく首を傾げた。
彼女の耳元で束ねられた髪を飾る朱色のそれは数えるのも億劫なほど昔になまえへ贈った物だ。鬼灯との時間を重ねる中で擦り切れた紐はすげ替えられ、今日まで愛用されて来た髪飾りを彼女は買い換えようとはしない。


「そういえば随分前に渡したそれ、まだ着けていてくれるんですね」
「あ…はい、鬼灯さんに頂いた物はみんな宝物ですから」
「……それは嬉しいですけど、新しくしないんですか?何なら今買って差し上げましょうか」
「そんな、悪いですし、これもまだ使えますよ」
「二つあっても困ることはないでしょう」


鬼灯に上手く丸め込まれたなまえは付近にあった和小物が並べられた店へと手を引かれ、小さく苦笑をこぼす。
鬼灯自身の買い物よりなまえの傍らを飾る物を選ぶ時の方が存外楽しそうに見えるのは気のせいだろうか。彼にくるまれた手のひらにふわりと笑みを咲かせると、なまえは鬼灯の背を追って店内へと足を進めた。


「わぁ、綺麗な小物がたくさんありますね」
「ええ。……おや」
「あ、リリスさん!?」
「アラ、なまえちゃんに鬼灯様」


華やかな簪や上品な漆塗りが光を弾く櫛、見ているだけで心がふわふわと浮き立つようなきらびやかさが漂う店内で一際目を引かれた一角。
異国の金を帯びた髪を揺らし抜けるような白い肌を持つその人は、なまえの呼び声に気がつき妖艶な微笑みを浮かべた。どうやらリリスは夫と執事を従え、観光を兼ねて買い物に来ていたようだ。


「鬼灯様とお買い物?」
「はい、久しぶりに休みが重なったので…」
「ふふ、嬉しそうね」
「…っ、はい…」


確かに、鬼灯と同じ日に休日を迎えることは滅多にないのでなまえは昨夜から喜びと期待に胸をふくらませていたのだ。
ただ街中を散策しているだけで幸福が胸に芽吹く様子は傍目にもわかるほどだったらしく、気恥ずかしさから頬に熱がたまっていく。

うつむきがちに恥じらうなまえを見やり、リリスはそっと口角を引き上げた。彼女を見つけた時、そのあまりにも円かな表情はかすかにあだめいており、一心に鬼灯を見つめていた様相にいささか虚を突かれたのは秘めるべきことだろう。

内側にうまれた幸せがあふれたかのような桃色につやめく頬は彼女にこそ相応しいとリリスは思う。そして唯一のひとを一途に想えるその心に少しばかりあやかりたいと感じてしまったのは、贔屓している彼女と久方ぶりに顔を合わせたからだろうか。


「ねぇ、少しお茶しない?そこにあるお店で」
「え、でも…」
「私は構いませんよ。ゆっくり選んでおきますから」
「…じゃあよろしくお願いしますね」
「なまえちゃんに贈り物?素敵ね」
「お、俺ももう少しこの店を見ているぞ」
「アラそう?じゃあ女は女同士楽しむわ」


鬼灯が選んでくれるという科白が面はゆくて照れたようにはにかむなまえに、リリスは再び艶やかに微笑んだ。男を思いのままに惑わせるのも良いが、こうして想い合うふたりを眺め、時折からかうのも愉しいものだ。

リリスの言葉ひとつにころころと変わるなまえの表情を悦に入って見つめていると、ベルゼブブはぴんと触覚を跳ねさせて店に残ると進言した。
彼はリリスの何気ない科白を耳敏く聞きつけたようだ。愛する妻に簪でも贈ろうと考えているのか、彼の瞳は忙しなく棚の合間を行き来している。


「鬼灯様、なまえちゃんを少し借りるわね」
「ええ。…ちゃんと返してくださいよ」
「鬼灯さんったら……」
「ふふ、じゃあ行きましょ」


それぞれの嫁が和やかに連れだって店を後にしたのを見届けると、夫たちは彼女らに贈る品物を定めるべく背を向ける。鮮やかな色彩に視線を注ぐ中、鬼灯はぽつりと呟いた。


「リリスさんに贈り物ですか」
「オマエこそ、彼女に何か贈るんだろ。好みわかってるのか?」
「当たり前でしょう、何年共にいると思ってるんですか」
「フン、だがこういう華やかなのはリリスにこそ似合うだろうな」


ベルゼブブの手にある華美な飾りのついた簪はどこかリリスを彷彿とさせる。
美しいこがねや白銀で綾なされたそれを手に取り、優越に浸るベルゼブブの言葉にぴくりと片眉を持ち上げた鬼灯はその冷えた瞳で浮かれた様子の彼を一瞥する。更に鼻を鳴らした彼は見下すような表情に顔を歪めた。


「何だその顔は!」
「いえ、相変わらず自慢出来るのは嫁のことだけなんだなぁって」
「何だと!?オマエは自分の嫁が誇らしくないのか!……まぁリリスと比べれば彼女が見劣りするのもわかるがな!」
「…………見た目ばかりに囚われていると痛い目にあいますよ」


低くひそめた声がその場に響く。静かなその響きに込められているのは怒気か不快感か、少なくとも良い感情を乗せたものではないだろう。
程ほどに騒がしかった店内が水を打ったようにしん、と静寂に満たされていくのを感じ、ベルゼブブの背筋に駆け抜ける悪寒。凍えきった手が背を這うようなその感覚を振り払い、彼は気丈に声をあげた。


「リリスは確かにわがままだが妻の望みを叶えてやってこその夫だろう!俺に甘えてねだる時のリリスはそれはもう可愛いぞ」
「…金をせびる、の間違いじゃないですか」
「う、うるさい!オマエはどうなんだ!」
「ウチのは無欲なので何とも……ああ、ですが先ほど髪飾りを買う約束をした時のなまえはいじらしかったですね」
「くっ、だが進んでせがんだ訳じゃないんだろ?夫として頼りにされてないんじゃないか?」
「日本人は謙虚なんですよ、どこかの誰かさんとは違って」
「それは俺のことか!?リリスのことか!?」


長々と論争を続けながらも、二人は想い人に贈る物を選ぶ手は止めない。
始めは呆気にとられていた周囲もだんだんと好奇をふくんだ目に変わっていく。どちらもつがいを想う心に嘘偽りはなく、人目も憚らず言い合いを継続する姿がもの珍しいようだ。
元々他人の視線を気にかけるような性質ではない鬼灯と、妻を擁護することに手いっぱいなベルゼブブは注視されていることに気がつかないまま討論は激しさを増した。


「リリスは美人で俺に釣りあう器量もある、わがままなところに手を焼かされるがそれを受け入れてこその男だろう。それに見返りとしてよく尽くしてくれるしな!オマエの嫁にはないものも多いだろ」
「………細やかな心配りが出来、働き者で誠実。少々初心ですが一途に慕ってくれるなまえに不満などありません。強いて言うなら無自覚に人をたらし込むところくらいですが、人望はあるに越したことはありませんし」
「ぐっ」
「以前も申しましたが…出来た嫁でしょう?」


この場になまえがいたら指の先まで火照らせ恥ずかしがるような科白を、本人がいないのを良いことにつらつらと並べ立てる鬼灯。
いつの間にか夫の戦いを観戦する人垣が出来ていることを気にも留めず、予定調和のように生み出される言葉に野次馬たちは感嘆した。彼にとっては常日頃からの想いを口にしただけなので、何も感心されるようなことではないのだが。

しかし視線は合わずとも鬼神と蠅の王の間にはずん、とした重圧感が立ちこめる。鬼灯に言い負かされてわなわなと肩を戦慄させるベルゼブブは今にも爆発してしまいそうだ。
鬼灯はそれに目もくれず、花飾りが添えられた髪紐をひとつ手にとって会計へと足を向けた。


「決めました、これにします。私はもう行きますが……まだ決まらないんですか?」
「リリスには似合わない物などないからな、この棚にある簪を全部買おうと思っていたところだ!」
「下手な鉄砲数打ちゃ当たる、ですか?嫁の好みも把握出来ていないとは……」
「な、断じて違うぞ!」


鬼灯は背を追いかけてくるベルゼブブの騒がしい声を素知らぬ顔でかわしつつ、男が持つにしては少々可愛らしい包みを手になまえの待つ茶屋へ足を運ぶ。
のれんをくぐった途端にリリスからこちらへ視線をすべらせた彼女と瞳がからむと、日だまりを撫でたような感覚が訪れる。あたたかくゆるんだ心のままに引き結んでいた唇をやわらげた。


「鬼灯さん、こっちです」
「なまえ。これ、気に入るかどうかわかりませんが」
「ふふ、鬼灯さんが選んでくれた物なら何だって嬉しいですよ」
「見え透いた建前なんか並べやがって……」
「何か言いましたか」


抜け目のない鬼神のことだ、彼女の好みなどとっくに知り尽くしているだろうに、お飾りのように前置きされた科白を耳にしたベルゼブブは負け惜しみのように一言吐き捨てた。
再三彼らの間にばちりと散る火花になまえはまぶたをまたたかせ、心配そうに様子をうかがう。


「な何かあったんですか?」
「いいえ、何もありませんでしたよ。ですよね、ベルゼブブさん」
「フン」
「?」


嫁の居ぬ間に二人の確執を深める何かがあったことなど知る由もないなまえは首を傾げつつ、鬼灯から贈られた桃色の包みに目を落とす。
彼からの想いがあふれた贈り物に、宝物がまたひとつ増えた、とやわらかく顔をほころばせたなまえはそれを大切に大切に胸へと寄せたのだった。


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