ことこと、と鍋の隙間からもれるくぐもった音。次々と生まれる気泡は秘密のお喋りをしているかのようにひそやかな声をあげている。まな板を往復する包丁の軽やかな音を耳に入れながら、なまえはふと時計を見た。

時刻は八つ時を過ぎたところ。昼食をとりに来る客足も遠のく時間帯だ。
彼女が勤める小さな食事処は厨房に立つ店主と、給仕を任されたなまえの2人で切り盛りしている。昔から贔屓してくれている馴染み客と店主である気のいい彼の料理の腕、そして看板娘と呼ぶべきなまえの穏やかな接客で何とか立ちゆくほどの小さな食堂だ。

入り口には藍色ののれんがかけられ、あたたかな木造りの食卓が並べられた、昔ながらのどこか懐かしい雰囲気のする店。
なまえはぬくもりを感じられるこの店が好きだった。


優しい思考に沈んでいると、からりと開いた引き戸に我に返る。そよいだ風に乗って揺れるのれんをくぐり姿を現したのは、時折この小さな店に訪れる鬼神様だった。
聞けば地獄を取り仕切る閻魔大王の第一補佐官だと言う彼が何故質素な定食屋を贔屓にしているのかはわからない。けれどお客様はお客様、となまえはいささか緊張した面もちで茶の入った湯呑みを手に席についた彼へ歩み寄った。


「いらっしゃいませ」
「どうも。お久しぶりですね」
「えっ?あ…はい、お久しぶりです」


湯呑みを置いて戻ろうとしたなまえを引き留めるかのように声をかけられ、踵を返しかけていた足を止める。
彼の低い声音が耳を撫でるだけで心臓が兎のように跳ね、何となく身体に力が入ってしまうのは、以前彼から寄せられた言葉が起因しているのだろうか。

とく、とく、と胸の中心で熱を帯びて機嫌よく弾むそれを抑えようと胸元に手を置きながら、そろりとうかがうように鬼灯を見やった。


「そう気を張らないで下さい、何も取って食ったりしませんよ」
「は、はい……すみません」
「いえ、意識されずに今まで通り接客されたらどうしようかと思っていたので……よかったです」
「………」


こうして平然とした態度を取られるとあの日のことはまどろみの最中に見た夢なのではないかと考えてしまうが、彼の科白からまほろばでも嘘でもないのだと思い知らされる。

あの日、鬼灯がこの店に訪れたのは黒紅の宵闇に覆われた時分だった。いつも彼が頼む定食を席に運び背を向けようとすると、今日のように引き留められたのだ。ただし酸いも甘いも噛み分けたような大人びた声ではなく、鬼灯の武骨な手のひらになまえのそれを握られて、だけれど。

繋ぎ止められた手にじんわりとぬくもりが染み込み、なまえを射すくめるような濡羽色の虹彩に甘い火照りをはらんだ彼から目をそらすことすら出来ずに見つめあう。
からめとられた瞳と指先は鬼灯に浸食されたように熱を持って、耳の奥に反響する心音がなまえの心を揺らして。
―「貴女をお慕いしています」
そうしてあまりにもひたむきに囁かれた言葉に、なまえは林檎にも負けないほど真っ赤になってしまったのだった。

思い起こされたあの時の心情と手に重ねられた熱がなまえの頬を淡く色づかせていく。それに目を細めた鬼灯は、小さく首を傾げながら口を開いた。


「おや、顔が赤いですね。……思い出しました?」
「………!!!か、からかわないで下さい!」
「すみません。あまりに初々しいもので、つい」
「…嘘、だった訳じゃないんですか?」
「貴女に言った言葉に嘘などひとつもありませんよ」
「…っ……困ります」


厨房から聞こえる具材が煮立つ音や金属が擦れあう音色にかき消されそうなほどの華奢な声で呟いたなまえは、それきり一言も発することなく俯いてしまった。

2人の間に痛いくらいの静寂がたゆたい、なまえは胸の前に引き寄せた盆をぎゅっと抱きしめる。彼女自身を守るかのような体勢を取るなまえを一瞥し、それを紐解くために鬼灯はゆっくりと言葉をつむぎ始めた。


「私の言葉は信じられませんか?」
「……だって、違いすぎます」
「何がですか?住む世界が、ですか?このご時世地位などあって無いようなものです。殊更恋愛ごとに関しては」
「………」
「私はただの男として、なまえさんを好いているのですが」
「っ」
「………私の言葉で赤くなるということは、期待していいんですか?」


相変わらず腕を交差させたまま唇を軽く食んで視線をさまよわせるなまえは、それでも鬼灯の前から逃げ出したり強く拒否をする様子はない。あまつさえ彼の恋情をふくんだ言葉に頬をあえかに染まらせるのだ、全く相手にされていない訳ではないのだろう。

戸惑いが見え隠れしつつもころころと変わる彼女の顔色を眺めているのは愉しいものだが、まずは何よりもその心を射止めなければならない。
鬼灯の内側にあるあまやかな熱を秘めた想いがあふれて口を突いたあの時のように、なまえの手をそっと取った彼は再びささめく。


「こう何度も告白するのは私も気恥ずかしいんですが、なまえさんに信じてもらえないのなら仕方ありません。もう一度言います」
「え、いえ信じてないとかでは…!」
「好きですよ」
「!」
「……逃げようとしても逃がしませんから」
「………私」


狼狽するように身じろいだなまえの手は鬼灯の手のひらの中に捕らえられたままで、彼女が身を引くことすら許さない。
なまえの心が近づく気配を見せないことにその綺麗な瞳は先ほどまであった余裕をなくしたように揺らめいている。懸命になまえの心の行く末を追って語りかけてくれる鬼灯に、彼女はゆるくうなだれた。

困惑と、焦りと疑念。
確かな胸の高鳴りの次によぎったのはそれらが複雑に織り交ざった感情だった。
鬼灯から好意を寄せられるなど夢にも思わなかったなまえは、自身の胸にまとわりつく靄を憚らず純粋に喜ぶことなど出来なかった。
もし恋仲になるとして、それはいつまで続くのだろう。
2人に芽生えた恋心を紡いで、その先は?互いから目をそらすことがないとは言えない。圧倒的に釣りあわない鬼灯との未来が見えなくて、怖いのだ。だから産声をあげかけた気持ちに蓋をして彼から逃げようとした。

自身が傷つく前に引いた予防線。それを彼が、このおぼろげな恋情が越えてしまう前なら、今ならまだ間に合う。


そう思考を巡らせて顔をあげると、なまえが返そうとした言葉の先を見通したのか、おもむろに席を立った鬼灯に彼女はあどけなくまぶたをまたたかせた。


「あの…?」
「なまえさん、私は何もいい加減な気持ちで貴女を好きだと言っているのではありませんよ」
「え?」


気恥ずかしい、などと言っておきながらためらいなく想いをこぼす鬼灯は一途になまえを見つめている。

心情を読ませない無の表情でゆっくりと膝を折った鬼灯はそのまま床に跪き、こちらを見上げた。
毎日清潔に保っているとはいえ、砂埃が薄らと積もる床に足をついた鬼灯になまえは慌てるけれど、彼は気にも留めない。鬼灯は握っていたなまえの手をもの柔らかな仕草で下からすくいあげるように持ち直すと、唇を開く。


「結婚を前提に、私と付き合って下さい」
「………え」
「…自分がこんな科白を言う日が来るとは思いませんでした」
「…………」


哀願するような姿勢とは裏腹に、その夜の闇を映す瞳はなまえを確実に仕留めようとぎらついた光を宿している。それに射すくめられながら金魚のようにはくはくと口を開閉させていると、目を眇めた鬼灯はくるりとなまえの手を裏返す。

露わになった手のひらへ、とどめだと言わんばかりに唇を近づけた彼を止める間もなく落とされた口づけ。
ふんわりとやわい感触が残るそこから生まれた熱に、たまらず脈をあげる心臓に、なまえはようやく白旗をあげた。


「………負けました…私も、好きです」
「ここまで言わされて受け入れられなかったら首をくくるところでした」
「じょ、冗談でもそんなこと言わないで下さい!」
「……………」
「冗談…ですよね?」
「どうでしょうか。まぁなまえさんも素直になったことですし、そんなことはいいじゃないですか」


はぐらかすように肩をすくめた鬼灯に困ったような笑みを向けながら、なまえはからめられた指先に目を落とす。
触れた肌から、鬼灯を見つめる瞳から、甘く苦しく鼓動を刻む心臓から彼への想いがにじむ。まだ愛と呼ぶには早く幼いそれを胸いっぱいに抱えて、慈しむようになまえの頬を撫でるそのぬくもりにまぶたを伏せたのだった。


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