目元にするりと触れるぬくもり。丸みのないその感触は滑らかだ。きっと指の背だろう、それが頬をやわくさすり、首筋をたどり鎖骨まですべっていく。時折遊ぶように肌をくすぐるその感触はひどく優しくて、まどろみの中に沈下していた意識をゆるゆるとすくいあげる。
この指の持ち主はきっといとしい神獣様だ。なまえに恋心とあふれるくらいの愛をくれる、恋しいけもの。

震えたまぶたの隙間から、ふんわりとたゆたうレースのように棚引く柔い光が射し込んだ。それに誘われるようにしてゆっくりと目を開けていく。


「んん、」
「ふふっ、かわいーなぁ」
「ん……白澤?」
「うん、おはよ」


とろけた視界に映ったのは優しい光を灯した黒紅の虹彩。優しさの中にも淡い熱を宿してこちらを見つめる白澤はなまえを向かい合わせに抱きすくめるようにして寝台に横たわっていた。
眠りにつく前と何ら変わりないその体勢にずっと抱きしめられていたのだと知る。いとおしむように身体に回された腕にそっと触れると、じんわりと溶け合う体温が心地よかった。
共に朝を迎えることはもう習慣となっているのに、なまえへの想いの一切をふくんだようなこの甘い空気に慣れることはない。
むずむずと気恥ずかしさが込み上げて来て、はぐらかすように白澤の顔を見上げた。


「起きてたのなら起こしてくれてもよかったのに」
「だって気持ちよさそうに寝てるなまえちゃんが可愛かったから、起こすのもったいなくて」
「ね寝顔なんてかわいくも何ともないよ…今だってひどい顔してるだろうし」


寝相は良い方ではない上に、もしかしたらよだれだって垂らしているかもしれない、いびきをかくかもしれないし寝言が五月蝿いかもしれない。
そう理由を並べ立ててもいつもあのやんわりとした笑みで一蹴されて蒲団に引きずり込まれてしまうのだ。なまえのすべてが愛しいから大丈夫、なんて蜜に浸したような甘ったるい科白と共に。

おまけに白澤はなまえよりも早く目を覚ますので、寝顔や起き抜けの顔もばっちり見られてしまう。腫れぼったいまぶたや締まらない表情のどこを見て可愛いと形容しているのか全く理解できない。
むう、とかすかに唇をとがらせたなまえを見下ろして綿羽のようにやわらかな笑顔を浮かべた白澤は、彼女の額にそっと唇を寄せた。


「は、白澤!」
「僕にとってはこうやって恥ずかしがってるなまえちゃんも腕の中であどけなく眠るなまえちゃんも、起きたばっかりの飾らないなまえちゃんも皆同じくらい可愛いんだ」
「………ばか」
「そうやって嬉しそうな顔してる君も好きだよ」
「う嬉しくないよ!」


予行練習でもしたのではないかと思うほどつぶさに連ねられるあまやかな言葉に、心臓は高鳴るばかりだ。
熱をためる頬はきっと枸杞の実のように赤くなっていることだろう。なまえの肌をなぶっていく白澤の愛でるような眼差しがまた全身を火照らせていく。耐えきれずに白澤のやわらかな拘束から抜け出すと、残念そうな声をあげた彼が身を起こした。


「もうちょっとなまえちゃんとゆっくりしてたかったのに」
「今日もお店があるでしょ!さっさと起きる!」
「はーい」
「……あ、白澤髪跳ねてるよ」
「えっ」


なまえの指摘に見当違いの場所を手のひらで覆う白澤。常に綺麗に整えられている細くしなやかな黒髪は一房だけ反旗を翻したようにぴょこんと跳ねていて、何だか可愛い。
変に恰好をつけていない、飾り気のないその様相にいとおしさが萌えたつ。
慌てたような白澤の仕草にあわせてひょこひょこと上下する髪束にくすりと笑みをもらし、撫でつけてあげると彼は照れたようにはにかんだ。


「三角巾つけちゃえば隠れると思うけど…」
「……何かいいなぁこういうの」
「え?」
「素の部分を見せあえるっていいなと思って。その相手がなまえちゃんで、本当によかったなぁって思ったんだ」
「そ、そんなの…私も思ってるよ」
「本当?嬉しいな〜」


ほのかに目尻を染めてくすぐったそうに笑う白澤がたまらなく幸せそうで、伝染したようになまえの心もあたたかな想いで満たされていく。
花弁のひとひらがふわっとほころぶような微笑みをこぼしたなまえに小さく目を見開いた白澤は、おもむろに背を丸めると、彼女の唇をもの柔らかく塞いだ。


「な、何で急に…!」
「んー、したかったから」
「ししたいって……」
「なまえがかわいいのがいけないんだよ」
「!」


彼と過ごす時間はすべて特別なものだけれど、殊更大切にしたい場面でだけ名を呼ぶ白澤は本当にずるい。
後頭部に回った大きな手のひらがなまえを支えて、差し込まれた指先が髪を梳いていく。その手慣れた動作に悔しくなるやら心臓が熱く脈打つやらでぐるりと心をかき乱されたなまえは、白澤のシャツの裾をぎゅっと握りしめるとそのまま手前に強く引いた。

抵抗すらしなかった白澤は下からすくい上げられるように重ねられた柔らかなそれに眦を和らげる。


「……今日は随分大胆だね?」
「うるさい、白澤が悪いの」
「僕のせい?じゃあ僕以外にはしない?」
「当たり前でしょ、白澤じゃないんだから!」
「ひどいなぁ、僕だってしないよ。なまえだけだよ」


確かに白澤の軟派な気質はなまえと恋仲になってから随分と落ち着いた。なまえ以外の女など見る影もなく、桃太郎も地獄の鬼神も大層驚いていたのを知っている。
しかしそれでも埋められない経験の差が白澤との間に横たわっていることも知っていた。
拗ねたように顔をしかめたその表情さえいとおしそうに見つめた白澤はなまえをそっと胸に抱き込んだ。


「拗ねないの」
「…拗ねてない」
「僕はなまえだけが好きだよ」
「……知ってるよ」


胸にもやもやと渦巻くほろ苦い感情は白澤への想いを深める度に顔をのぞかせる。けれどそれをぬぐい去ることができるのもまた彼なのだ。
玻璃に触れるかのような手つきでなまえを包み込んでいた腕がほどかれ、そっと頬をなぞる白澤のあたたかな手。やんわりと顎にかけられた指先とゆるく訪れる甘い予感に溺れるように、なまえはまぶたを伏せたのだった。


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