夜を徹した身体が重たい。身にまとわりつく泥濘をかき分けて進んでいるかのような倦怠感に表情をしかめ、腕に抱えた書類を持ち直す。遙か彼方まで伸びる道がかろうじて残っていたなまえの体力を奪っていくのを感じつつ引きずるように足を進める。
この時ほどこのやけに長い造りをしている閻魔殿の廊下を恨んだことはないだろう。その設計を考案した建築家にまでその怨恨を向けながら、なまえは気だるげに息を吐く。

化粧も碌にほどこさないまま出て来てしまったから、きっとひどい顔をしていることだろう。ただでさえ誇れるような見目はしていないというのに、これから彼に会うのだと思うと億劫で仕方がない。
恥をさらすなどまっぴらだが、その上またお小言を食らうのだろうか。
貫禄すら感じられる扉を構えた執務室を視界に捉え、重苦しくなる胸に肩を落とした。


「失礼します。頼まれた書類なんですけど」
「ああ、早かったですね、ありがとうございます。そこに置いておいてください。……………」
「ではこれで」
「ちょっと待ちなさい」
「…………」
「まさかまた徹夜したんですか?」


どうかこちらを見ないでほしい、と見えない星にかけた願いは聞き届けられなかったようだ。黙々と書類にすべらせていた視線を持ち上げた鬼灯と瞳がからみ、すばやく顔を背けてもすでに手遅れだ。

彼女の柔らかな目縁を沿うようにして暗鬱と広がる影に眉を寄せた鬼灯は、なまえの返事を待たず深いため息を吐いた。
それに肩を揺らしつつ、心の内で言い訳を募るなまえは拗ねたように唇がとがっていくのを自覚する。

実のところ、頼まれていた仕事は鬼灯のものだけではなかった。
体調を崩した同僚の代行や上司から任された職務など、なまえの元には示し合わせたかのように次々とやらねばならない業務が舞い込んできたのだ。
もちろん通常の職務もこなさなければならないため、必然的に夜を明かすことになる。

そして鬼灯の口振りからもわかるように、それは初めてのことではなかった。鬼灯と並ぶとまではいかないものの、なまえが他の獄卒より多くの仕事を捌いていることは確かだ。

しかし問題は休息を削ってまで働く彼女の性格にある。抗いようのない眠気に囚われてふらふらと歩むなまえを鬼灯が何度見たか、数えるのも煩わしいくらいだ。足取りすらおぼつかない彼女を目にする度に肝を冷やし、なまえを想うがゆえの憂慮で心をくすぶらせるこちらの身も考えてほしい、と鬼灯は常々切望している。


「なまえさん、少しは周りを頼ったらいかがですか」
「いえ、私が頑張ればすむことですし………」
「何日ですか?」
「え?」
「何徹目ですか、と聞いたんです」
「え、と…さん……」
「…………」
「い、いえ四です…あの、鬼灯様怒ってます?」


少しでも彼からのお叱りを軽減しようとついた嘘が仇となり、ますます眉間にしわを刻んでいく鬼灯になまえの背筋はぞわりと震えた。
恐々訊ねたその言葉が引き金となってしまったようだ。しびれを切らしたように立ち上がった鬼灯はその長い脚を存分に活用して瞬く間になまえとの距離を縮めていく。

逃げ出したりしようものなら地の果てまで続く追いかけっこが始まることは経験済みなので、ぎゅっとまぶたを重ねながらおとなしくしていると、頭に降ってきたのはあたたかな手のひらだった。
なまえをいたわるように優しく優しくそこを往復する彼の体温にきゅうっと胸が締め付けられるとともに、疲れから強ばっていた身体がほぐれていく。

ゆるりと吐き出した安堵の息を皮切りに、じんわりとぼやけていく眼前に気がつき焦りがにじむ。


「あ、あれ……?何で私…」
「気を張っていたんでしょう。責任感が強いのは良いことですけど、何でも抱え込んでしまうのは頂けませんね」
「…そうでしょうか……?何だか鬼灯様、他人のことなのに本人よりもわかってるんですね」
「…なまえさんのことを他人だと思ったことはありませんけど」
「へ?」
「いいえ。……着いてきてください」
「え、でもまだ仕事が」
「上司命令です」


恋仲にある相手を他人だと言い切ってしまうあたり、なまえの甘え下手な性質が垣間見える。
彼女らしいが、男としては心を寄せる女には頼ってほしいと思うもので。鬼灯の言葉を拒否した彼女が黙る決まり文句を口にしながら、なまえの冷えた手を捕まえたのだった。





握られた手のひらはいつの間にか指までからめとられ、恋人として過ごす時のようにお互いのぬくもりを分け与えている。合わさった肌から芽ぐむ熱が心地よい。
胸にまで染み渡るそのあたたかさにふわりと顔をほころばせながら、鬼灯に導かれるままに彼の自室へと向かった。


「あの、どうしたんですか?忘れ物とか……」
「そんな訳がないでしょう。ほら、ここに座ってください」


寝台に促されて腰をおろし、なまえはほのかに頬を赤らめた。
彼が起きた時のままなのだろう、シーツにくしゃっと寄った無造作な皺が理由もなくなまえの心をつついて、ひどく落ち着かない。
新雪のような真白が甘い毒のように目を刺激して、とくとくと速い脈を打つ心臓の音が彼に聞こえやしないかと懸念する。

さざなみが揺らめくように騒ぐ胸中を抑えて隣に腰掛けた鬼灯を見上げると、かち合った眼差しにまた心音が大きく鳴った。なまえを見つめる鬼灯の虹彩には慈しみといとしさが混ざりあい、とろりとその色を溶けさせている。
なまえへの恋心が蕩けたような瞳に耳の先まで熱をのぼらせた彼女を見て、鬼灯は気難しく引き結んでいた唇を淡くやわらげた。


「横になってください」
「えっ、いやそんな……まだ勤務時間ですし……、その」
「また上司命令、と言った方がよかったですか」
「…でも」
「口答えは結構です、さっさと寝る」
「………」
「…仕方ないですね」


鬼灯の言葉は有難いものだったけれど、こうしているうちにも他の獄卒たちはあくせく働いているのだと思うとどうにも気が引けてしまう。

膝の上に置いた手を握り込むと、ゆるやかな吐息がやんわりと鼓膜を撫でた。かと思えばふっと目の前に影が差し、瞬きをしたなまえの視界がぐるりと反転する。

少々乱暴な仕草で肩を掴んだのは鬼灯の武骨な手のひら。骨張った手に捕らえられた力強さとは裏腹に、身体は寝台の上へと優しく沈ませられた。
柔らかなシーツの波にくるまれてそろりと上を見ると、眉間の谷を深めた鬼灯が静かにこちらを見下ろしていた。

彼によって縫いつけられた肩と手首から伝わる熱がじわじわと全身を巡り、わずかにかかる鬼灯の重みがまたなまえを気恥ずかしくさせる。出来得る限り体重が乗らないようにと心を砕いてくれる彼の優しさがなまえの内側をくすぐっていった。


「こ、この体勢は」
「こうでもしないとまた意地を張るでしょう。もう諦めたらどうですか」
「…じゃあ半休取っておいて下さい」
「わかりました」


彼に押し倒されたまま、鼻先で交わされる言葉。熱を帯びた呼気が肌をなぶる度に心が揺らめき、休むどころではないけれど、彼のぬくもりに触れるごとに胸が満たされていく感覚は好きだった。
砂糖漬けにされたような想いにあふれたなまえは草臥れた身体からようやく力を抜く。
自身の下で儚くこぼれ咲く花のような笑みを描く唇を認め、鬼灯は彼女の心が休まったことを知った。ならば次は、と身を起こした彼は、なまえの髪を慈しむように特別もの柔らかに撫でる。


「鬼灯様?」
「少し頭を上げて貰えますか?」
「はい………?」


すっかり安らぎを得た彼女はあどけなく首を傾げながらも従順に頼みを聞いてくれる。素直に擡げられた頭の下に脚を滑り込ませると、なまえは驚いたようにこちらを仰いだ。
もぞりと身じろぐ彼女の頬はほのかな赤に彩られ、そのいじらしい姿に膝に乗る重みすら恋しいと思ってしまう。


「ほ、鬼灯様!?膝枕なんてして頂かなくても………!」
「おや、疲れを取るにはいいと思ったんですけど…少し硬いですか?」
「そんなことはないですけど、あの…、………重くないですか」
「いいえ、むしろもっと楽にしてください。貴女一人くらい軽いものですよ」


か細い声でつむがれた問いは彼女らしい案じ事だった。
鬼灯の科白に詰めていた息を逃がし、安堵を見せたなまえはまぶたを伏せて鬼灯の膝にすり寄るかのように身体を預ける。
やっと甘えるような素振りを見せたなまえの頬をなぞる鬼灯の指先は硝子細工を扱うように繊細に動く。
ゆるゆるとすべる体温が心にも灯ったようにあたたかさが広がり、なまえは顔をほころばせながら鬼灯を見上げた。


「やっと甘えてくれましたね」
「……鬼灯様、あの…」
「何でしょう」
「………」


人間も鬼も、ひとつ与えられるともうひとつと欲が出てきてしまうもので。それはなまえも例外ではなく、上司ではなく恋慕うひととして鬼灯を求めてしまうのも仕方のないことだった。
もっと甘えてみたい、触れたい、触れてほしい。
そんな想いが心という小さな器に止め処なく生まれ、息づき、こぼれ落ちたそれに誘われるようにして、自身の手をなまえの影が残る目元を愛でていた鬼灯の手のひらに重ねた。


「………」
「………上司として命令した方がいいですか」
「…いえ、恋人として……もう少し触れていたいです」
「私もです」


頬に紅を差したように赤らめたなまえが言い難そうに瞳をさまよわせる様を見て言わんとするところを察した鬼灯は、おぼろげに目を細めた。
恋人として彼女に恋われ、喜びが胸をよぎる。ひそやかに浮つく心のまま惹かれるように身を屈めると、なまえはそっと双眸をまぶたの裏に隠した。

わずかに持ち上げられた細い顎に胸を和ませつつ、口づけをねだるように淡く開いた唇へやわらかな熱を落とす。
項にそっと回される彼女の体温を感じながら、桜色に染まるなまえの肌を見つめるその虹彩にはあまやかな想いが揺らめいていた。


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