花盗人は何処 | ナノ




「じゃあ、また…」
「ちゃんと歯を磨いてから寝るんですよ」
「もう、ちゃんと磨きますって…!切りますからね」
「はいはい」


2度目となる通話を終え、なまえは深く息をついた。
鬼灯の心地よい低音がまだ耳をくすぐっているような気がしてそこにそっと触れる。とく、とくと心臓が常より早く脈打つのは彼と言葉を交わした後だからだろうか。
否、姿の見えない彼にどうしようもなく焦がれるのは、きっと鬼灯が傍らに居ない日々に慣れていないから。

そう言い聞かせながら落とした目で捉えたのは一冊の本だ。
手持ち無沙汰になった途端脳裏に浮かぶ地獄を想い、悩むように表情を沈ませるなまえを見かねた白澤から半ば強引に手渡されたもので、いわゆる恋愛を主題とした小説だった。


「…恋愛小説か……前にも読んだことあったなぁ」


いつか読んだ小説の中の小さな恋心は、厚さにして1ミリ足らずの薄っぺらな紙に綴られていた。
それを束にしてもなまえの手に収まるくらいの可燃物、そこに詰め込まれた甘酸っぱい想いときらきらと宝石のように輝く世界を見る主人公。

彼女の恋物語のすべては1日もあれば読破出来るほどの厚みしかない筈なのに、なまえには眩しくて到底理解に至らないような、それでいて強く惹かれてしまうような。
不思議なものを内包しているように思えたのを覚えている。

なまえはそれに確かな憧れを抱いていたけれど、自分には触れるのもためらわれるほどのきらめきを持った"恋"というものを敬遠していた部分もあった。

とどのつまり苦手だったのだ、恋愛小説というものが。



それに改めて接するきっかけになったのが白澤から貰い受けた先の本だ。

なまえの気をそらしてくれることを期待し貸してくれただろうそれの活字を追ううちに、いつの間にか綴じられた紙面の上で展開していく物語に夢中になってしまったのは読書好きの性だろうか。

しかし、以前感じた隔たりを覚えることなく集中出来たのは何故だろう。

彼女の目を通して、彼女の内側に入り込んで見た恋というものは、意外にも容易になまえの胸へと染み込んでいった。後々恋人同士となる男性に対する想いの中で、共感する一端もあった。
であればいつ共感するような体験をしたのだろう。彼女と心をぴたりと沿わせたように重なる想いを、なまえはいつしたのだろう。


不意に、ふっと心に浮かび上がったのは大切な彼。先ほどまで鼓膜を揺らしていた声とその濡羽色の虹彩を想起し、熱が溶けだしたように心臓が熱くなる。

行灯の光が遊戯でもしているかのようにゆらゆらと舞う視界、まどろみに捕らわれつつあるなまえは夢うつつに彼へ思いを馳せながら、いつしか夢の浮橋をたどっていたのだった。





「あ、なまえちゃん。僕が貸した小説どうだった?」
「えっ」
「ん?気に入らなかったかな?なまえちゃんが好きそうなものを選んだつもりだったんだけど」
「い、いえ面白かったですよ!主人公の気持ちがすごく伝わってきて…」
「だよねぇ」
「あれって確か恋愛小説でしたよね?……」


碌な恋愛していないくせに、とでも言いたげな視線が桃太郎から飛んでくるのをお得意の笑みでかわしつつ、白澤は薬棚の掃除に取りかかるなまえを見やる。
視界に捉えた彼女はほんのりと頬を上気させており、白澤はまぶたをまたたかせて彼女に貸した小説を思い浮かべる。

純愛ものの王道を行くそれになまえが肌を色づかせるような内容はない筈だが、と首を傾げていると、からりと戸を開く音が耳に届いた。


「こんにちは」
「あっお香さん!」
「え、お香ちゃん?」
「この間来た時に買えばよかったんだけど、冷え性のお薬が切れてたの忘れてたのよォ」
「いやいや、また会えて嬉しいよー」


数日と空けずに顔を見せたお香に驚きつつ、なまえは花がほころんだような笑みを浮かべた。
横目に彼女を見守っていた白澤の心にもあたたかいものが吹き込むのを感じ、自然と微笑みがこぼれる。こんな風に、誰かが覚えた心情を共有するように揺れ動く心には未だ慣れないけれど着実に変化していく己に彼自身戸惑いながらも、受け入れ、過ごす毎日を楽しんでもいた。

2人にしなやかな笑顔で答えながら足を進めたお香は、早速なまえと談笑を始める。


「ホントうっかりしてたわァ。なまえちゃんのことで頭がいっぱいになってたから」
「す、すみません…でもまた会えて嬉しいです!」
「アタシもよ。ねェ、この後時間ある?少しお話したいんだけど……ダメかしら?」
「いいよ、ちょうどなまえちゃんには休憩してもらおうと思ってたし話しておいで」
「ありがとうございます!」


なまえからちらりとうかがうような眼差しを貰い、優しく笑んだ白澤は快く許可を出す。喜びに浮かされたように破顔したなまえはお香と連れだって店を後にした。


やわらかな光が降り注ぐ天を仰ぎ、穏やかな風に髪を揺らしてゆったりと足を進めていく。
お香との間に心がゆるりとほぐれるような、心良い気配が流れゆく。
他愛のない会話を交わしながら、隣を歩む彼女を盗み見た。なまえよりもずっと大人びて、すべてを包容してしまうような穏やかさを持つ彼女なら昨夜感じた疑問の答えを導いてくれるだろうか。

心の端に鉤のようにしつこく引っかかっていたそれを取り外そうと、なまえはわずかな緊張を覚えながら口を開いた。


「あの…恋って何でしょうか」
「あら、突然どうしたのォ?」
「すすみません、えっと、普通の好きとは何が違うのかなって……白澤さんから貸して頂いた恋愛小説を読んでいるうちにそう思って…!」


なまえの唐突な問いに、彼女の美しく整った水縹色のまつげがぱちり上下する。
空に透けるような色彩を持つそれがまたたくのをよそに、なまえはどこか恥じらうように視線を落とした。
そんな彼女を見つめたあと、お香はかすかな笑みを唇に乗せつつ喉をふるわせる。


「…うーん、そうねェ。その人のことを想うと切なくなることかしら」
「切なく?」
「そう、好きだけじゃなくて苦しくなったりやりきれなくなったり……それでもその人を求めてやまない、って感じかしら?言葉にするのは難しいわね」
「求める…」


お香の科白がすとんと胸に落ちる。それに呼応するようにじわりと心を染めたのは、彼の存在だった。ほんの数日離れているだけで狂おしいほど苦しめられた胸と、鬼灯のあの心地よい声音を耳にしただけであたたかくほどけていった心。

白澤や桃太郎や、今こうしてお香と会話していても心のどこかでは鬼灯を希っていることを痛いほど思い知らされた気がした。

ほのかに頬を赤らめていくなまえに笑みを深めたお香は、少しからかうように付け加える。


「あとは単純に、恋人同士がするようなことをしたい、とか」
「!」
「ふふ、こういうことを話すのはちょっと恥ずかしいわねェ」
「はい……」


ふたり顔を見合わせて笑みを交わし合う。彼女との合間にたゆたう空気がどこかくすぐったくて甘みをふくんだものに変化しているのを感じとり、なまえは面はゆそうに首をすくめた。
目映くて仕方なかった恋という行為。恐れさえ感じた尊いその想いに指先が触れたように思えて、なまえはそっと胸元に手を当てた。


「ね、なまえちゃん」
「?はい」
「頑張ってね」
「……はい、ありがとうございます…!」


彼女にはなまえが自覚する前から、この想いを見透かされていたのだろう。庇護するような眼差しが寄せられるのを感じ、思わず頭を下げた。

きっと随分前からなまえの奥底で芽吹きを待っていたそれをようやく見つけてあげられた。徐々に根を張り萌えぐ心を抱えながら、彼女はお香にさやかな笑顔を向ける。

この想いと向き合って、なまえの見識が間違っていないことを確かめなくてはならない。
懐に仕舞い込まれた端末を押さえ、さざめき始める胸中を落ち着かせるように吐息する。
眦に力を込めて前を向いた彼女を、お香はただ静かに見守っていた。


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