太陽が休息に入り、まどかな光を帯びた月が空を彩り始める頃。照明のほのかな灯りがもれる一軒の漢方薬局はにぎやかな声に包まれていた。 若草色に染まった茶が注がれた湯呑みを手のひらでくるみ、白澤との間に交わされる他愛のない談笑。彼の気安い雰囲気と、とんとんと話が弾む対話力も相まって白澤とは茶飲み友達のような関係が築けている。 時折ふっとおりてくる甘い空気と言葉に呑み込まれそうになることも多々あるが、何とかかわしつつ良き友人としてお付き合い出来ていると自負していた。 彼と楽しいひとときを過ごしていると、しっとりと髪を濡らした桃太郎が顔をのぞかせる。 「なまえさん、次風呂どうぞ」 「あ、ありがとうございます」 「本当によかったんですか?先に入らなくて」 「いいんですよ、お世話になってる身ですから」 ここに住まわせてもらうようになってから幾度となく繰り返された科白を再び口にする。 それでも納得いかないように眉をひそめる桃太郎に、なまえはなだめるような微笑みを向けた。優しげなそれは3人で暮らす今の状況に何の不満も抱いていないことを示唆しており、なまえの笑みに丸め込まれるようにして彼が言葉を仕舞い込むのもいつしかお決まりの流れとなっていた。 「僕としては一緒に入ってもよかったんだけどなー」 「アンタな……」 「白澤さんとお風呂に入りたい方はたくさんいると思いますよ?」 「……僕はなまえちゃんと入りたいんだけどなぁ…」 「何かかわすの上手くなりましたよね、なまえさん」 包み込むように柔和な笑顔を投げかけられては食い下がることも出来ず、がっくりと肩を落とした白澤に桃太郎は小声で呟く。 はじめは白澤の軽薄な態度と本気とも冗談とも取れぬ物言いに頬を赤らめ、慌てた様子を見せていたなまえもいつしか彼への正しい対応を身につけてしまっていた。 それだけ仲を深められたと取るか、ますます彼女と懇意になることは難しくなったと取るべきか決めあぐねている白澤をよそに、なまえは茶器を手に席を立った。 「今日はお風呂に入ったらそのまま寝ますね、おやすみなさい」 「おやすみなさい、なまえさん」 「おやすみ。……気が向いたらいつでも誘ってね!」 なまえは白澤の縋りつくような眼差しに苦笑を返しながら店を出る。 地獄では見ることも叶わなかった星のまたたきに目を奪われながら、彼女は風呂場とは反対の方角へと足を向けた。 均された土を踏みしめて、懐から端末を取り出す。その冷たい感触に指の腹をすべらせながら騒ぎだした心臓を落ち着かせるように吐息した。 そうしていくらか穏やかになった心音を認めると液晶画面に浮かび上がった彼の名に標準を合わせ、今度はためらうことなくボタンを押し込んだ。 一瞬の静寂ののち、脆い糸が彼へと繋がったことを知らせるコール音が響く。耳の奥を揺さぶるそれに心まで揺れ動くのを感じながら、なまえは願うようにそっとまぶたを伏せた。 「はい」 「!も、もしもし鬼灯さんですか?」 「ええ、どうしたんですか」 「繋がらないかもしれないと思っていたので……」 仕事が立て込んでいるだろうからと長期戦を覚悟した直後ぷつりと途絶えた呼び出しと、耳に注がれた彼の声。 意味もなく背筋を伸ばしてしまったなまえは電波の向こう側に意識を集中させつつ、小さく首を傾げた。 この時間ならばいつも通り残業に追われている頃なのに、と胸に湧いた疑問を、鬼灯は透かしたように息をついた。 「…私もかけようかと思っていたところなので」 「ふふ、何だかこの間の私と同じですね」 「そうですね」 ゆるやかにたゆたう鬼灯との時間に浸かるように、他愛ない言葉のやり取りをする。まるで彼と会えない時を取り戻すように尽きない声は紺碧の空に吸い込まれ、溶けていった。 耳に、心になじむような鬼灯の声音に胸がきゅっと甘苦しく締め付けられる。この感覚は、彼とふれあう時幾度となく感じたものだ。 今ならばわかる、せつないという感情。 あの筋張った喉から生み出される音だけでは足りなくて、鬼灯にひと目会いたいと願うことが恋しいという心ならば。……なまえは彼に恋をしているのだろうか。 胸に芽ぐむ想いひとつひとつを摘み取り、咀嚼するなまえは初めて覚えた心情をすくいあげようと懸命に手探りで進んでいく。 少しばかり疎かになってしまった会話に違和感を感じたのか、鬼灯はその声に憂慮をにじませた。 「大丈夫ですか、何か困ったことでも?」 「い、いえ平気です」 「本当ですか?なまえはすぐため込みますからね…」 「ほんとですよ!その言葉だけで…十分です」 「……なまえ?」 なまえに心を砕いてくれ、どこか慈しむような音をふくんで寄せられる科白。それだけで胸がじんと熱を持って、こらえきれないほどの嬉しさと、敬愛と。 それから焦がれるような恋しさがあふれる。 鬼灯にとっては通常どおり頼りないなまえを心配し口にした言葉でも、十分だった。 もうすでにこの小さな身体いっぱいに詰め込まれた恋心を自覚するには。 てっきり未知の感情に焦ってそのまま通話を終えてしまうくらいの覚悟はしていたのだけれど、意外にも凪いだ心を保っていられることになまえ自身が驚いていた。 ゆるやかに熱をはらんでいく頬に手を当て、なまえは言葉を続ける。 「あっそういえば、この間お香さんたちが来てくれましたよ」 「ああ、なまえの手紙を読んで真っ先に居場所を聞かれたのでつい、答えてしまいました」 「……ありがとうございます」 「何がです?」 「いいえ、何でもありません!」 きっと彼らの中に息づいたわだかまりを察して、なまえ自身に精算させるためにわざと口を滑らせたのだ。 傍らに居ることは許されなくても、鬼灯の心遣いは確かになまえまで届いている。 なまえは胸のあたりをあたたかく包み込む優しさに頬をゆるませながら、きっと素直には受け取って貰えないだろう礼を小さく囁いた。 「そちらでは不自由なく暮らせていますか?」 「はい、店のお手伝いや桃太郎さんの芝刈りなんかも手伝ってます」 「なまえが居ればアレも少しは自堕落な生活が改善されるでしょうね」 「白澤さん、そんなにだらしなかったんですか?」 「飲んだくれて帰ってくることも多いようですし、桃太郎さんが一番苦労していたでしょうね」 「そうなんですか……あ、でも確かにこの間寝坊されてました」 なまえを地獄に戻せば、桃太郎がまただらしのない上司に苦労させられることになるだろう。それに同情はするが、あの神獣が彼女との関係をこれ以上深めることを良しとしないのも本心だった。 2人の思い出をつむぐ、やわらかに跳ねるなまえの声にさえ小さく軋む胸に鬼灯はふう、と淡いため息をもらす。 「どうしたんですか?何かあったんですか?」 「いえ、何でもないですよ。どうぞ話を続けて下さい」 「で、でも」 「構わずにほら。なまえの声を聞いていたいんです」 「えっ」 「…………。……眠気覚ましにはちょうどいいんですよ」 大げさに震えた肩に動揺を乗せたなまえが意味もなく木々の隙間へ視線を巡らせていると、はぐらかすように付け足された科白。その声音に、なまえにも誤魔化すような意図があると気取られるくらいの揺れを感じて彼女の頬は桜色へと染まっていく。 一度自覚した恋心というのは制御することさえままならないものなのだと高鳴る心臓に痛いほど思い知らされ、なまえは慌てて口を開いた。 「そ、そうだこの前高天原に行きましたよ!何だかすごかったです!」 「すごかったって……語彙力がありませんねぇ」 「う、だって本当にすごかったんですもん…そこのお店で白澤さんへのプレゼントを見てたんですけど―……」 「プレゼント?アレに?」 「は、はい、お世話になってるから…」 なまえの話を遮るように放たれた言葉におずおずと頷く。 暫く鬼灯から発せられる重々しい空気が受話口から漏れだしたような沈黙が落ち、甘いときめきとは別の意味を持つ動悸に襲われる。 どくどくと嫌な心拍を刻む胸にごくりと喉を鳴らせば、ようやく鬼灯が声帯を動かした。同時に何か固い物質を砕き割る音と共に。 「そうですか…急ですが明日、いえ明後日に一度そちらに伺います」 「え?わ、わかりました……それよりさっきの音はどうしたんですか?」 「…ああ、ペンが潰れました」 「へっ?」 「もうインクもなかったのでちょうどよかったです」 「は、はぁ」 なまえの声に意識を集めながら、鬼灯はつい力を込めすぎた手によってひしゃげてしまったそれに目を移す。短い期間ではあったが十分な働きをしてくれた相棒を弔いながら、ちりちりと焦げ付く内心に彼は人知れず眉根を寄せた。 心をぐるりと重たく取り巻くこれは、先までのあたたかな想いをどろどろと呑み込むこの感情は、嫉妬というものだろうか。 なまえとの間に降り積もったいとしい想いの欠片を、強烈な力を持って黒く塗り変えていくそれに胸の辺りが締め付けられたような苦しさを覚える。 浅く呼吸を繰り返すと、憂心を秘めたなまえの声が鼓膜を揺らした。 「鬼灯さん?やっぱり何かあったんですか?」 「いいえ、気にしないで下さい」 「…気になります」 「なまえ?」 「あ…えっと、……大切な鬼灯さんのことだから、気にします」 ためらい躓きながら寄せられた言葉にまた胸がきゅっと締め付けられた。先ほどとはまた違う息苦しさに顔をしかめつつ、鬼灯はあまやかな熱にくるまれていくような感覚にゆっくりとまぶたを伏せる。 まるでなまえ以外の一切を遮断するようにおろされた覆いは、彼女との通話が途切れるまでほどけることはなかったのだった。 |