花盗人は何処 | ナノ




円形状のプールの中できらめくなめらかな肌を帯び、その身をしなやかにくねらせて泳ぐのは海豚だ。
トレーナーの指示通りに身を躍らせる彼らになまえの胸はわくわくと弾んだ。


「わ、今見ました?ジャンプしましたよ!」
「はいはい、見えていますよ」
「イルカの鳴き声ってかわいいですよね!」
「そうですねぇ」


無邪気に鬼灯のシャツの裾を握りしめ、海豚の一挙一動に指を差して喜ぶなまえを呆れ交じりに見守る鬼灯は優しくにじんだ瞳を彼女に向けていた。

海豚が跳ねあげた飛沫が太陽の日差しに透けてきらきらと輝き、水底にはすらっと引き締まった海豚の影が揺れ動く。
笛の合図と共に勢いよく水面から飛び出したそれらは吊り下げられた輪を綺麗にくぐってみせて、再び水の中へ身を投じた。その瞬間、重みではね除けられた水が狙いをつけたようになまえへと降り注ぐ。
しぶき雨のように全身へと叩きつけられる冷たい感覚にぎゅっと目を瞑った。


「わっ!」
「おや…見事になまえだけびしょ濡れですね」
「さ最前列じゃないのに…!」
「………」


しとどに濡れた髪の水分をタオルで拭き取っていくなまえを一瞥して小さく目を見張った鬼灯は、ひとつ息をついて腕に持っていた上着を肩に羽織らせてやる。
ふわりと柔らかくかけられたそれにまぶたをまたたかせて鬼灯を見上げると、あえてなまえを視界に入れないようにむっすりと前を見据える彼に首を傾げた。


「…?寒くないですよ?」
「痴女と思われていいのならそのままでも良いでしょうけど」
「へ?」
「透けていますよ」
「!!」


水をふくんだ服は身体の輪郭を浮き彫りにさせるようにぴたりと張り付いている。加えて白い布地が仇になり、余計に下着を際立たせてしまっていた。

かあっと湧き上がる熱が全身に巡り、恥じらうように俯いたなまえは彼の香りをふくんだ上着の前をかき合わせる。
周囲の人びとはイルカショーに夢中でこちらには気がついていないようだったが、何より鬼灯の目に留まったということが恥ずかしくて仕方ない。

とくん、とくん、と早鐘を打つ心臓がいやに五月蝿く耳の奥で響いた。


「ショーはもう終盤ですし、夏とはいえ濡れたままでは風邪を引きます。少し早いですが宿に向かいますか」
「は、はい……」
「…そう恥ずかしがらなくとも私しか見ていませんよ」
「それはそれで恥ずかしいんです…!」


ひとり頬を真っ赤に熟れさせているのが情けなくて、かけらも意識していない様子の鬼灯に少しばかり悔しくなって。色とりどりの感情が綯い交ぜになった心はぐるりとかき乱され、穴があったら入りたいとはこういうことを言うのだな、となまえは首をすくめた。



羞恥に煽られたままの心臓を抱えながら水族館を後にし、鬼灯に連れられて喧騒を抜ける。

彼に案内されてたどり着いた旅館には、都会から隔離されたような静けさが漂っていた。清潔感あふれるそこはあたたかみのある照明に照らされ、隅々まで気を配られているのがわかる。

なまえたちを迎え入れてくれた品のある女性は中居だろう。穏やかな笑みをたたえる彼女にいざなわれた部屋はい草のにおいのする和室で、上品にまとめられた室内は何だか清らかな空気が流れている気がした。

思わず微笑みをこぼしながらきょろきょろと室内を見回すなまえをよそに、眉をひそめた鬼灯は口を開く。


「すみません、二部屋予約しておいた筈なのですが」
「ま、まぁ!申し訳ございません、こちらの手違いでこのお部屋しかご用意させて頂いていないんです……他のお部屋もご予約で埋まっておりまして……」
「……じゃ、じゃあ私たち同じ部屋に泊まるんですか!?」
「…そのようですね」


慎みのある内装に気を取られていたなまえも、鬼灯たちの会話にはたと我に返り大きな目を一層丸くさせた。
布団はもう一組用意させますので、と深く頭を下げた女将は足早に部屋から出て行く。
一間しかないそこを改めて眺めて、なまえは脱力したようにその場に蹲った。


「今日は何だか疲れました……」
「妙ですね…」
「何がですか?」
「……いえ、気にしないでください。それより風呂にでも入って来たらどうですか」
「そ、そうですね」


刃のような鋭い視線を宙へと張り巡らせる鬼灯に首を傾げつつ、部屋に備え付けられた風呂場へと足を向ける。

まだぐっしょりと湿っているワンピースを持ち上げて、ふうとため息をついた。
今日は一日中鬼灯を気にしてしまい、変にどきどきしてひとりで焦って。とても疲れた、と疲労を吐き出すようにもう一度ため息をもらす。

重たい倦怠感ごとワンピースを脱ぎ去って、湯がなみなみと満たされた湯船に身を沈める。桧のにおいがほのかに香り、なめらかな温湯は疲れきった心身を優しくくるんであたためてくれた。とろとろとしたまどろみが寄せては返し、迫りくる眠気から抜け出そうとなまえはかぶりを振る。

鬼灯のことを心に映しても、かすかに心音が速まっただけで済んだことに何ともなしにほっと胸をなで下ろしながら、なまえは湯面から身体を持ち上げたのだった。





「あの、お風呂先に頂きました」
「ああ、おかえりなさい。…なまえ、まだ髪が濡れたままですよ」
「え、そうですか?」
「ここへ来なさい」
「はい…?」


座卓を挟んでぼうっとテレビを眺めていた鬼灯に声をかけると、彼はなまえをひと目見て眉間にきゅっとしわを刻んだ。
彼女の毛先から滴る雫を認めると、ちょいちょい、と指の先を折って自身の傍らへと手招きをする。
なまえの肩にかけられていた手ぬぐいをふわりと頭に被せた鬼灯は、髪に優しく指先を潜り込ませながら彼女のつややかな毛束から水分をぬぐい去っていく。

なまえを愛でるようなやわらかな仕草が何だか鬼灯らしくないように思えて、彼女はまばたきを増やした。


「鬼灯さん?」
「…なまえ、明日……」
「明日…?」


壊れものを扱うような力加減が拙く、他人の髪を乾かすことに慣れていないのかな、とあたたかな気持ちになっていると、ふと鬼灯が声をひそめて囁く。
彼と瞳をからめた途端に2人の間に凪いでいた安穏とした空気が霧散し、ぴんと張りつめた糸に縛り付けられたように視線が鬼灯から外せなくなった。

明日……その続きを待っていると、なまえからふいと目を逸らした鬼灯はおもむろにまぶたを伏せ、唇を割る。


「…いえ、やめましょう。さ、出来ましたよ。髪も満足に乾かせないとは手間のかかる愛犬です」
「……何だかんだ言ってお世話してくれる鬼灯さんは良いご主人様ですね!」
「おや、それは飼われても良いと取っても?」
「ち違います嫌味です…!」
「どちらかと言えば褒め言葉だと思うのですが」


口も頭もよく回る鬼灯に勝とうとしても無駄なあがきというものなのに、なまえは悔しげにむうと唇を尖らせる。

彼女のささいな言葉や行動ひとつひとつがいとおしく思えたのはいつのことだったか。
慈しむ心というものを誰かに寄せたことはなかったが、妙に面はゆくてぬくい感情が灯るこの感覚は悪いものではない。寧ろ心地よさすら覚えるのだから、鬼灯にとってなまえは不可思議な存在だった。


彼女がひとりで何か抱え込んでいるのを目にすると腹立ちすら感じるのは、ひとえになまえが大切だからだ。他人と共に過ごしてここまで心が揺れ動いたのは初めてのことだった。

ゆえに、月が沈まなければ良いのに、と願う。

天上からレースのようなもの柔らかい光をなびかせる月が地平線にかすんで消え、黎明を迎えたなら、明日になったなら。
なまえに悲しい思いをさせてしまうだろう。
それは出会ったばかりの頃、身を切られるような失意に嘆く彼女をまた見守らなくてはならないということだ。
否、今度は支えてやりたい。
恨まれても蔑まれても、どんな憎悪に満ちた科白を浴びせられてもなまえの心に寄り添って、離れたりなどしない。

そう固く誓い、いつの間にか鬼灯の胸に身を預けまぶたをゆるゆると落としにかかったなまえを見つめたのだった。


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