漆塗りに黄金色の椿が描かれたそれのつるりとした表面を指でなぞる。 彼女に差し入れられた弁当はほっこりと心がゆるむような優しさが詰め込まれていて、一口嚥下するたびに頬が緩んだ。どこか懐かしい味に胸がきゅっと締め付けられて、遠い情景を想起する。 懐かしくてあたたかくてたまらないのに、切ない音をあげる胸にそっと手を当てた。 「白澤様どうしたんスか?それなまえさんが持って来た重箱ですよね」 「うん、そうだよ。…似てないようで似てるんだから、参るよなぁ」 「へ?」 脳裏にふっとよぎったのは、朗らかな笑み。 白澤に向けてふんわりと和らいだ唇と胸の奥に響く明朗な笑い声につられるようにして笑むと、隣でその様子を眺めていた桃太郎が眉をひそめて口を開いた。 「アンタまさかなまえさんにまで手を出そうって言うんじゃ……鬼灯さんに殴られますよ」 「何だよそれ、なまえちゃんと親しくなるのにアイツの許可がいるわけ?…それとも遊びじゃなかったらいいのかな」 「は…?」 「本気ならさ、どうなんだろうと思って。………なーんてね!」 冗談めかした声音を舌に乗せながら、記憶に残る"彼女"の真似をして細めた眦。 白澤が過去を追慕する一方で彼の科白に虚を突かれたように固まっていた桃太郎は、軽薄な口調に戻った彼に眉をひそめた。 一瞬、すっと眇められた虹彩に宿った眼光が見たこともない色をはらんでいたように思えたのは思い違いだろうか。 仕事に戻るふりをして白澤の様子をうかがう桃太郎をよそに、彼はぽつりと呟く。 「アイツ、うまくやってんのかなぁ」 白澤は問いかけるような弟子の視線をかわしながら、自身のつま先を見つめる。本来なら今すぐに飛んで行って悲しみの最中に放り出されたなまえを抱きしめてやりたいけれど、生憎それは自分の役目ではない。 ふう、と物憂うようなため息をもらした彼は、"彼女"の忘れ形見を想ってまぶたを伏せたのだった。 * なまえの髪を梳くように吹き抜けていく風は、さわさわと葉のこすれる音を奏で小川のゆるやかな水面を撫で、また次の土地へと流れゆく。 遠くに響くのはつがいを探す蝉の声だ。 照りつけるような日差しを受け、生に縋りつくその慟哭はなまえの胸を静かに苛んだ。 ほんのひと月ほど前まではこの風景を見る度に心が華やいで仕方がなかったのに、今はそののどかな空気が、悠々と漂う穏和な時間が指先の体温を奪っていく。 「鬼灯さん、どうしてここに?」 「……」 「鬼灯さん……」 朝早く旅館を出立し長い道のりをたどってこの村に着いた時には、既に日は頭上高くに輝いていた。 重なりあう木々の隙間からこぼれ落ちる木漏れ日に目を細め、なまえの手をつなぎ止めるように握ったまま離さない鬼灯を見上げる。 以前はなまえが先導して歩んでいた道を彼に手を引かれて踏みしめていることが何だか不思議で、そしてたまらなく胸を騒がせた。 鬼灯といる時間くらいは笑って過ごしていたいのに、ぎゅうと痛いほどに握りしめられた手が不安を駆り立てた。 彼の顔に浮かぶのは白澤の元へ弁当を届けに行った帰りに見せた、何か思い詰めた表情。 いつもは安らぎを覚える彼の黒曜色の虹彩が何故だかなまえの心に影を落とす。 目に見えない不安がじわじわとなまえの中心を浸食して、たまらず鬼灯から視線を外せば、彼が不意に足を止める。 眼前に広がる其処はあのやさしい坂を上りきった場所にある空虚な空き地だった。 「ここが、どうかしたんですか?何か言ってください…」 「……なまえ」 「はい」 「今もまだ、帰りたいと思っていますか?」 「……どうしてそんなこと…」 帰る。 その言葉が指す場所はひとつしかない。なまえが元いた現世、祖母も両親も存在するあの世界。 ぽっかりと口を開けて待つ家は、なまえにうつろな冷たさを与えるだけ。両親の帰りを待ち草臥れて眠りについたことは数え切れないほどある。 唯一あたたかいぬくもりをくれる祖母はひとり山奥に穏棲している。なまえは彼処へ帰っても独りぼっちだった。 そんな場所に帰りたいか、と鬼灯は訊ねる。その答えを、その薄情な答えを言葉になど出来ない。 力なくうなだれたなまえを、鬼灯は静かに見守る。痛いほどの慈しみをたたえた眼差しをなまえに寄せて、自身をかき抱くようにして丸められた背を見つめた。 「私………私は…」 「それとも私の傍に、地獄に居たいですか」 「…っ」 両親はお互い自分のことで手いっぱい、なまえの方を向いてはくれない。なまえを顧みてはくれなかった。 それでも血の繋がった家族だから、彼らに縋って生きてきた。2人と、それから偶に会える祖母がなまえのすべてだったから。 けれど、今は違う。 鬼灯がいて、彼によって築かれた縁からなまえの胸には抱えきれないほどの優しさとあたたかい感情を貰った。 地獄という一風変わった黄泉の国で過ごすうちに、大切なひとたちがたくさん出来た。 選べる訳がない。どちらも、なまえにはかけがえのないひとたちだ。 ―選べる筈もないのだ。 寂れた空間を彷徨うその瞳はぐらぐらと揺れ動くなまえの心のうちを表しているようだった。彼女から片時も目を離すことなく見据えた鬼灯は、そっと言葉をつむぐ。 「なまえ、……貴女は元いた世界に帰ることは出来ません」 「……え?」 「白澤さんが、語ってくれた真実です」 ―「……ちょっと彼女のことで話があるんだけど」 そう呟いて歩調を落とした白澤に、鬼灯は怪訝そうな瞳を向けた。先を行くなまえはシロたちから話を聞いていたからか、桃太郎に対しては人見知りせずに言葉を交わしている。 それを見届けたのち、鬼灯と同じように彼女を見つめている白澤を一瞥した。 彼の瞳には慈愛が確かに見て取れたが、その苦しげに歪められた顔に小さく首を傾げる。思えば、なまえと初めて出会った時から白澤はこの表情を垣間見せていた。 あの脳天気な笑みを浮かべながらも、その端々であえかにのぞく色。かすかに唇を噛み、彼女の行く末を懸念するかのように眇められた目。 それはなまえを見ているようで全く別の、悠遠の地に居る"誰か"を想っている風にも見えた。 なまえを視界に捉えたまま大切なものを見守るように瞳を細めた白澤は、おもむろに口を開く。 「目元が似てるよ」 「……誰にですか」 「多分、彼女のおばあさん、かな」 「会ったことがあるんですか?」 「ああ、もう随分昔の…といっても50年前か。何だろう、もっと時間が経ってたような気がしたのに」 ぽつり、ぽつりと言葉を落としていく白澤はとこしえにも思える年月を越えた向こうにある彼女との時間を噛みしめるようにまぶたを伏せた。 彼女と出会い過ごした時間は1ヶ月にも満たないほどの短いものだった。もう数えるのも難しくなってきた星霜の中ではまたたきほどの一時。けれど白澤にとってそれはかけがえのない時間だった。 彼女と過ごす一瞬一瞬がまばゆく輝いて、優しいぬくもりに包まれる。それは今も温度をなくさず白澤の胸をじんわりとあたためた。 「友達だったんだ。大事な、ね」 「…色狂いにも異性の友人がいたんですね」 「うるさいな、彼女は僕の恩人だったんだよ」 「恩人?また天から落ちたんですか」 「その通りだけど何かオマエに指摘されると腹立つ……」 50年前のあの日、運命が廻り始めたあの日。 酒に酔い獣の姿でふらふらと空を遊泳していた白澤は、唐突に胸が焼け付くような不快感に襲われた。そのまま右も左も、天も地も認識することすら儘ならなくなり、ぐるぐると回る景色をただ眺めることしか出来なかったのだ。 そうして固い地面に抱き止められた白澤は、全身に駆け抜ける激痛と頭が割れるような痛みに数刻ほど意識を飛ばしてしまったらしい。 誰かのやわらかな体温が身体を揺さぶる感覚と、白澤に呼びかける柔和な声色が降りかかりゆっくりとまぶたを持ち上げた時、目の前にいた女性がなまえの祖母だったという。 「彼女に助けられて、手当てを受けている間彼女の家に置いてもらったよ」 「貴方ならすぐにでも桃源郷に帰って来られたでしょう」 「でも、何故か彼女の傍は居心地が良くってさ。すぐ手放しちゃうのも惜しいと思った。 …なまえちゃんの隣にいるオマエならわかるんじゃねぇの?」 「……それで、貴方はなまえの祖母の優しい性格に付け入ったということですか」 「言い方考えろよ!」 手放すのが惜しい。 その言葉を聞いて、鬼灯はなまえにわずかな罪悪感を覚える。そうして脳裏に次々と想起される彼女との記憶に思いを募らせた。 はじめは混乱を回避するため、それだけのために仕方なく彼女を助けた。担ぎ上げたなまえの重みはこれから背負わなくてはならない重荷だと思ったくらいだった。 次に芽生えたのは同情。冷たい現実を知り悲嘆し、希望の光すら見い出せないなまえについていてやらなくてはと思ったのは、確かに彼女を憐れんだからだ。 もしかしたらこの時にはすでに、あのやわらかな笑みに触れて愛着のような感情も生まれていたのかも知れない。 なまえとふれあう最中、心に灯した想いは数え切れないほどある。 そのどれもが胸の奥へ大切に抱えておきたいと願うほどあたたかいぬくもりに満たされたものだった。 終わりのある日々だとは知りつつも、なまえを手放したくないと、元の世界にも天上に浮かぶ金冠をかぶった月にも渡さずにしまいこんでおけたらいいと何度感じたことか。 その度に想いの根源が定かでない淀んだそれを呑み込み、鬼灯の中心に沈めてきた。 彼女にとっては邪魔にしかならない感情で、鬼灯にもなまえと穏やかに暮らす中では要らない心だったから。 必死に抑え込み、彼女から与えられる優しい感情に埋もらせてきたものをえぐり出されて、鬼灯は隣で軽やかに歩む天敵を突き刺すように射すくめた。 「な何だよ急に…」 「いえ、別に。それで彼女の祖母を騙して得た時間で関係を深めたということですか」 「人聞き悪いこと言うなよ!まぁその通りなんだけど…で、ここからが本題。 ………なまえちゃんはもう、元の世界には帰れない」 「……それは、」 「奇跡はそう何度も起きない。僕と、それから彼女が知った辛い現実だ」 なまえの祖母もあの山に足を踏み入れ、透き通るような池を見つけた。空がそっくり落ちてきたような薄縹色に染まった水、とろりと揺らめく滑らかな水面。 そして彼女もまた露を帯びた草に足を取られ、そこに身を投じてしまったのだ。 白澤がほんの少し目を離した間に、彼女は連れ去られてしまった。慌てて助けようと水中をのぞきこんだけれど彼女のぬばたまの髪も血色のいい肌色も、もうどこにも見当たらなかった。 「彼女、なまえちゃんと同じ境遇にあったんだ」 「…そうでしょうね、その方は元々此処の世界の現世に生きていた」 「そう、そこで彼女は池に落ちた。なまえちゃんと同じように、満月の日だったよ」 そしてなまえが元居た世界に訪れ、帰ることの出来ないまま余生を過ごすことになった。 彼女は幸せだったのだろう、誰かと愛し合った果てに孫が生まれたのだから。なまえを大層可愛がっていたことは彼女の祖母への想いでわかる。 それでも心のどこかに元の世界への未練があったのかも知れない。山の麓に居を構え、離れなかったのは本来居るべき場所に囚われていたからなのかもしれない。 なまえとの幸福な毎日を重ねても、白澤が居るこの世界に執着を持っていたのかもしれない。 しかしひと月経ち、春が散って夏が巡り、秋が降り積もって冬の雪が溶けても。 彼女は戻ってこなかった。 「何年経っても彼女は帰って来なかった」 「そしてなまえも、ということですか」 「そうだ。なまえちゃんが今この世界に来たんなら、50年に一度……いや、もう二度とチャンスは来ないかもしれない」 「……」 「きっと真実を伝えれば傷つけることになる。オマエと、それからなまえちゃんの覚悟が決まった時に話すんだ。直接オマエの口から」 浮薄な態度とは打って変わり、力強い光をその目に宿した白澤はすべてを知っていても尚なまえの心を守るために黙っていたのだ。 2人が白澤を頼って桃源郷を訪れたあの日、真相を打ち明けるのは簡単なことだった。酷な現実を口に出すのは易いこと。 けれどどうしても恩人の、友人の生きた証でもあるなまえを、彼女が形づくった愛の先に生まれ落ちたなまえを傷つけたくはなかった。 真実を明かしてしまえば、当時の彼女はその命さえ諦めてしまいそうだったから。 「今はもう、あの時とは違う。なまえちゃんにはオマエがいる。お香ちゃんや茄子君、彼女を想ってくれているひとがたくさんいる。だから耐えられるって、僕は信じてるんだ」 「……支えてみせますよ、必ず」 「ほんっとーに癪だけど、…任せた」 鬼灯に向き直った彼から託された科白にひとつ頷く。 年端もいかない少女が耐え切れないような重さのうつつにひとり唇を噛みしめていたあの頃とは違う。なまえには鬼灯が、地獄で帰りを待つ人々がいる。 積み上げてきた心温かな絆や信頼や、想いがなまえを助けてくれる。 独りではないのならこらえ切れるかも知れない現実。 否、彼女がくず折れそうになったら寄り添い支えてやろう。守り、時には共に苦しんで。 鬼灯が差し出せるものでなまえを留めておけるのならば何に代えてもやり遂げてみせる。 そう心と、何よりも大切な、やわらかにほころぶ彼女の笑みに誓ったのだった。 |