花盗人は何処 | ナノ




最近では着ることが少なくなった真白のワンピースを身にまとい、頭上に浮かぶまばゆい陽光に目を細める。

鬼灯と共に訪れた現世は相も変わらず賑々しい。数日間分の着替えやその他諸々が詰め込まれた荷物は、現世に降りたって早々ロッカーへ預けることになった。
どうやら鬼灯の頭の中では既に滞在中の予定が組み立てられていたようで、目的地に向かって往来の最中を進んでいく背中を見失わないようになまえも懸命に人の波をかき分ける。


「鬼灯さん、ちょっと待ってくださ、わわわ」
「…何流されてるんですか、これはリードが要りますね」
「リード……」


いつまで経っても犬扱いが抜けないことに若干の不満はあるけれど、彼の言動に気を取られている余裕はない。今も人混みに阻まれて随分と距離が開いてしまっているのだ、これ以上離れてしまえば迷子になること必至である。

しかし人はひとつのことに集中していると他事が疎かになるもので。前へ前へと進むことに専心していたなまえも例外ではなく、足元に敷かれた段差に意識が向くことはなかった。

灰色の隆起に足を掴まれて視界が揺れた時初めて躓いたのだと気がついたなまえは、大きくぐらつく身体を立て直すこともままならず、思わずぎゅっと目を瞑る。

暗がりが眼前を覆い、衝撃に耐えるために唇を噛みしめて数秒。なかなか訪れない痛みに首を傾けた瞬間、耳をゆるりとなぶる低い声に身体の芯がふるえた。


「…なまえは運動神経に難あり、ですね」
「鬼灯さん!」


ふう、と安堵したように吐き出された息が耳たぶを撫でるほどに近い彼との距離。
腹に回されたあたたかい腕は筋張っていてたくましく、背中に当たる厚みのある胸板の感触に鍛え上げられた鬼灯の肉体を知る。

とくん、と理由もわからず音を上げた心臓は急速に高鳴って、なまえの頬にじわじわと熱をためていく。
そんな彼女に怪我がないことを改めた鬼灯はそっとなまえの身体を放した。


「仕方ないですね、手を」
「えっ」
「何ですか?それとも本当にリードを着けますか」
「いえ、遠慮しておきます…!じゃ、じゃあよろしくお願いします……」


差し出された手におずおずと自身のそれを重ねる。なまえの手など簡単に包み込んでしまう鬼灯の手のひらはふた回り程大きく、節くれ立っていてあたたかった。

自分とは違い無骨な感触、男の人の手。
触れた肌からなまえの体温と溶け合い、ゆっくりと混ざり合う感覚がひどく心地よい。それはくすぐったくてたまらないけれどいつまでも触れていたいような、不思議な気持ちにさせるものだった。

感じたことのない初めての感情に心はふわふわと浮ついたように落ち着かなくて、喉元へ込み上げる気恥ずかしさに何だか転げ回りたくなってしまう。

夕暮れの朱をこぼしたように紅潮した頬を携え、なまえはこそばゆい胸の奥に耐えきれなくなって口を開いた。


「あの!どこに行くんですか?」
「ああ、動物園も良いと思ったんですが、この季節ですし水族館にでも行こうかと」
「…水族館……鬼灯さんって動物が好きなんですね」
「ええ、まあ」
「私も好きですよ!あのもふもふした毛並みとか」


何かを誤魔化そうとするようにぺらぺらと話し始めたなまえは、何故だか耳まで赤らめている。

澱みなく滑る口とは裏腹に、その動作はまるで歯車の噛み合わないからくりのようにぎこちない。
それに加え、手の中で居心地が悪そうに縮こまっているやわらかい手のひらはどこか熱を帯びている。以前掴んだ手首より幾らか火照ったそれが心に引っかかった。
もしや熱でもあるのでは、と懸念が湧き上がって、お喋りに集中しているなまえの横顔を見下ろす。


こうして見るとやけに血色が好い。
頬はまどかに弧を描きそこを染める桜色は彼女の目元までを侵して、その白い肌に映えるような紅唇は艶をはらみたおやかに動く。

彼女の造形を観察することに時間を費やしたためか、彼女の口元から瞳へと視線をうつすと、なまえはいつの間にかかすかに濡れた眼差しを鬼灯へと寄せていた。
甘さをにじませた瞳に胸がざわつく。胸の奥底に映る想いの色に目を瞑り、なまえへと意識を向ける。


「わ私の顔に何かついてますか?」
「いいえ、……すみません。なまえの手が熱いので体調でも悪いのかと思いまして」
「えっ!?これはその…ほら今日暑いですし!」
「それもそうですね、早く行きましょうか」


互いの胸によぎるむずむずとしたあたたかい感覚に浸ったまま、2人は沈黙を落としながら歩みを進める。

くすぐったい気まずさを抱えつつバスに揺られ日差しが照りつける道を歩き、ようやく到着した水族館。
ちょうどお盆だからか大盛況に見舞われているそこは家族連れや恋人たちで賑わっている。


「わあ、見てくださいよたくさん人がいます!」
「ええ、迷子になどならないでくださいよ」
「なりませんって!……手も、繋いでくれてますし…」
「……」


思えば鬼灯とじゃれるような戯れもなくこうして手を握りあって歩く、ということは初めてだ。
芽吹いた緊張はどこか心良いものだったけれどやはり手をくるむ体温には落ち着かず、きょろきょろと周囲に視線を巡らせると、真っ先に仲睦まじく指をからめあう恋人が目に入り意味もなく顔を背けてしまう。

そういえば、手を繋ぎ合うなまえたちは周りからどんな関係に見られているのだろうか。
ふとそんな疑問が胸に浮かんだ。
兄妹だろうか、……それとも甘やかな恋心を注ぎあう恋人、だろうか。

それとなく頭を横切った考えにひとり頬に熱をためてぶんぶんと首を横に振ると、訝しげになまえを見下ろした鬼灯が小さく首を傾げた。
いつもの幼さを残した仕草さえなまえの胸をきゅうっと締め付けてくるのだから、今日は何だかおかしい。


「どうしたのですか、急に頭など振って…やはり熱があるんじゃないですか?」
「ないです、大丈夫です!ちょっとよこしまな考えが……」
「は?」
「い、いえ!さあ水族館を楽しみましょう!」


焦りをはぐらかすように目の前に広がる水槽に目を向けると、淡い照明が裾をなびかせてたゆたう水中に銀色の鱗を身にまとった魚たちが優雅に泳いでいる。
それを見つめるなまえの虹彩もコバルトブルーに染め上げられ、儚く揺らいだ。


実のところなまえは水族館に来たことがない。否、水族館に限らず大衆向けのレジャー施設には訪れたことがなかった。
両親は滅多に休みを取らず、疲れ果てた彼らを見てしまったら心身共に削られるような人混みの中に出かけたいなどとは、間違っても口には出来なかったからだ。

ゆっくりと憩いたいだろうと気を遣って、彼らの偶の休日には家でくつろいだ。それでもなまえは幸せだったけれど、やはり心のどこかで年相応にはしゃいでみたいという思いもあったのかも知れない。

誰かのぬくもりに寄り添って、1日を過ごしてみたい何て願いもあったのかも知れない。
鬼灯の隣で満たされていく心を内に秘めながら、そう感じた。


「わあ、海月がたくさん…!」
「これは綺麗ですね」
「はい!……」
「なまえ?」
「私………海月に似てるのかも知れません」


展示された様々な海洋生物を眺めていると、一際大きな水槽に詰められた海月たちに目が止まる。ふわり、ふわりと水中に降り注ぐ牡丹雪のようなそれを遠巻きに見つめ、なまえがぽつりと囁いた。

両親に言いたいことも言うべきことも喉元でこらえたまま、彼らがつくる流れに従って生きてきた。自分自身の意志を胸の内に留めて、ここまで漂うように呼吸を繰り返しただけ。
それがどこか海月に似ていると、漠然と感じたのだった。


「潮の流れに逆らわずにふわふわ流されるところとか、そっくりで」
「……昔のことは知りません。ですが少なくともなまえは自分の意志で地獄に居る」
「………」
「私の隣に居ることは、貴女が自分で選び取ったことなのです。ただ流された訳ではありません」


そして選択し掬い取った其処で、懸命に努力して居場所を見つけたのもなまえ自身だ。

この十数日間ですっかり耳慣れた声音が、言葉をつむぐ。
なまえにとってゆるやかに差し込む光明のような音の羅列を与えてくれる。
このひとは何度自分を助けてくれるのだろう、となまえはかすかに伏せた睫毛をふるわせた。
力を込められた手をぎゅう、と握り返して、息を吐き出す。


「そうですね。私…鬼灯さんの隣にいられることを誇りに思います」


若葉が萌えたつようにほころんでいく彼女の表情を見やり、鬼灯の心もやわらかにほどけていく。
かじかむように萎縮していたなまえの手のひらはいつの間にか鬼灯のぬくもりに溶かされ、ゆるんでいた。
鬼灯は彼女の手をもう一度大切そうに包み込み直すと、2人は再び紺瑠璃色の世界へと沈んでいったのだった。


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