花盗人は何処 | ナノ




「盂蘭盆?」
「うん、なまえもやっぱり実家帰るの?」
「実家………」
「俺たちは久しぶりに帰省しようと思ってるんだけどさ、実家に帰るとだらけちゃって休み明けが怖いんだよなぁ」


今日裁かれる亡者たちの人生が詰まった記録書を腕に抱え、裁判所へと向かう道すがら、茄子にぽやんとした瞳で問いかけられる。どうやら獄卒には盆休みがあるらしく、彼らは久方ぶりに実家への帰路につくらしい。

なまえはどうするの、とやわらかく訊ねられ、言葉に詰まった。なまえには2人のように家族があたたかく迎え入れてくれる"帰る"べきところはない。此処にも何処にも、なまえが家と呼べる場所はないのだから。
といってもあちらの世界でも、なまえを迎えてくれるのはいつだって冷たい暗がりだったけれど。

彼らに嘯く時いつもするように曖昧な笑みを浮かべ、どうしようかな、なんて口にしてみる。
どうするも何も、きっとなまえは閻魔寮の借り部屋で本の世界に浸りながら過ごすのだ。祖母の元にでも預けられない限り、そうやって休暇を消費してきた。

薄っぺらい紙のような笑みを象るなまえを見やり、茄子は首を傾げた。彼が小さく割った唇から言葉が飛び出す前にと、なまえは急いたように声をあげる。


「鬼灯さん、記録課からの資料です」
「ああ、そこに置いといてください」
「ねぇ鬼灯様、鬼灯様もさすがに盂蘭盆の期間は休みますよね?」
「そうですね、ここのところ順調に仕事も片付いていますし……どこかの使えない上司がミスでもしない限り今年はゆっくり出来そうです」
「だ、大丈夫だよ、ミスなんてしないしない」


鋭く研がれた眼差しに貫かれ、閻魔は慌ててだらりと弛緩させていた背筋を伸ばす。いつもより鬼気迫る表情を向けられたような気がするのは思い違いだろうか。
さっと青ざめた顔でおそるおそる部下をうかがう閻魔は上司としての立つ瀬がないほどの情けなさだ。

普段の他愛ないやりとりが飛び交う光景に何だかひどく安堵して、ゆるく息をついたなまえに、ふと鬼灯が口を開く。


「なまえはどうするんですか?予定がないのなら、私に着いて来ますか」
「え?い、いいんですか?」
「ええ、なまえさえよければどうぞ」


ごく自然に寄せられた誘い文句は、気を使ったというより理由もなくただ視界になまえを捉えたから口に出したように思えた。
それも彼なりの優しさに包まれた科白なのだろう、ささくれ立ってさえいた心中がなだらかにゆるんでいくのを感じる。


「良かったねなまえ!」
「……うんっ」


茄子はなまえの胸があたたかくほころんだことがまるで自分の身に降りかかったように喜びを露わにした。
彼はなまえの様子がおかしいことを敏感に察していたようだ。やんわりと垂れた眦を細めた彼に手を取られ、楽しげに揺らされる。

手のひらをつつむぬくもりと鬼灯からのやわらかい眼差しを受け、なまえは花開くような笑みをこぼした。

そんな彼らを穏やかに見守りながら、心の隅ではいささか冷徹が過ぎる部下への小さな報復を人知れずくすぶらせている閻魔には誰一人として目を向けることはなかったのだった。





「なまえ、荷物はまとめましたか」
「はい、2、3日分のですよね。どこに出かけるんですか?」
「現世ですよ、たまに休みを貰うと行くんです」
「現世…………」


なまえの私室まで迎えに来てくれた鬼灯に抱えていた荷物をひょいと掻っ攫われ、止める間もなく先行く彼を慌てて追う。

現世と聞いて思い起こすのは、胸が切り刻まれたのかと思うほどの悲痛。失意の底に見た悲哀と、深い焦燥。
思考を奪うような衝撃と、まっさらになった空き地を前に足の感覚すら無くして立ち尽くした思い出がなまえを揺さぶり、隣で足を進める鬼灯をちらりと見上げた。


「何故、とでも問いたげな顔ですね」
「……」
「なまえ、貴女この世界の現世をまだ受け入れられてないでしょう」
「え……どうして、」
「こう見えても貴女のことはよく見ているんですよ。例えば現世のテレビ番組は視界にすら映さないよう避けていますし、部屋にある現世に関する本は開封もされていません」
「あ…」


はっと気がついたように鬼灯を見つめるなまえに、彼はひそめていた眉をゆるめる。
この人はなまえが思うよりずっと、なまえ自身のことを大切に想ってくれているのかも知れない。
何ともなしにそう感じた。

勘付かれないように、誰かが余計な憂慮に心を砕かないように、ひっそりと隠していた現世への想い。
悲しみ、焦り、例えようのない苦痛。あの騒々しい街並みや天上に広がるどこかくすんだ青を見る度に重苦しい感情が心にぐるりと渦巻くものだから、それに関するものを目にするだけで鉛を飲み込んだようにずんと胸が苦しくなるものだから。現状から必死に目を背けていた。

こらえきれずに心にうまれた歪みを表に出してしまえばきっと誰かが気がつく。
迷惑を、心配を、面倒をかけてしまう。
そう思ってひとりきりで抱えてきた痛みも、鬼灯にはとっくに暴かれてしまっていたようだ。


弱ったような笑みを形づくったなまえの頭を、ゆるりと撫でるあたたかい手のひら。凍えかけていた心がじわじわと溶け出すようにそこからぬくもりが広がっていく。


「私は、上書きがしたいんです」
「え?」
「なまえが現世に対して持ってしまった様々な感情に、上書きがしたいんですよ。この休暇が少しでも楽しいものになれば、現世を思い出す度に芽生える感情も違ってくるでしょう」
「……そうですね、楽しいものになればいいです」


きらきらと輝く宝物に等しい思い出を新たに築けたら、あの苦いだけの記憶を鬼灯との思い出で塗りかえられたらどんなにいいだろう。

もしかしたら、目を瞑り続けてきたうつつに向き合えるようにもなるかも知れない。あと半月ほどでここを離れなければならないという事実。それをきちんと見つめ直して、逃げ続けてきた現実に真向かう契機となるかも知れない。

なまえにとっての転機が訪れる予感がして、わずかな不安と期待が交じりあう。
立ち込める暗雲が心を苛んでも、それでも独りではないから耐えられる。
何も言わずに隣にいてくれるひとがいるから、力が湧いてくるのだ。

ひそかに持ち上げた視線をそっと鬼灯に寄せる。相も変わらないへの字に曲げられた唇と怜悧な瞳に確かな安らぎを覚え、なまえは彼に倣ってまっすぐ前を見据えたのだった。




密やかな決意を胸になまえたちが現世へと降りたった時分、浄玻璃の鏡に現世の様子を投影し、閻魔はひとり台座に腰を落ち着けていた。
彼は真摯な瞳を手元に落としている。
丸く穏やかな目にきりりと力を込め、筆を手にした閻魔に、その場に偶々居合わせたお香は首を傾げた。


「アラ大王、何をしてらっしゃるの?」
「…うん、ちょっとあの2人を一押ししてあげようと思って」


彼が真剣な表情を向ける小さな紙切れは、縁結びの効果があるという札だった。
現世の男女のめぐり合わせを助けるものだと思ったが、それをなまえと鬼灯に試すつもりだろうか。


「まぁ……縁結びをあの2人に?」
「そうだよ、押し付けられた物だけどこんなところで役に立つとは」
「またどうして…」
「あの仏頂面がどう緩むのか見たくなったんだよ。これでちょっとは丸くなってくれないかなぁ」


縁結びの神だってあの2人の事情を知れば奮って力を貸してくれる、と思案しつつ筆を進める。

墨色ににじんだ彼女たちの名前を満足そうに眺める閻魔を一瞥し、お香は困ったように頬に手を当てた。
なまえはさておき、相手はあの鬼灯だ。
そうそう上手くいくかしら、と彼女は懸念をはらんだ眼差しで、鏡の中に映し出された肩を連ねて歩む2人を見守ったのだった。


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