花盗人は何処 | ナノ




穏やかな風がそよぐ。さわさわと語り合う葉や足元でふわりと揺れる柔らかな草に瞳を巡らせる。
温和な空気がたゆたうその場所に自然と顔がほころんでいった。

鬼灯は、ゆっくりと咲きこぼれる花のような笑みをたたえたなまえを見下ろしじんわりとぬくくなっていく胸元を感じながら口を開く。


「そういえばまだ桃太郎さんを紹介してませんでしたね」
「桃太郎さん…?ということはシロくんたちの…」
「あ、シロたちを知ってるんスね。白澤様の部下として働かせてもらってる桃太郎といいます」
「なまえです、よろしくお願いします」


新しく出来たけものの友人たちから話を聞いていたからか、初対面の人間に垣間見せる臆病な部分を表に出すことなく桃太郎と談笑を始めたなまえを鬼灯は優しく見守る。

白澤は鬼神には似つかわしくない優しさをはらんだ虹彩を一瞥し、次いで淡い笑みを咲かせるなまえの横顔を見やる。
そうして2人を心に留めるように1度目を伏せた彼は、風に吹かれて消えてしまうほどのかすかな囁きをこぼした。


「なまえちゃんのよすがになれるのは僕じゃない、か」
「何か言いましたか」
「べつにー。……なぁ、ちょっと彼女のことで話があるんだけど」


慈愛に満ちた眼差しを前を行くなまえに寄せたまま、白澤は言葉も交わしたくないだろう天敵に口を開く。
心を嫌悪に染めながら、それでも彼女に向ける瞳には思い遣りと親愛をにじませ、彼は緩やかな足取りに合わせて揺れる華奢な背中や流れるような絹髪を見つめたのだった。





「ここら一帯は仙桃農園で、俺がいろいろと世話してるんです」
「仙桃、ですか?」
「知りませんか?桃源郷の名物なんスよ」
「へぇ…おいしそうですね!」


普通の桃とは違うのだろうかと首を傾げたなまえは風に揺られてさらさらとささめく葉に笑みを浮かべる。辺り一面に浮遊するあたたかい空気を胸いっぱいに吸い込む、そんな小さなことで心がふわりと浮き立った。

やわくほどけたその表情は、ささいな出来事に幸福を感じる平凡な少女のそれだ。つられて微笑みを浮かべた桃太郎は素朴な疑問を口にした。


「そういえばなまえさんっていつから鬼灯さんの部下なんスか?以前閻魔殿に行った時にはいなかったと思うんですけど」
「え、と…半月ほど前からです」
「は半月?へぇ……凄いっスね…」
「え?何がですか?あっ、部下といってもインターンみたいなもので!………鬼灯さんには小間使いだとか言われてますけど……ですから凄くなんてないですよ!」


ぱたぱたと手を振って否定するなまえは、彼女が半月で第一補佐官直属の部下になったことを感嘆されたのだと思ったようだ。
本意はそこではなく、鬼灯と心を許しあっているように見えた仲がほんの半月足らずで深められたものだということだったのだが。

恐縮して身を縮めるなまえは気恥ずかしそうに頬を赤らめていて、どこか庇護欲にかられるような彼女の雰囲気に絆されかけてしまう。
彼女を見ていると鬼灯が心を傾けるのも納得してしまい、冷徹無慈悲とはいえ彼もただの男なんだなぁ、などとしんみりと感じ入ってしまって慌てて周囲を見回した。

妙に勘のいい補佐官に悟られやしないかと懸念したのだが、どうやら杞憂に終わったようだ。気がつくどころか彼の姿かたちも見えないことを認め、ほっと息をつく。


「あの2人どこ行ったんだ…?」
「そういえば鬼灯さんたち姿が見えませんね……」
「…なまえさんを置いて帰ることはないだろうし、気にすることはないと思いますけど……あ、こっちに養老の滝ってのがありますよ」
「滝ですか?」
「はい、酒で出来てるんスけどね」
「お酒で!?わぁ、まさに桃源郷って感じですね…」


桃太郎には取るに足らない風景でも彼女にとってはひとつひとつが鮮やかに映るのか、ぱっと目を輝かせるなまえ。もしも彼女に尻尾が生えていたら千切れんばかりに振っていることだろう。

くだらない想像をして人知れず微笑をもらすと、桃太郎は酒のかおりが強くなってきた空気にふと思い至る。
見たところ成人しているようには見えないが、なまえはいくつなのだろうか。
見目は実年齢の参考にならないことを愚鈍な上司を通して痛いほど学んでいる桃太郎は、そっと彼女を盗み見た。

ふっくらとした頬はまだあどけなさを残しているが、艶のある淡紅の唇は女性のそれだ。

きらめく木漏れ日をやわらかく受け止める瞳や白い肌を暫しの間引き込まれるように観察していると、さすがに桃太郎の視線に気がついたのか目元を桜色に染めたなまえはまぶたを伏せながら口を開いた。


「な、何ですか?」
「あっすみません!養老の滝に行くんならある程度酒に強くないと辛いんじゃないかと…」
「そういうことだったんですね……祖母はお酒に強い方でしたから多分平気だと思いますよ?」
「なならよかったです」


無難なやり取りを交わしながら桃太郎は再び安堵の息を吐いた。
思わずあのなまえに寄せる慈しみの交じった瞳を想起し、ぶるりと身を震わせる。
この場に鬼灯がいたなら桃太郎の不埒な視線に金棒が飛んできたところだろう。彼がいなくて本当に良かった、と冷や汗のにじんだ額をぬぐう。

しかし彼は白澤と共にいるのだろうか、珍しいこともあるものだ。槍でも降らないかと雲ひとつない卯の花色の空を見上げつつ、桃太郎は金と女にずぼらな上司に感謝したのだった。


「さ、着きましたよ」
「お酒のにおいがすごいですね……」
「ここから叫喚地獄に酒をレンタルしてるんですよ」
「えっ!?禁酒する地獄じゃないんですか?」
「ひと騒動あって、最近変更されたんです」


どうやらなまえの手元にある資料が発刊された後に制度が変わったようだ。
その騒動に桃太郎もからんでいたのか、彼は口元をひきつらせている。

彼の目線の先にある滝からはむせ返るようなアルコールのにおいが漂い、なまえの鼻を刺激した。ざあざあと永久に流れ落ちるそのしぶきを雨のように全身へと受けながら、なまえは姿の見えない鬼灯を想い、周囲を見渡す。


「どうしたんスか?」
「鬼灯さんたちはどこに行ったんでしょうね…」
「そうですね、そろそろ戻りましょう。店で待てばそのうち帰ってきますよ」


桃太郎は主人を求める犬のようにきょろきょろと視線を廻らせる彼女を確認すると、踵を返した。
心から鬼灯を慕っているらしい彼女を微笑ましく思いながら、桃太郎はなまえを引き連れて麗らかな日差しを浴び来た道をたどったのだった。




足元で口いっぱいに若草を頬張り、もぐもぐと食むその様子が愛らしく、見ているだけで胸がほっこりと和む。なまえの手から大好物のそれを直接食べる兎たちのふんわりとした真綿のような毛が時折肌に触れて、少しくすぐったい。
思わずくすくすと笑みをこぼしてしまうと、なまえの背中に朗らかな声が降りかかった。


「なまえちゃん、楽しそうだね」
「あ、白澤さん!おかえりなさい」
「………」
「?」
「……なまえちゃん、本当にここに住まない?今何かすっごく癒された」
「え、」
「女の子におかえりって言ってもらえるのは良いもんだねぇ」


にこにこと破顔する白澤があまりにも嬉しそうなものだから、なまえも戸惑いつつ小さな笑みをのぞかせる。
きゅっと細めた眦やもの柔らかに弧を描く口元は気の優しい彼の性格を表しているようだ。
白澤を見上げていると、不意に握られた手首。

そのぬくもりにまぶたをまたたかせれば、顔を見合わせて笑顔を咲かせる2人の間を裂くようにしてなまえの手をさらったのは鬼灯だった。
白澤よりいささか遅れて戻った彼に、なまえはゆるやかな微笑みを寄せる。


「鬼灯さんもおかえりなさい!」
「……ええ。桃源郷はどうでしたか」
「…?はい、とっても綺麗なところで楽しかったです」


掴まれた手首からするりと肌の上を移動した鬼灯の体温は、そのままなまえの手のひらを包み込んだ。
大切なものに触れるようにやんわりとくるまれた手へ、緩やかに力が込められていく。

眉間に刻まれたしわとへの字に結ばれた唇。いつもと何ひとつ変わらない彼の表情なのに、その濡れた瞳は何かの感情にくすんで曇っていた。
どこか様子のおかしい鬼灯に心配そうに眉を下げたなまえへちらりと目をやった白澤は、緩く首を傾げて口を開いた。


「もう昼の休憩時間とっくに過ぎてるんじゃない?戻らなくていいの?」
「あ!そうでした…!鬼灯さん」
「そうですね、戻りましょうか」
「なまえちゃんお弁当ありがとね!」


にこやかな笑顔で見送る白澤に頭を下げて、なまえの手を引く鬼灯に慌てて着いていく。
まるでなまえを自身に結わえつけるように重ねられた体温。触れ合ったそこがじわじわと熱っぽくなっていった。
しかし頬にまで芽吹く火照りよりもとくとくと跳ねる心臓よりも、様子のおかしい鬼灯に何かあったのではとそればかり気になってしまう。

脇目も振らずに前を行ってしまう彼に、なまえはわずかに弾んだ息を繰り返しながら彼の背を見つめた。


「ほ、鬼灯さん!どうしたんですか?大丈夫ですか…?」
「……ええ、すみません。少し考えごとをしていました」
「何かあったのなら言ってくださいね、力になれることがあれば何でも協力します」


鬼灯から返答があったことに胸を撫で下ろしながら、ぎゅっと拳を握る。なまえよりもよほど上手な鬼灯のために出来ることなど多くはないけれど、どんな小さなことでも力になりたかった。

気合いを入れるように眦に力を込めたなまえを肩越しに振り返った鬼灯は、険しく歪めていた顔をあえかにやわらげる。
そのまま足を止めると、そっと言葉をつむいだ。


「なまえは、私が好きですか」
「…………はい!?」
「大王やお香さん、唐瓜さんや茄子さん……地獄が好きですか?」
「………もちろんですよ。鬼灯さんが、皆がいてくれるから今の私があるんです」


思わぬ問いにどきりと心音が大きくなったのを感じてひとり焦っていると、至極真剣な眼差しを注ぐ鬼灯に次いで訊ねられた。
地獄が好きか。
答えは決まっているようなものなのに、態々質問を積み上げていく鬼灯にかすかに首を傾げながらも深く頷く。そんななまえに鬼灯はやわく細めた瞳を向けて、安堵の交じった音を震わせた。


「そうですか」


一言そう呟き、いくらか落ち着いた面差しを見せた鬼灯はなまえと肩を並べてゆっくりと歩み出す。
繋ぎ合った手のひらは生まれた熱を抱えたまま、2人の間で優しく揺れていた。


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