ほんの昨日からのことだけれど、少しだけ丁も甘えてくれるようになった。以前までは遠慮して言ってくれなかったわがままも口にしてくれるようになったのだ。 それはとても嬉しい変化なのだが、偶に無理なお願いをしてなまえの困る顔を楽しんでいるように思えるのは気のせいだと信じたい。 「ただいまー」 「おかえりなさい…って、その脚どうしたんですか?」 「うん、さっき階段で転んじゃった」 ずきずきと痛む膝を携えながら家に帰ると、なまえの声を聞いて玄関まで迎えに来てくれた丁が軽く目を見張る。 脚に赤い道をつくるそれをたどれば膝小僧に出来た擦りむいたような痕が目に入り、丁は眉をひそめた。 部屋に帰れば丁が待っていてくれると思ったらつい浮ついてしまって、足元に注意を払うことを忘れていたのだ。なまえはすぐ転ぶから気をつけろと忠告してくれた友人の声が頭の中でこだまする。 みっともないところを見せちゃった、と誤魔化すように笑えば安堵したのか呆れたのか、丁ははあ、とため息をついてなまえを見上げた。 「また慌ててかけのぼったのでしょう、私より随分年上のくせに…もう少しおちついたらどうですか?」 「返す言葉もございません……」 小さな手を腰に当ててなまえを叱りつける丁にしゅんと顔を俯かせた。 これでは本当にどちらが年上かわからない。ここでまたお母さんみたい、と言ったなら更に怒られてしまうのは目に見えているから、その台詞は胸に秘めておくことにする。 すると、血の滲む膝を目をやってもう一度息をついた丁が踵を返した。 「丁くん?」 「なまえさんは患部を水で流してください。救急箱とってきます」 「あ、ありがとう」 反省している体を装って身を縮めつつ洗面所に向かうけれど、居間へと消えていく小さな背中に心はふわりと浮かぶようだった。 ささいなことから丁がなまえを想ってくれていることがわかって、あたたかいものが胸の辺りに広がる。 丁との取るに足らない小さな出来事が、なまえの幸せに繋がるのだ。丁にとっても同じだったらいいな、と考えて顔をほころばせた。 水を傷口にあてながらだらしなく頬を緩めていると、すぐに薬箱を抱えて戻ってきた彼に呆れられたように目を細められてしまった。 まるでなまえの心内を見透かしたような眼差しに、思わず照れ笑いをもらす。 「怪我をしたことがそんなにうれしいんですか?」 「なんかその言い方だと私がMみたい…」 「えむ?」 「う、ううん何でもないよ!丁くんにはまだ早いよ、うん」 わずかばかり世間ずれしているであろう特殊な性癖を丁が知るにはまだ早い。何か言いたげな視線から逃げるように目を逸らすと、丁はそれ以上何も言わずになまえの手当てをするべく救急箱の中身を広げ始めた。 消毒液やガーゼなどが取り出されるのを見て、染みるだろうなぁと痛みを想像して顔を歪めれば丁にじっと見つめられていることに気がつく。 その黒曜色の瞳はなまえの表情に惹きつけられているかのようにかすかに揺れていた。 「どうしたの?」 「……いえ、なんでもないです。これを当てればよいのですよね」 「うん。でも手当てしてもらっていいの?自分で出来るよ?」 「だまって大人しくしていてください」 申し出をぴしゃりとはねつけられて大人しく膝を差し出すと、丁は具合を見るように患部をのぞきこんでいた。すりむけてしまっているそこは少しばかり抉れていて、幼い子供に見せるには少々酷なものだ。 眉ひとつ動かすことなくそこから目を離さない丁にどうしたのだろうと首を傾げる。 しばらくなまえの膝を眺めていた丁は何を思ったのか、徐にその小さな指先でつん、と痛々しい傷口をつついた。 「いたっ!?ど、どうしたの丁くん!?」 「あ…すみません、つい」 手加減はしてくれたようだったけれど、敏感になっているそこには空気が触れるだけでぴりぴりとした痛みが走るのだ。つつかれようものなら相当な痛みが全身を駆け抜ける。 じんわりと目に涙をためながら丁を見つめると、普段は冷徹で決して揺らぐことのない瞳にゆるりとした一筋の光を見つけてまぶたをまたたかせる。 何か、丁の表情がとても生き生きとしていたような気がするのは思い違いだろうか。 そういえば、と思考を巡らせる。 彼はなまえの困った顔を見るのが気に入っていたようだったし、今は痛みをこらえる表情に魅せられているようだった。 ふっと一抹の不安が頭を擡げる。まさかとは思いながらガーゼに消毒液を染み込ませている丁を見下ろした。 「丁くん、人をいじめるの好きなんじゃ…」 「はい?何ですか人聞きのわるい」 「だって……ううん、違うのならいいんだ」 「では消毒しますよ」 「うん」 変なことを聞いてしまった、と反省しながらなまえの前にひざまずく丁がガーゼを持ち上げるのを目にして、気合いを入れるように深呼吸をする。なまえの心の準備が整うのを待っていてくれたのか、丁はそっと視線で合図をくれた。 それにこくんと頷くと、凶器ともいえるそれを容赦なく傷口に押し当てられる。 「ううういたい…」 「我慢してください」 「が、がんばる、けど…」 「……」 土足で上り下りする階段で転んだから雑菌が入り込んでしまったのだろう、消毒液が痛覚をひどく刺激する。ナイフか何かで皮膚の表面を削がれているようだ。 思わずあげてしまいそうになる声を噛み殺そうと手のひらで口を覆い、水の幕でぼんやりと輪郭をなくしていく視界を瞬きで明瞭にする。こらえきれずにぽろりと涙が頬を伝うと、傷口を押さえながらぼうっとこちらを見上げる丁と瞳がからんだ。 「…あの、丁くん?」 「………ああ、すみませんぼーっとしてました」 「う、うん。消毒はもういいんじゃないかな」 「はい」 ひどく名残惜しそうな眼差しをなまえに…正しくはなまえの膝に注ぎながら手を離した丁にほっと胸を撫で下ろす。 手際良く救急道具を片付けていく丁を尻目に、ひとつ頷いた。彼についてわかったことがひとつある。 それは幼いながらにして丁がSだということだ。 思わぬ片鱗を垣間見て動揺を隠せないなまえはふるえる手で丁の肩を掴んだ。 「丁くんがどんな道をたどっても…私は受け入れるよ!」 「は?急に何です?脚だけでなく頭もぶつけたんですか?…ああ、元からでしたっけ」 「心が折れなければ…ね…」 冷えた瞳にざくざくと心を突き刺されてうな垂れたなまえを、丁は不思議そうに見やる。彼は一瞬逡巡して、なまえの膝に丁寧に包帯を巻きつける手は止めずにぽつりと呟いた。 「でも先ほどのなまえさんの表情、私はすきです」 「前半部分がなければすっごく嬉しかったのにな…!」 顔を両手で覆いながらしくしくと泣き始めるなまえを一瞥し、丁は淡く胸を高鳴らせるぞくぞくとした感覚にあどけなく首を傾げたのだった。 |