うたかたの、 | ナノ




「行ってくるね、すぐ帰るから」
「はい、いってらっしゃい」


玄関で小さく手を振る丁を不安の残る表情で一瞥すると、何かを振り切るように出ていってしまったなまえを見送る。

途端にしん、と耳に痛い沈黙が丁を包む。ささいな音すらのみ込んでしまう雪の夜を思わせる静寂に、彼女がいないだけでこんなにも違うものなのかと足を冷やす床に目を落とす。
これまで大概の時間を独りで過ごしてきたからひとりで居ることにはなれたものだと思っていた。だがその静けさにこの部屋にはなまえがいないのだと、今この瞬間、自分はたまらなく独りなのだと思い知らされて胸の辺りが寒々しくふるえた。

彼女が姿を消したドアの前で座り込むようにして膝を抱えながら、折り曲げたそこに顎を乗せる。
すぐ、とはいつ頃のことなのだろうと考え、ほんのわずかな隙間さえなまえで埋めつくされた思考に内心自嘲した。

自分はこんなにも弱かったのだろうか。
彼女といると自身でも認めることのできなかった柔い部分が露わになってしまうようだ。
それが良いことなのか悪いことなのか、今の丁にはわからなかった。
ふ、と淡く息をついた丁は冷えた玄関の隅でゆっくりとまぶたを伏せたのだった。





「ちょっとなまえ、あんた今日落ちつきなさすぎ」
「え?」
「なんかいつもよりそわそわしてない?しかも不安そうな顔してる」


決していい意味ではなく浮き足立った心のまま午前の講義を乗り越えたなまえの様子は傍目にもわかるほどだったらしい。目の前で昼食を食べ進める友人にぴしゃりと指摘されてしまった。

曖昧に笑いながら弁当に箸をつける間も、丁はちゃんと食べているだろうかと心配になってしまう。

昼飯はあたためるだけで食べられるものを作ってきたし、電子レンジの使い方も教えた。賢い子だから危ないことはしないだろう、そんなことを懸念しているのではないのだ。

なまえが家を出るあの時。何ということもないようにひらりと手を振って送り出してくれたときに一瞬だけ垣間見せた、寂しそうな表情。
あの捨てられた猫のように揺れる寂しげな瞳がまぶたに焼き付いて離れない。
やっぱりもう少し丁がこの世界に慣れるまで授業なんか休めばよかったと考えてため息をこぼす。


「なによ、ため息なんかついちゃって」
「…うん。家に残して来た猫が心配で、ね」
「あんた猫なんか飼い始めたの?」
「預かったの、…しばらくの間」
「人の家の猫?大丈夫なの?」
「…わかんない」


常に明朗ななまえには珍しく、ひどく沈んだ面もちに友人は苦笑しながら彼女の肩をたたいた。
顔をあげるとほんの少し意地悪で優しい、いつもの彼女がにっと笑う。


「午後の講義、出席は署名制でしょ。名前書いといてあげるよ」
「ほんと!?」
「ほんとほんと。早くその仔に顔見せてあげな」
「ありがとう!」
「今度何かおごってねー」


ちゃっかりしている友人の声を背に受けながら、弾かれるように学食を飛び出したなまえは脇目も振らず丁が待っているだろうアパートに向かって走り出したのだった。

漸く家にたどり着いたのは陽が西に傾きかけた頃だった。手の中で鈍く光を反射する鍵を差し込もうとしたとき、違和感を感じてノブに触れる。


「…?鍵が…」


丁にはきちんと鍵をかけるように言っておいたのに、手をかけたドアノブがたやすくなまえを招き入れてしまったことに首を傾けた。
乱れた呼吸を整えて足を踏み入れた先の玄関、1番最初に目に飛び込んできたのは膝を抱えて蹲る丁の姿だった。
驚いて駆け寄れば、丁は緩慢な動きで顔をあげる。


「…おそいです」
「丁くんまさかずっとここに!?」
「すぐ帰るって言ったじゃないですか」
「……うん、ごめんね…」


ぽつぽつと落とされる言葉に何度も頷きながら丁をぎゅう、と抱きしめる。普段はあたたかい体温にくるまれている身体もすっかり冷え切ってしまっていた。
なまえを見送ってからずっとここにいたのだとしたら、かれこれ数時間は経っている筈だ。コンクリート造りの玄関に座り込んでいたおかげで冷えてしまったのだろう。
丁は自分を温めようと抱きしめるなまえの背に恐々その細い腕を回すと、きゅっと服を握りながら呟いた。


「あなたといると、弱くなる気がします」
「…うーん、たぶんね、丁くんのそれは甘えてるんだと思うよ」
「……あまえる?」
「そう、ただ甘え方を知らないだけなんだよ」
「よくわかりません」


困り果てたように眉をしかめた丁にくすりと笑みをもらし、彼の背中をゆるゆると優しく撫でる。なまえの仕草にようやくひと心地ついたのか、丁の強ばった身体がゆっくりとほどけていった。
それにひとつ微笑んで、かすかに冷えた丁のやわい頬と自分の頬をそっとくっつける。


「丁くんのしたいようにしたらいいんだよ」
「したいように…」
「そう、大抵のことは叶えてあげられると思うよ」


肌と肌が触れあったところからじわじわとひとの体温が伝わっていく。
柔らかくあたたかいぬくもり。頬から全身をふわりと巡る心地よさ。
唯一なまえからのみ感じられる、幸福。
ゆっくりと顔をあげた丁と視線がからみあう。丁のほしいものをわかっているように唇をほころばせてくれるなまえにつられるようにして、ゆるりと頬がほぐれていく。


「あ」
「…?」
「初めて笑ってくれた!」
「え、」


笑顔とはいえないようなほのかな微笑が丁の表情を彩る。初めて目にしたそれになまえはぱっと光を浴びたように明るく笑った。
笑った、と無邪気にはしゃぎ丁を抱き上げてくるくる回り始めるなまえに動揺を隠せずにいると、不思議そうな顔をして小首を傾げた彼女を見つめる。

村人たちには母親の胎内に表情筋を忘れてきたのではないかと囁かれるほど愛想のない子供とされてきたので、なまえの前で無意識に笑みを形づくってしまったことにただ驚いて、動揺した。

彼女は丁にたくさんのはじめてをくれる。この小さな手では、薄い胸には抱えきれないほどの。

それが丁にとってどれほど貴重でかけがえのない存在か、なまえはわかっていないのだろうなとのんきに笑う彼女を見やった。


「学校、いかないでください」
「えっ?」
「ずっとここにいてください」


丸い瞳でじ、となまえを見上げて懇願する腕の中の丁を見、慌てて出席日数を指折り数えていると、ふうとため息をついた彼がぽつりと呟いた。


「大抵のことはかなえてくれるのではないのですか」
「いや、そうなんだけど!木曜の授業がちょっと危ないかなーなんて…へへ」
「……」
「あっでも出来る限り休むよ!」
「…冗談ですよ。これはあまえる、ではなく身勝手というのでしょう」


こてんと首を傾げた丁におずおずと頷くと、彼は向き合うようにして対面していた身体をなまえに寄りかからせ、彼女の華奢な肩に額を乗せた。
なまえにすべてを預けるように擦り寄る丁に少し驚いたものの、先ほどよりもずしりと腕にかかる体重に頬が緩む。


「今はこれでいいです」
「…うん。丁くん、大好きだよ」
「………」


またこのひとは、と内心呆れの交じった悪態をつきながら、それでも心に灯った優しい明かりを胸へと刻み込むようになまえを見上げたのだった。



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