ばたん、と玄関のドアが閉まる音を耳聡く聞きつけた丁は、ぱたぱたと軽い足音をたてて彼女を迎えようと戸口に向かった。 買い物袋を腕から提げて帰宅したなまえは、子供のようにわくわくと胸を弾ませた様子で開口一番丁に問いかける。 「丁くん丁くん、甘いもの好き?」 「ええ、まぁ」 「じゃあさ、パンケーキつくろっか!」 袋の中身は学校帰りに寄ったスーパーで、安売りされていたパンケーキの粉。久々に食べたくなったというのもあったけれど、大好きな丁と一緒につくったものを彼と一緒に食べたらもっと美味しいだろうな、という非常に単純明快、短絡的な思考の末に購入したのだ。 にこにこと袋を持ち上げて丁を見つめるなまえにこくんと頷けば、一際顔を輝かせてもうひとつの紙袋を取り出した。 「じゃあこれ!エプロン買ってきたから着けてね」 「……これ、何ですか」 「ん?くまのアップリケかわいいでしょ?」 「………」 丁はじとりとなまえを見上げたあと、苦々しい顔をエプロンに向けてひとつため息をついた。クリーム色の布地に愛らしいくまのアップリケがつけられたそれ。 少し可愛らしすぎると思うのだがなまえがとても期待に満ちたきらきらとした瞳を寄越すので、仕方なくそれを身につける。 背中の紐が手から逃げて上手く結べずにいると、くすりと笑みをもらしたなまえがするすると結びつけてくれた。 「ありがとうございま」 「わあ、すっごくかわいいよ丁くん!」 「……はぁ…」 「あれ、気に入らない?」 しゅん、と眉を下げて不安そうに丁を見つめるなまえをちらりと見やり、深いため息を吐き出す。 「こういう幼稚っぽい……いえ、かわいらしいものはなまえさんに似合うと思います」 「あ、あれ?褒められてるのかな、貶されてるのかな?」 あれー、と首を傾げるなまえを他所に、荷物を抱えて台所へと足を向ける丁を慌てて追いかける。辛辣な科白を口にしながらも荷物を運ぶ手伝いをしてくれるようだ。 そんなわかりにくい優しさも冷静なところも、臆さず物を言うところも。 すきだなぁ、とやわらかく表情をほころばせながらなまえは丁の小さな背中を見つめた。 * 「卵と牛乳入れるから、丁くんは混ぜてくれる?」 「はい」 「うん、上手上手」 丁の背では調理台に届かないので椅子を用意してやり、ボウルに粉を入れる。そこになまえが卵を落として牛乳を加え、丁が中身を混ぜる。 2人が力を合わせて料理を作る、そんな他愛もない出来事がひどく幸せに満ちたことのように思えて、なまえは胸の辺りがあたたかくなるのを感じた。 手際良くぐるぐると混ぜ返しながら、これで良いのかと問うように時折なまえを見上げて小首を傾げる丁にふわりと微笑む。 よしよし、と頭を撫でて褒めてあげると丁はまぶたをまたたかせ、嬉しさをにじませるように瞳をゆるめた。そうしてなまえも、丁につられるように笑顔になってしまうのだ。 「次は生クリームだね!本当は電動の泡立て器があるといいんだけど…ないから自力でがんばろう!丁くんはボウル支えてて」 「この白いのが生クリームですか?」 「うん、甘くて美味しいよー、あっ」 「あ」 市販されている泡立てるだけの生クリームを買って来たのだけれど、勢いあまってボウルの淵に泡立て器をぶつけてしまい、拠り所をなくしたクリームが飛び散る。 シンクやエプロンに白いまだら模様が出来て、思わず丁と顔を見合わせた。と、そのあどけない頬にも白い筋を残しているのを見つけて、きょとんと目を丸くしている丁にこらえきれずに笑いをこぼしてしまった。 「丁くんクリームついてるよー、ふふっ」 「…そういうなまえさんこそ鼻の頭にくっつけてるじゃないですか」 「えっうそ!」 「嘘です」 その言葉を真に受けて思わず鼻を手で覆えば、丁はふっと呆れの交じった微笑みを唇に乗せる。 そのどこか優しさをふくんだ微笑を目にすると、真綿のようにやわらかな熱が胸に落ちてくる。それは淡くも温かい灯火が心に宿ったような、そんな感覚。丁の笑みを目にする度に胸へとこぼれる優しい感情だ。 なまえは丁のやわい頬を拭い、はにかむように唇を緩める。 「うふふ」 「何ですかその気色わるい笑いは」 「今の私には丁くんの毒舌も効かない!」 「元気ですねぇ…」 取りとめのない会話を交わしながら完成したパンケーキをテーブルの上に並べる。いちごやバナナ、キウイなどの果物も合わせてデコレーションすれば店に並べても遜色ないほどの出来栄えだ。 いただきます、と2人並んで手を合わせ、パンケーキに初めて挑戦する丁を見る。 丁はまだフォークは使えないので箸で器用に切り分け、生クリームや色とりどりの果物を乗せたそれを小さな口でほおばった。 「…!美味しいです」 「良かったー、本当は柏餅とか和菓子にしようかなとも思ったんだけど、丁くんこっちの物に興味あるみたいだったから」 「…それもまた今度、」 「え?」 「また今度、つくりたいです。…一緒に」 「……うんっ」 不確かな約束をしてしまうほど、この時間は丁にとってやわらかな思い出として脳裏に息づいていた。 指きり、と差し出された彼女のぬくもりに小指をからめると、1、2度ゆらゆらと揺らされる。 "また今度"などお互いに叶えられないことだとわかっていても、その体温を決して離さないように、なくさないように。 2人は暫くの間、ゆるく小指を繋いでいたのだった。 「そうだ、明日休みでしょ?少し遠くまで行こうと思うんだけどどうかな?」 「とおく、ですか?」 「そう、ショッピングモールっていうお店がたくさんある場所なんだけどね」 「スーパーみたいなところですか?」 「もっともっと大きくて、たくさんの物が売ってるところ!行ってみない?」 「…行ってみたいです」 ぐん、と大きく手を広げて表現すると、丁はひそかな好奇心を弾ませ、表情を明るくした。 そんな彼ににこりと笑みを咲かせて幼い頭を優しく撫でる。その度に絹糸にも似た黒髪はさらりと揺れ、丁の丸みを帯びた頬に沿うようにおりていく。 なまえの仕草に一瞬動きを止めた丁は、ゆるゆると繰り返し髪を撫でつける柔らかい手のひらを見上げる。それからそっと彼女へ瞳を滑らせれば、じんわりと肌を暖める日なたのような笑顔を寄せられた。丁は胸の内側をくすぐるあの感覚を覚えて困ったようにふらりと視線を彷徨わせる。 「じゃあ明日の予定は買い物に決定!何かお揃いの物買いたいねー」 「…そうですね」 頭に触れていたなまえの手が離れ、わずかにうしろ髪を引かれるような思いをしながらもいつの間にか彼女が撫でやすいように傾けていた姿勢を正す。 そんな彼を目にして嬉しそうに唇をほどけさせつつパンケーキを口に運ぶ彼女に倣って、丁も甘い甘いそれを咀嚼したのだった。 |