うたかたの、 | ナノ




それは小さなお出かけをした翌日。昼食も食べ終わり、2人並んでソファに座っていたときのことだった。
棚から本のようなものを取り出したなまえがううん、と首を捻りながら口を開く。


「ねぇ丁くん、晩御飯なに食べたい?」
「そうですね、この時代には和食以外のものはないのですか?」
「あるよ、でも丁くんの口に合うか心配だったから出来るだけ出さないようにしてたの」
「…そうなんですか」


どうやらなまえは丁に気を回して和食中心の食事にしていたらしい。ずぼらなところもあるかと思いきや、丁を想うが故の気遣いも出来るひとなのだ。
そんな彼女のささいな優しさに胸の奥をくすぐられながら、無表情を装ってなまえを見上げる。


「どうせならここでしか食べられないものを食べてみたいです」
「おお、意外と冒険するんだね!ええっと、洋食と中華と…どれがいい?」
「ずいぶんたくさんありますね」


テーブルの上に並べられた本に閉じ込められたたくさんの写真たちに、目をきょろきょろと移ろわせながら興味を示す丁を微笑ましく眺める。
料理本を持っていてよかったと思いながら見守っていると、小さな愛らしい指先がす、とひまわりの花びらのような黄色を指した。


「これがいいです」
「オムライスだね、了解!じゃあ丁くん、買い物付き合ってくれる?」
「はい」


ちょうど卵を切らしてしまっているし、良い天気だから近所のスーパーまで歩くのも気分転換になるだろう。
そうと決まれば、と急いで私室に駆ける彼女に丁は呆れ混じりの眼差しを向けながら、なまえの用意が済むまでふわふわとしたラグの上にちょこんと座り込んで待つ。

なまえが支度もそこそこに居間に戻ると、膝を抱えた丁がこちらを見上げていて、理由もなく頬の筋肉がゆるゆるとほぐれてしまう。


「お待たせしました!さ、行こう」
「どこまで行くのですか?」
「近くのスーパーだよ」
「すーぱー」
「食料品とかが売ってるお店のことだよ」


やわらかな手のひらをしっかりと握りながら道を進む。
穏やかにそよぐ風がふわりと髪を遊ばせるのにまぶたを伏せ、時折投げられる丁の疑問に答えながら露草を思わせる色鮮やかな青空を仰いだ。


なまえと隣り合わせに歩いて十数分、たどり着いた店には野菜や魚、見たこともない食品たちが揃い踏みしていた。
店内を一目見てきょとんと目を丸くする丁の、そのあどけない表情にくすりと笑みがもれる。


「ここは…凄い、ところですね」
「ふふ、丁くん驚いてばっかりだね」
「ええ…」


小さく口を開いたまま首を巡らせる丁とはぐれてしまわないように、きゅ、と手に力を込める。元々好奇心旺盛な性格なのかそういう年頃なのか、目を離すとどこかへ行ってしまいそうで少し怖い。
賢い子だからそんな懸念も必要ないのだろうけれど、どこか過保護になってしまう自分に苦笑を浮かべる。


「卵にケチャップに玉ねぎにひき肉、と」
「おもくないですか?」
「うん?大丈夫大丈夫、これでも力はある方なの!心配してくれてありがとうね」
「……」


カゴへ無遠慮に品物を入れていくなまえを気にかけてくれる丁ににこりと笑えば、途端にふいっと顔を背けられてしまう。
なまえが向ける笑みにどんな反応を示せばいいかわからないらしい。少しずつ慣れていってくれればいいとは思うのだけれど、ほのかに赤みを帯びた丸い頬がとてもかわいらしくて、思わず抱きしめるようにして腕の中に閉じ込めてしまった。
大人しく胸に収まるあたたかい体温と柔い感触が心地よい。


「コラなまえさん、他の方にめいわくでしょう」
「わ、丁くんお母さんみたい」
「……なまえさん?」
「…ごめんなさい」


店内で丁を抱きしめたまま蹲るなまえを叱りつける彼に思った感想を言っただけなのに、更に怒られてしまった。
背中にずん、と気圧されるような暗い靄を背負っているのが見えるのは気のせいだろうか。

この年齢でそこまでの気迫を醸し出せるなんて将来大物になるのではないか、と呑気に思う心内を悟ったのかますます眉間にしわを寄せる丁に萎縮しつつ立ち上がると、深いため息をつかれてしまってしゅんと眉が下がった。


「…家に帰ったらすきにしていいですから」
「ほんと!?じゃあ今日は一緒に寝」
「それはいやです」
「好きにしていいって言ったのに!」


手の中に丁のぬくもりを繋いで、他愛ないやり取りをしながら買い物を進めていく。
何てことのない平凡で幸福なこの時間が、いつまでも続けばいい。
そんな叶わない願いを胸に秘めながら、なまえは瞳がからんだ先のいとしい子にやわらかく笑んだ。




「さ、出来たよー!」
「ありがとうございます」


ほかほかと湯気のたつ皿には目にも鮮やかな黄色いそれが乗せられている。山吹に似た色だ、と思っていると赤い液体の詰まった容器を取り出したなまえがその上に何かを描いていく。


「なにしてるんですか」
「これ?オムライスを食べるための通過儀礼だよ!」
「………」
「疑われてる…」
「…いえ、信じていますよ」
「うそだー」


物凄く訝しげな視線を投げられて肩を落としながらも、黄色をキャンバスに赤いそれで文字を書いていく。
興味深そうに眺める丁のオムライスの上にも同じようにケチャップを絞り出していき、ふたつ並べて完成したそれを前に満足げに頷いた。


「何と書いてあるんですか?」
「えっとね、丁くんだいすき」
「…」
「って、あー!何ですぐ消しちゃうの!」
「いえ、見ていたら何かつぶしたくてムズムズしてきたので」


べちゃ、とスプーンで赤色を平らに伸ばしていく丁は容赦がない。丁によって一面を綺麗な赤で覆われていくオムライスをああ、と涙目になって見つめているなまえをちらりと見やり、肩をすくめる。

だいすき、とかすき、とか。
普通は恥じ入って言えない言葉をまっすぐに伝えるのは彼女の癖なのだろうか。その度に胸の辺りがこそばゆいような、ほわりとあたためられるような感覚に襲われるこちらの身にもなってほしい。
本当に厄介なひとだ、とため息をついた丁を見下ろして食べようか、と首を傾げたなまえにこくんと頷く。


「いただきまーす」
「いただきます」
「……あっ!」
「どうかしました?」
「明日学校だ!」
「がっこう…」
「ど、どうしよう」


一口目をほおばるより早く大きな声をあげたなまえ。またもや飛び出した聞いたことのない単語に首を傾けている丁を他所に、なまえは1人焦ったように取り乱していた。
わたわたと丁を見たり物思いに耽ったりする彼女を落ち着かせるようにその膝をぽん、と叩くと、冷静さを取り戻したのか丁に眼差しを寄せたなまえがゆっくりと口を開く。


「私、明日学校って言う色んなことを学ぶ場所に行かなきゃいけないの」
「そのようなところがあるのですか」
「うん、だから丁くんにはお留守番してて貰わなきゃいけないんだけど……心配だよ…」


隣に座る丁に向き直って心苦しそうにゆがめるその表情を見ていたくなくて、どうにかなまえを安心させようと考え抜いた言葉をつむぐ。


「不安に思わなくともおとなしくしていますよ」
「うん、それはわかってる。丁くんは頭のいい子だもん。そうじゃなくてね、…帰っちゃうんじゃないかと思って…」


もしなまえのいない間に丁が消えてしまったら?
お別れも言えないまま永遠に会えなくなるなんて、とてもではないが耐えられそうになかった。想像するだけで寂しさや悲しみや、心臓を蝕むような冷たい思いに胸が引き裂かれそうだ。


膝に優しく置かれたままの小さな手を握り顔をうつむかせてしまったなまえに何か言葉をかけたいのに、適切なものを見つけることができない。
丁はもどかしそうにかすかに開けた口をきゅっと引き結んだ。
如何にかして彼女を安らぎの中に取り戻したくて、その糸口はないかと記憶を巡らせる。

脳裏をよぎるのは雨乞いの生け贄にされ、最期の時を待とうと祭壇で眠りについたあの時。
手のひらに掬いあげればたちどころに零れ落ちていくような断片的な記憶をたどる。

あの時、どろどろと身体に纏わりつくようなとても不快なまどろみから汲みあげられるように、導かれるように意識を引っ張られた。
それに身を委ねて目を覚ませば、すでにこの時代に放り出されていたのだ。澱むような眠りの淵で幾つもの年月を重ねたような気もするし、数分の出来事だった風にも思える。
何にせよ、元の場所に帰るとしたらそれに似た予感のようなものがまた訪れるような気がした。

誘われるような、引き戻されるようなあの言い表せぬ感覚が。

それに確信はないが、気休めでも彼女の心に平穏をもたらすことが大切だと思えた。常に冷静で合理的な丁には珍しく、感情に動かされるままになまえの手をぎゅっと握り返す。


「私は、元の世界に戻る時を予感することができるとおもいます。そしてまだ今は、その時期ではありません」
「……ほんとに?」
「はい。ですから……そんな顔をしないでください」
「…うん」


丁に目線をあわせて背を丸めたなまえを見つめていると、彼女はその科白を噛みしめるように1度まぶたをおろす。
なまえが再び目を開けた先の瞳に、あの優しい光が灯っているのを認めて丁は内心ほっと胸を撫で下ろした。

大丈夫、この子の言葉は信じられる。
自分を落ち着かせるように心の中で呟いたなまえは、胸の奥底でくすぶる不安ごと押し込めるようにすこし冷めてしまった黄色を口にふくんだのだった。


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