「ただいまー」 そう言っても誰もいない部屋から返ってくる声はないけれど、なんとなく習慣となっている挨拶を宙に響かせる。 手に持っていた紙袋をおろし、無事丁の服を揃えたことに満足してふう、と息をつく。 随分多くなってしまった荷物を抱えることになったので帰りは丁に歩いてもらった。もちろん、彼のぽてりとした小さくて柔らかい手を繋いで。 「ふー、たくさん買ったね!」 「…今更言うのも何ですが、そんなにかってしまってお金はへいきなのですか?」 「うん、今はしてないけど少し前までバイトしてお金貯めてたから、普通の学生よりは余裕あるよ」 それはもう隙あらば詰め込むような形でシフトを組み、何かに突き動かされるように汗水垂らして働いた。今思えば全部丁のためだったのかも知れないなんて思ってしまう。 少しだが仕送りもして貰っているので、多少の間なら丁をここに住まわせることも出来るのだ。 「なまえさんは一人で暮らしているんですよね」 「うん、そうだよ。あ、ちゃんと両親共に健在だよ」 「…そうですか。この時代ではみなしごの方が珍しいのでしょうね」 丁がどこか遠い目をして呟いたその一言に、ああ、とそれまでの違和感が繋がる。 家族という単語に戸惑いをのぞかせたのも、抱き上げられて反応に困ったようになまえに寄せたあの眼差しも、手を握ったとき見せた困惑の表情も。 彼自身が家族のぬくもりを知らないから垣間見せたものだったのだ。 「丁くん、孤児なの…?」 「ええ。みなしごという事実を盾にけなす奴らは癇にさわりますが、それを恥じたりはしていませんよ。…同情もいりません」 気を使っているように見えたのだろう、丁から投げられた冷たさを帯びる瞳をただ見返しながら思考に沈む。 同情、なのだろうか。 なまえが軽々と抱き上げられるくらい小さな身だというのにこれまで1人で過ごしてきて、苦労したのだろうとは思う。けれど、そう思うのは彼を哀れんでいるからではない。 過去は変えられない。今まで寂しい思いをしてきただろうその記憶を消すことは出来ないけれど、新しい思い出で塗り替えることは出来る。 丁と楽しい思い出をつくりたいと心から思うのは悲壮的な身の上話から生じる情けなどではないと思うのだ。 だってもうとっくに、丁の幼子らしからぬ冷静さや呆れながらもなまえを見守ってくれるところや、その黒曜色をしたまっすぐな瞳が好きになってしまっているのだから。 それは、本当の家族になれたらいいと思ってしまうほどに。 「じゃ、お昼寝しよっか!」 「は?…話の途中ではなかったのですか」 「ああ、うん。でも私は同情で一緒に住もうって言ったわけじゃないし、いいかなって」 「…ではなぜ?」 「何でってそんなの、好きだからに決まってるよ」 「すき、」 好きな人と一緒にいたいと願うのは当たり前だと、他愛ないことのようになまえが言う。 彼女によってぽとん、と心に落とされた言葉がぬくもりをはらんでじわじわと丁の中に染みていく。そんな科白もあたたかい感情も、誰からも向けられたことがなかった丁はゆらりと瞳を揺らしながらなまえを見上げた。 いつのまにか心に積もっていた淡雪が溶かされていくようだ。 純粋でひたむきな彼女だからこそ信じられる言葉。 内側がほわりとやわらかいものに包まれていくのを感じながら、どう返答するのが正解なのかわからずに口を開く。 「…まぁせっかくの塒ですし、同情されたからといって出て行くようなことはしませんけど」 「あはは、出てくなんて言われたら寧ろ私が行かないでって縋りついちゃうよ」 丁の可愛くない返事も明るく笑って受け止めたなまえに手を引かれ、彼女の私室へと向かう。 丁と変わらないその手のぬくもりでさえ、ひどくあたたかく感じる。 胸を綿羽で優しくくすぐられたようなこの感覚は何なのだろうか。何か言い表せない想いが胸元から込み上げてくるような、しかし不思議と心地よいこの感覚は。 なまえと共にいる時にだけ感じることのできるこれに、名前をつけるのなら何だろう。 「一緒に寝る?」 「ねません」 「ええっ!今朝は隣で寝てたのに!」 「気を失っていたんですから不可抗力です」 何やらわあわあとわめく彼女を無視して踵を返す。背中をなまえの声が追いかけて、まだ丁の気を引こうとする彼女に思わずふっと持ち上がった唇に手をやった。 そう、こんな風に自然と笑みが浮かんでしまうようなこの感覚に名前をつけるのなら、それは幸せ、だろう。 「…厄介だ」 初めて見つけた幸福は、いつ覚めるかもわからないこの夢のような世界で息づくひとりの人がもたらしてくれる。 手放したくないのに、離れてしまうだろう未来を暗く想像する思考を振り払おうと、丁は柔らかなソファの上で固く目を閉じたのだった。 * 「……」 とんとん、とリズム良く刻まれる音がまどろみから意識を浮上させる。まぶたを開けた先の見慣れない色の天井と、そこで煌々と光を放つものを目にしてぱちりと瞬きを繰り返していれば目を覚ました丁に気がついたなまえが駆け寄る。 「おはよう丁くん、あ、今は夜だからこんばんはかな?」 「夜…?それにしては明るいですけど…」 「うん、この蛍光灯っていう明かりのおかげ。小さい太陽があるみたいだよね!」 小さな太陽はもうひとつ知っている。 未だ眠気に澱んだ頭でそんなことを考えながらじっと彼女の朗らかな笑みを見つめ、身体を起こす。 どうやら夕食の支度をしていたようで、食欲を刺激される美味しそうなにおいが鼻をかすめた。無意識にこくりと喉を鳴らしてしまう。 そんな丁に気がついたのか、なまえが笑みをもらした。 「ご飯はもう少しかかるから、その間お風呂にでも入っておいでよ」 「ええ、そうします」 「こっちだよ、ついてきて」 先導するなまえの後を覚束ない足取りでついて歩くと、脱衣所で足を止めた彼女がふと丁を振り返ってぽんと手を打った。 「一緒に入る?」 「またそれですか…入る、と言うとでも?」 「だ、だよね…でも昔と大分形式が違うだろうし、一回も二回も変わらないかなって」 「…ん?」 「うん?」 自分のいた時代のそれと形式も便宜さも随分と異なっていることは、この世界を目の当たりにした丁には容易く見当がつくことだったけれど、何か引っかかる言葉を言われた気がする。 頭を傾けた丁につられてこてんと首を傾げるなまえ。 危うく聞き流してしまうところだったが、彼女は確かに気にかかる単語を一言二言口にした。 「一回も二回も変わらない?」 「……あ」 「…どういうことでしょうかなまえさん、まさか私があなたと湯浴みをしたことがあるとでも言うのですか」 「あ、あー…あると言えばあるしないと言えばないような…」 「なまえさん」 「うう…」 ひと回り以上も歳の離れた幼子から鋭い視線で射抜かれ、叱られた子供のように肩をすぼめたなまえは白状するかのように口を割る。 結局あの大雨が降った1日目のことを洗いざらい話すことになってしまった。どうか自分が丁にとってのトラウマになりませんようにと、まるで判決を待つ罪人のようにぎゅっと目を瞑りながら彼の反応を待つ。 「……はぁ、そんなところだろうと思いましたよ」 「お、怒ってない?」 「なまえさんは私を助けようとしたのですから、怒ったりなどしません」 「き、気持ち悪いとか、嫌いになったり」 「していません」 なまえの言葉を遮るようにきっぱりと否定した丁にほっと胸を撫で下ろす。これで蔑まれたり不潔なものでも見るような目をされたら生きていけないところだった。 すっかり安心して息をついたなまえは気を取り直して風呂の入り方の説明を始める。見たこともない道具の使い方を教わりつつ、自身のちっぽけな手のひらを見下ろした。 なまえに救われなかったらこうしてここに立っていることも、あの幸せを見つけることも出来なかったのだろう。 彼女にどれだけの感謝をすれば事足りるのだろうと考えながら、丁と視線をからめる度に優しい微笑みを咲かせてくれるなまえを静かに見つめたのだった。 |