うたかたの、 | ナノ




寄せては返すとろとろとした心地よい眠り。心のすべてがあたたかな休息を迎えられる、優しいまどろみ。彼女が壁一枚隔てたほんのすぐ近くで息づくという、たったそれだけのことが丁をひどく安心させ、穏やかな眠りを誘うのだ。

ぱちり、とまぶたをまたたかせる。目の前を覆う暗闇に、まだ夜が明ける前だと察した。
なまえは知らないようだが、丁はいつも日の出とともに目を覚ます。身体に染みついた習慣はそうそう変えられないものだ。
ソファに横たえていた身を起こし、冷えた床にそっと素足をおろす。足の裏にひたりと触れる冷たい温度が丁の意識をおもむろに研ぎ澄ましていく。そのまま音を立てないよう居間を出て、彼女の私室へと身体を運んだ。

この世界に落とされてひとつ増えた日々の慣わし。それは日が高くなって、透かしの入ったカーテンの隙間からうららかな光がなまえの頬を照らすまで、彼女の傍に身を寄せること。
すうすうとすこやかな寝息を繰り返す彼女のあどけない顔を見ているだけで、胸の中心にほのかな熱が宿る。

初めてこの世界で目を覚ました時、1番に目にしたのもなまえの幼さの残った寝顔だった。あたたかな布団にくるまれながら現状を把握できないまま思考だけがぐるぐると先走って混乱する丁の強張った身体をほぐしたのは、彼女のやわらかな吐息だった。
呑気に眠りに落ちるなまえの顔を見ているとゆるゆると力が抜けていって、ぴんと張り詰めた緊張の糸がほどけていったのがわかった。

彼女のほがらかな性質に絆されたのはいつ頃だったか。
なまえに出会って1週間ほどしか経っていないというのに多くの時を一緒に過ごしたような気がするし、まだ出会って間もないようにも感じる。

丁に優しいぬくもりをくれる手は布団の中に隠され、ふんわりと弧を描く唇からはゆるやかな呼吸がもれる。丁を映してはやわく細まるその瞳はまぶたに隠されて、そこを縁取る睫毛が彼女の目元に影を落としている。
それがふるりと揺れてなまえが目を覚ますまでの間、このもの柔らかな空気のたゆたう場所に身を置くことが丁を安らかな気持ちにさせるひとつの要因となっていた。


「ん……丁、くん」
「…なまえさん?」
「………」


起こしてしまったのかと息を詰めて彼女を見つめると、再び眠りの浅瀬に身を沈めていくなまえにほっと息をつく。
こんな時間に丁が起きていることを知ったら優しい彼女はそのまま起きていてくれるだろうし、丁のこの習慣に付き合うようになるだろう。
そんな風に悪戯になまえの休息を削ることはしたくなかった。

もう居間に戻ろうか、とベッドの脇についていた膝を伸ばす。習慣化している筈なのに、何故か頭の隅をひっかくような眠気が残っている気がする。
くあ、とこみ上げるあくびを噛み殺しつつ、丁は彼女の私室を後にしたのだった。




ゆらゆら、ゆらり。
目の前を、まるで意思を持っているかのように揺らぐいくつかの光。
きらびやかな太陽とも優しく闇夜を照らす月とも違う類の、かといって煌々と暗がりを裂く電灯のそれとも異なるぼんやりとした明かり。

その輪郭はぼうっと溶けて、周囲の常闇とひどく曖昧な境界を保っている。中心は目が冴えるような朱、それを深い縹色が覆い、外側にいくにつれ浅くなっていくその色は不規則に形を変えて丁の眼前でまるで遊んでいるように揺れている。

―呼ばれている。

何とも無しにそう思った。手招きされているようにひらひらと宙を舞うそれから逃げるように背を向ける。
逃れようとしても無駄だろうとは思った。けれど、いくら無駄なあがきだろうと如何にかしてこの光から免れなくてはならない。

まだ彼女の傍にいたい。

その一心で、泥沼に沈みゆくかのように重たい足を必死に動かした。
しかしそのおぼろげな光は丁のささやかな抵抗を嘲笑うようにじりじりと距離を詰めていく。それでも顔をあげて、あたたかい彼女を求めて前へ前へと身体を傾かせ、手を伸ばす。


「なまえ、さん…っ」


苦しげに喘ぎ喉の奥から絞り出したその声に応えるように、焦がれたぬくもりが手のひらを包む感覚が神経をほのかに伝う。
りん、と遥か遠くで鳴った涼やかな音を最後に、丁はぷつりと意識を失った。




「丁くん、丁くん!起きて!」
「………、」


朝、なまえが目を覚ましてリビングへ向かうと丁は珍しくまだ眠っているようだった。起こさないように身を縮めて近づくと、額に冷や汗をにじませ、肩で息をする丁が目に飛び込んだのだ。

魘されているらしい彼に幾度も呼びかけるけれど嫌々をするように力なく頭を振るだけで、固く重ねられたまぶたが開くことはなくて。
どうしたらいいかわからず途方に暮れていれば、何かを求めるように伸ばされた小さな手。
それをぎゅうっと握った矢先、瞳を覆うまぶたがわずかに震えるのを見て取ったなまえは何度も丁を呼び、漸く彼を眠りの淵から引き戻すことができたのだった。



何かに怯えるように視線を彷徨わせていた丁は、心配そうにこちらをうかがうなまえを目に止めると突然身を起こし、彼女の胸に飛び込むように身体を投げた。
難なく受け止めて優しく抱きしめてくれるなまえのあたたかな存在を全身に感じながら、丁は震える息を吐く。


「丁くん?大丈夫?」
「……なまえさん」
「怖い夢でもみた?もう大丈夫だよ」
「………ええ、少し夢見が…悪かっただけです」


煩わしくまとわりつく額の汗を、ゆっくりと拭ってくれる恋しい指先。
まだ、まだ逝く訳にはいかない。
彼女に何も伝えられていないから、まだこの体温を手放したくないから、この肌の感触をなくしたくないから。

駄々っ子が懸命に利己的な要求を押し通すようにそう強く誓った丁の背中をゆるゆると撫でるなまえがぐらぐらと波打つ内面を安らかにしていく。
瞳がからむとまだ不安そうな光をにじませながらもその唇に微笑みを乗せてくれるなまえを、虹彩に焼き付けるように見つめた。


「ねぇ丁くん、やっぱり心配だから…今日から一緒に寝よう?」


何か思うところがあったのか、いつもの冗談のような口調ではなく真摯な声音を響かせるなまえに、こくんと静かに頷く。

間近に迫ったさいごを肌で感じて、丁も焦っているのだろう。なまえが自分から離れるのをひとときだって許したくなかった。
せめて彼女を腕の中に閉じ込めようと手を動かすが、このちっぽけな身体ではなまえを抱き返すこともままならない。そんな如何しようもないことにすら強い焦燥を覚えながら、彼女の背中に手を伸ばしたのだった。


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