うたかたの、 | ナノ




プラスチックで出来たその平たい箱はすべらかなビニールで覆われていて、その上を華奢な指先がするりと移動する。
そこに描かれたおぞましい顔をした女と凄惨なフォントで記載されたタイトルを確認し、後ろ手にそれを隠しながらソファにちょこんと行儀よく座る丁の隣に腰をおろした。

丁は腰を落ち着けてもどことなくそわそわと浮ついた様子を見せるなまえにちらりと目をやる。ぱちりと瞳がからんだなまえはどうやらずっと丁のことを見つめていたようで、小さく首を傾げると彼女は声を落とし、内緒話をするようにひそひそと囁いた。


「丁くん、…幽霊っていると思う?怖い?」
「根拠のないものは信じないたちなので…別に平気ですけど、どうかしたんですか」
「あ、あのね、友達にDVD借りたんだけど……怖くて観れないから一緒に観てください!」


そのぽてりとしたやわらかい手のひらをぎゅっと握りしめて情けない科白を告げると、思ったとおり丁に呆れたような眼差しを寄越されてしゅんと首をすくめる。

幽霊が苦手ならどうしてそんな物を借りたのだろうか。観なければ良いことなのでは、と据わった瞳で語りかける丁の言いたいことは十二分に理解できるけれど、そういうものではないのだ。
怖いもの見たさというか、かえって好奇心をつつかれてホラー映画を観たくなってしまう時もある。

ちょうどそんな気分になってしまって勢いでホラー好きの友人から借りたものの、やっぱり1人で観るのは怖いから丁と一緒に、と思ったのだ。
両の手のひらの間に丁の手を優しく挟んで包み込み、懇願するように見つめる。


「ダメ、かな?」
「………しかたないですね…」
「やった!ありがとう丁くん!」


こちらをうかがうようにそおっと上目で見つめられてしまえば折れるしかない。
自分も甘くなったな、と心のうちで苦く思う。しかし、丁には全く関係のないことでも手を差し伸べたくなるのは彼女に対してだけなのだろう。

何だかなまえに弱みを握られた気になってため息をついた丁に反して、ぱっと表情を明るく咲かせた彼女は早速準備にとりかかり始めた。
その背中はどこかうきうきと弾んでいて、先ほどまで身をすくませるほど怖がっていたのが嘘のようだ。
本当は平気なのではと思えてしまうほどだったのだが。


「むりむり絶対でるって…ひいっ!」
「……あの」
「ううー…」
「………」


隣り合わせに座っていたはずなのに、いつの間にかなまえの膝に招かれていた丁は彼女に後ろから抱きしめられるようにしてテレビを見ている。
ぎゅう、となまえの心地よい腕の中にやわらかく拘束されるのは嫌いではないが、一瞥すらくれないこの扱いは抱き枕の代わりというか、ぬいぐるみ同然というか。そんな風に思えて仕方ない。

む、と眉をしかめながらなまえを見上げるけれど、やはり彼女の視線は液晶の中の悪霊に釘付けで丁の無言の訴えに気がつく様子はない。
なまえの心を集める画面に鋭い目を投げても、生憎流れ続ける映像が止まることはなく。なまえの気は薄い壁を挟んだ向こう側に引かれたままだ。

頬をかすかにむくれさせてなまえを仰ぐ丁が向かい合わせになるようにくるりと身体を反転させたことにすら彼女は気付かない。
それにますます機嫌を損ね、丁はその紅葉を思わせるあどけない手のひらを無防備ななまえの脇腹にそっと伸ばした。


「なまえさん」
「わっ!?や、やだ何するの丁く、あははっ」
「ちょっとはこちらも見たらどうです」
「やややめてっ、私そこ弱いんだから…!」
「私はぬいぐるみじゃありません」
「わ、わかった、わかったからぁっ」


こしょこしょ、となまえの弱点を絶妙に攻める丁のくすぐり攻撃に息を切らすほど笑いを誘われた彼女は、漸くテレビから視線を外した。
じんわりと涙をにじませながら丁に寄せられた瞳に満足してなまえの腹に触れるか触れないかのところをやわく刺激していた手を離してやると、はあ、と胸で息をするなまえはくたりとソファの背に身を預けた。
頬をほのかに赤く染め、まだ丁の指先に与えられた刺激の余韻に囚われているなまえの瞳はとろりと溶けていた。

その反応におぼろげに胸の奥を揺らす甘味を帯びた感情を覚えながら彼女を見つめていると、なまえは向かい合って膝に座る丁に口を開いた。


「放っておいてごめんね、拗ねちゃったんだね」
「すねてなどいません、そんな子どものようなこと…」
「でも寂しかったんでしょ?」
「………なまえさんがあれに気を取られていることが気に食わなかっただけです」


それを拗ねていると言うのだけれど、認めたくないようなので胸の内にしまっておくことにする。
ふいっと目を逸らした丁はそれでもなまえの服の裾をきゅっと握っていて、また映画に集中するのを引き止めているかのようだ。
ふふ、とこらえきれなかった笑みを口の端からもらすと、眉をしかめた丁がきっとこちらを睨みつける。


「何ですか」
「んーん、嬉しかっただけだよ?うふふ」
「…………なまえさんのおたんこなす」
「おたんこなす!?」
「今すぐその笑いを止めないと1人にしますからね」
「ご、ごめんなさい!やめるからここにいて!」


映画はちょうど終盤に向けて盛り上がってきたところなのだ。きっとおどろおどろしい霊に追われ逃げ惑うことになるだろう。そんな場面をたったひとりで心細く観続けることなんて出来そうにない、背後や家具の隙間からのぞく暗闇が気になって観賞どころではなくなるのは目に見えている。

引きとめようと懸命に抱きすくめてくるなまえに丁ははぁ、と谷より深いため息をついた。唇をきゅっと引き結んだまま彼女の胸元にやわらかな額を預け、ぽつりと呟く。


「映画もいいですけど、少しはかまってください」
「……うん」


くぐもった声はなまえの耳をやんわりと撫で、心の柔いところをくすぐられたように胸にあたたかいものが広がる。
丁が顔を上げないのをいいことに、ふわりと表情をほころばせたなまえはその流れるような黒髪に頬を寄せたのだった。


prev next