ひとりで寝るより少し狭くなったベッドの中で、寄り添うように身を寄せあえばお互いの体温がじわじわと伝わっていく。 他人のぬくもりがこんなにも心安らぐものだと知らなかった丁はそれを閉じ込めるように背を丸めた。 なまえの存在をより近くに感じられるように。彼女のやわい肌や、優しくてほのかに甘いにおいを記憶に焼きつけるように。 何かを想い猫のように丸まった丁の背を、なまえのしなやかな指先がゆるゆると撫でる。 その愛撫に眠気を誘い出されそうになり拒絶するようにふるりと頭を振ると、そんな丁の心情を知ってか知らずかなまえはゆったりと口を開いた。 「並んで寝てると小さい頃を思い出すなぁ」 「なまえさんが子どもの頃、ですか?」 「うん、小学生まではお兄ちゃんと2人で寝てたんだよ」 「…お兄さんがいたのですか」 丁に言葉を向けながらもその眼差しはどこか遠くを懐かしむような哀愁を帯びている。 丁の知り得ぬ昔を想うなまえの瞳はやわらかく澄んでいた。それはとてもとても綺麗で大切な思い出なのだと傍目にも感じられるくらいに。 こちらまでふっと心が緩むのと同時に、なまえは丁の数少ない過去を知っていても、丁の方は彼女のことを何も知らないのだと思い知らされたような気がした。 なまえは丁を家族だと言ったけれど、きっとそれはまやかしのようなもので。血の繋がった本物の"家族"にはかなわないのだろう。 それは当然だと思うが、それでも今だけは彼女の1番になりたかった。何においても優先される、彼女の最も愛しいひとに。 だって不公平ではないか。なまえはこんなにも丁の心を占めるのに、なまえにとって自分は彼女を構成する一部分にしかなれないだなんて。 もっと自分を見てほしい、もっと彼女に想ってもらいたい。 そのささやかな願いの心髄に気がつかないまま、丁はただなまえを欲しがった。 「お兄ちゃんは堅物でね、私が一人暮らしするのだって猛反対したんだよ?いつも冷静なくせにそんなときだけ熱くなっちゃって…」 「…なまえさん」 「うん?」 「今は私を1番に考えてくれませんか?」 「え?」 「本当のご家族が大切なのはわかります。ですが……今だけは」 天井をふらふらと彷徨っていた丁の瞳がなまえに向けられる。いつも強い意志を宿す濡羽色の虹彩がゆらりと不安定に揺らぐのを見て小さく目を見開いたなまえは、思わず口をつぐんでしまう。 思いがけないその言葉は母親や姉を取られまいとわがままを言う子どものようで、ひどく幼くひとりよがりなものだった。その年相応な眼差しや声色がいとおしくて仕方がない。 けれどそのお願いは聞けそうにないな、と慈しみを溶かした瞳で丁を見つめる。 「私にとってはお兄ちゃんも丁くんもお母さんもお父さんも、みんな同じくらい大切で大好きなひと達だから、丁くんだけを特別に扱うことはできないよ」 「………」 丁のためならいくらだって心を砕くし、彼のためにできることなら何だってするつもりだけれど。 彼と同じくらい今まで共に生きてきた、なまえをここまで育ててくれた家族は切に大事なひと達だから、そんな彼らを天秤にかけることなんてできない。 だが近頃は丁のことで胸がいっぱいに満たされ、彼への想いがあふれてばかりいるのも事実だった。 紅葉のような手のひらを思い出しては胸の奥があたたかい温度に包まれて、たまらなくいとおしくなる。 最愛ではなくても、なまえをなまえたらしめる軸には確かに丁が居る。そんな想いをそっと唇からつむいでいく。 「でもね、買い物に行くときは気がついたら丁くんの好きな物ばっかりカゴに入れてるし、授業中も丁くん何してるかなって上の空になっては先生に怒られるし。夜寝るときは………丁くんの傍で横になりながら、丁くんのこと考えてる。 ふふ、おかしいよね?手を伸ばせば触れられるところに本人がいるのに、頭の中も丁くんでいっぱいなんだよ」 「…なまえさん」 「きっと今の私の世界の中心は、丁くんなんだと思う。1番だって胸を張って言えないけど、…それじゃだめかな」 「…いいえ、……充分です」 今は、まだ。それだけでこのちっぽけな心に抱えきれないくらいの幸福に浸されるから。 彼女の世界の中心は丁だと言ったけれど、丁の世界の基盤はなまえだ。丁を支える土台で、根底に息づく唯一のひと。彼女がいるから自分はここに立っていられる。そう言い表しても決して過言ではなかった。 きっとこれから先何があっても、どれほどの時を経ても、なまえのことは忘れない。 まるでその身に残るなまえに関するすべての思い出を取りこぼすまいとするように、丁は胸元をきゅっと握った。 そんな彼を横目で見やったなまえは、普段の調子を取り戻したように明るく声をかける。 「ね、明日動物園行こうか!」 「動物園ですか?」 「うん、丁くん動物すきでしょ?池には金魚もいるよ!」 「ですが明日は学校があるのでは?」 「それが休講になったんだよー、これはもう遊ぶしかないよね!」 向かい合うように横を向いたなまえが朗らかに笑う。頬をほころばせるその笑顔は暗がりの中にやわらかな光をほろほろとこぼしたように、丁の瞳にはきらめいて見えた。 まぶたを下ろしてもちかちかと星屑のようにまたたくそれはあの夢に見た明かりを消し去ってくれるようで、心に平穏をもたらす。 ゆるりと唇を持ち上げて、なまえを見上げる。からんだ眼差しを繋ぎとめるように瞬きひとつ許さずに、こくんと頷いた。 「楽しみです、動物園」 「うん!じゃあもう今日は寝ようか」 「はい。……?なまえさん?」 唐突に手を握られて首を傾げると、眉を下げて困ったように笑ったなまえが丁の前髪をそっと指先でよけて。露わになったまろみを残す額に落とされた、羽が触れるような口づけ。 そこに手をやってぼんやりとなまえを仰ぐ丁をぎゅっと抱きすくめて目を閉じる。 「また怖い夢を見ないように、おまじない」 「………相変わらず、恥ずかしいひとですね」 胸をくすぐる気恥ずかしさを誤魔化すように憎まれ口をたたく丁を、夢の中でさえひとりにしたくなかった。 私はここにいるよ、と言い聞かせるように抱きしめ、何度も薄い背中をさすった。なまえに出来ることなどこれくらいしかないから。 悪夢なんてこのいとおしい体温に溶けてなくなってしまえばいい。 そんな儚い望みを抱いて、夢の浮橋を渡り始めた丁の頭を優しく撫でたのだった。 |