「あ、丁くん用意できた?」 「……」 「わ、似合ってる、かわいいよ!」 なまえにねだられてもそれまで頑なに袖を通さなかったオーバーオールに身を包んだ丁は、仏頂面でなまえを見上げている。せっかく彼女に選んでもらった服を着ない訳にはいかないし、これ見よがしに箪笥から出されていては着ろと強要されているようなものだ。仕方ないと諦めをふくんだため息をついて、固い生地のそれを身に纏ったのだった。 にこにこと丁を褒めるなまえも、お気に入りの服を着ていつもよりおしゃれをしているように見えた。 「なまえさんも、いつもよりかわいいですよ」 「えへへ、そう言われると照れるなぁー、もうお世辞がうまいんだから!」 「おべっかでもないのですが…」 「え?」 「いいえ」 のほほんとした笑みを見せるなまえにひそかに眉を寄せる。 なまえはのんびりとしているところがあるから、誰かにころっと騙されて連れて行かれでもしないかと懸念してしまうのは初めて出会ったあの日から変わらない。 この世界で右も左も分からないのは丁なのだが、なんとなく彼女の方がトラブルを背負って来てしまう気がするのは何故だろう。 しっかり監視していよう、とささやかな決意をひと回り以上年下の幼子が胸に秘めていることも露知らず、やわらかな微笑みを向けて手を差し出してくるなまえのそれをきゅっと握る。 「今からバスに乗るよー」 「バス、って車の一種でしたっけ」 「うん。あ…そういえばここで丁くんを見つけたんだよね」 「…ここで?」 アパートから数分歩いたところにあるバス停。 そこに設置されたベンチにふたり揃って座ると、ふと後ろを振り返ったなまえがぽつりと言葉をもらした。 あの日、雨露のカーテンに隠れるようにして倒れていた丁。 なまえが見つけてくれなかったらそのまま死んでいたか、この世界の治安を守る役目を担っているらしい警察というものに保護されていたのだろう。 そうしたらきっと、手を包む優しい体温も胸に灯るあたたかい感情も、知ることはできなかった。 なまえと出会わなければ、今の丁はなかった。 「…助けてくれて、ありがとうございます」 「急になぁに?お礼は何度も聞いたよー、それに私こそ丁くんと会えてよかったと思う。ありがとう」 「……」 なまえを上目に見ながら頭を下げた丁に、くすぐったそうにはにかんだ彼女はこちらこそ、と同じように首を垂れた。 同時に顔を上げた2人は、どちらからともなく笑みをこぼす。丁はなまえの笑顔を見つめながら、手の中の体温を逃がさないようにかすかな力を込めたのだった。 * 「おおきい、ところですね」 「でしょ?人もたくさんいるから逸れないようにしようね!」 建物の端から端までが視界に映しきれないほどの大きさであることに丁は感嘆の声をあげる。 そんな彼の反応にショッピングモールを建設した訳でもないのに何故か得意気になってしまう。 ぽかんと口を開けたままの丁の手を引き、足を進める。 「歩きながらいろいろ見て、気になるお店があったら入ろう!」 「はい」 休日ということもあってたくさんの人で賑わうそこは、丁にとって目新しい物ばかりが所狭しと並んでいる。 目を回しそうになりながらも好奇心に動かされてきょろきょろと辺りを眺める丁。 年相応の無邪気な様子を見せる彼を微笑ましく思っていると、繋いだ手をくいくいと引かれて黒曜色と目が合った。 「なまえさん、あの店に行ってみたいです」 「雑貨屋さんだね、いいよー」 店内に入ると、まっすぐに丁が向かったのは色々な種類のキーホルダーが並べられたコーナーだ。 丁はその中のひとつ、鈴の根付を手に取るとそれを揺らした。木造りの赤い尾の裾がひらひらと波打つ、綺麗な金魚の根付だ。 ちりん、と涼やかな音色が響くと、丁の瞳が惹かれるようにゆらりと震える。 「気に入った?」 「ええ。これは魚ですか?」 「うん、金魚っていうの。ペットショップに売ってると思うよ、見に行く?」 「…はい!」 ぱっと表情を明るくした丁は金魚のことが相当気に入ったみたいだ。なまえには見せないようなきらきらとした眼差しを根付に寄せていて、何だかこちらまで嬉しくなってしまう。 「じゃあこれはふたつ買おっか」 「お揃い、ですか?」 「お揃いです!」 なまえの言葉にまたふわりと頬を緩める丁は随分と浮き足立っているようで、いつもより様々な表情を見せてくれる。 それがたまらなく嬉しくて、ささやかな幸せで胸がいっぱいに満たされた。 ふたつのそれをこつんと合わせ、鈴越しに丁と瞳をからめる。彼はかすかな微笑を唇に乗せ、なまえはふにゃりと蕩けるように頬を緩めて。どちらからともなく笑みをもらしたのだった。 「ちょっと疲れたね、休憩しようか?」 「そうですね、たくさん歩きましたし…」 「飲み物でも買ってくるよ!丁くんは座って待ってて」 なまえはベンチを指差し丁をそこに座らせると、店に向かって歩き始める。 ちょうど昼時ということもあり、彼女の背中はすぐさま人波に飲まれて消えてしまった。時折人の垣根が開けて姿を現すなまえを視界にとどめておくようにじっと見つめるけれど、再び壁に遮られて彼女を見失う。 仕方なく周囲を見回せば、目に入る人々の視線はひやりと冷たく、丁などそこにいないかのように宙を通り過ぎていく。 その赤い口々から発せられる癪に障るような不快な声がぐわん、と頭に反響した。 雑踏から目を背け、安らぎを求めるようにもう一度なまえを探す。首をゆらゆらと右や左に傾かせながら視線で人の隙間を縫うと、飲み物らしきものを手にこちらへ戻ろうとしているなまえを見つけた。 彼女は懸命に丁の元へ帰ろうと足を動かすけれど、人の波に押し戻されてしまっている。 迎えに行こうとベンチからおりた一瞬の隙に、なまえの隣に人が増えていた。周りが見えていなかったのか誰かにぶつかってしまったようだ。 何度も頭を下げる彼女の肩に馴れ馴れしく手を置く男。会話は聞こえないが彼女に気安く触れるそれや、にやにやと引き上げられた口元、なまえを見やる瞳でさえ気に食わなくて。 丁の心の奥底にふつふつと熱く込み上げるものがあった。 口の中で舌を打ち、人の間をするすると器用に抜けた丁はなまえの上着の裾を引く。 「なまえさん」 「丁くん!ごめんね待たせちゃって…」 「いえ、…この方は?」 「あ、私がぶつかっちゃって…謝ってるんだけどね」 「だからさ、一回遊んでくれたら許してあげるって言ってんじゃん」 「いや、この子もいますし…」 なまえは厄介な絡まれ方をしたなぁ、と困ったように愛想笑いをつくりながら内心ため息をつく。ぶつかってしまったのはこちらだし、それに対しては何度も謝ったのだけれど相手をしてくれるまで離さないと彼は言う。 ますます肩にからみつく腕に眉をしかめつつ、丁に瞳を戻すと同時に小さく目を見開いた。 先までの優しい微笑みやなまえに度々寄せられるやわらかな眼差しは見る影もなく、すっと切れるように研がれた視線が男へと注がれていたからだ。なまえへと向けられた訳でもないのに、ぞくりとした悪寒が背筋を撫でる。 よくわからないけれど、男に対して怒りを感じているらしい丁をなだめようと口を開くより先に、彼の平坦な声が飛んだ。 「不相応、という言葉をしっていますか?」 「はあ?」 「彼女と貴方じゃ釣り合わないって言っているんですよ、一度姿見を前に自分を見つめなおしたらいかがです」 「ちょ、丁くん…!」 それはもう容赦のない言葉だった。 一息にそう告げた丁の鋭く冷えた視線はまっすぐに男を射抜いていて、始めは何を言われたのか理解が至らない様子だった男も動きを見せた。 頭に血が上ったのか、かっと顔を赤らめ威圧するように一歩足を踏み出す。 「何だとこのガキ…!」 「ごごめんなさい!ほんとごめんなさい!これあげますから!ほら丁くん行こう!」 両手に抱えていたジュースを男に押し付け、丁の手を握って走り出す。 背後から怒号が追いかけて来たけれど脇目も振らずに通路を駆け抜け、突き当たりの角を曲がったところで漸く足を止める。 恐る恐る後ろを確認すると、上手く人混みに紛れ込めたおかげか男は追ってきていなかった。 ふう、と安堵の息をつき、なまえに手を繋がれたまま俯いている丁に合わせて屈み込む。 「丁くん、何であんなこと言ったの?」 「…わかりません。でもなまえさんに言い寄るあいつを見ていたら、なぜか冷静さを欠いてしまいました」 「……」 「……すみません、怒ってますか?」 「うん、怒ってる」 そろりとなまえを見上げる丁にむ、と眉をしかめると、少し顔を俯かせて頭を垂れる。 確かに怒っているといえばそうだけれど、それは丁のことが心配だったからだ。どちらが正しいとかそんなことよりも丁は子供で相手は大の大人、しかも男性だ。もし暴力に訴えることになったとしたら、力で負けてしまうのは丁の方。 丁が怪我でもしてしまったら、と考えてすうっと血の気が引いていくのがわかった。 怖かった。心臓に直接氷が押し当てられたのかと思うくらい、一瞬で爪の先まで冷えていく。 「もしあのままあの人が手を出してたら、怪我をしてたのは丁くんなんだよ」 「え?」 「すごく心配した、…怖かったよ」 「……ごめんなさい」 しゃがみ込んだまま、膝を抱えて丁を見つめるなまえがつむいだその言葉。面倒事を嫌うとか、あんな往来の真ん中で騒いだなんて理由ではなく何よりも丁を心の底から想うその言葉に、かすかに目を見張った。 丁を叱る声音に確かな愛情のようなものを感じて、丁のために心を砕いてくれているなまえには悪いが不謹慎にも嬉しかった。 身体の中心にじわじわと優しい熱が灯っていく。 「でも丁くんがきつく言ってくれたおかげですっとしたけどね!」 「では、またああいったことがあったら今度はうまく言い負かしてやります」 「もう、丁くんらしいけど…ほどほどにね?」 立ち上がったなまえと見交わし、手を伸ばしあって指先を繋ぐ。 ただお互いのぬくもりを確かめるために幼く重ねた手を揺らしながら、2人は並んで歩き出したのだった。 |