EU地獄から届いたとある親書。 失業者を大量に送る旨と日本の土地や資金を催促する内容がつらつらと並べ立てられたそれは、こちら側にあまりにも理不尽なものだった。それをひと目見るなり琴線に触るどころかぶった斬られた鬼灯がEUに向かった、となまえが閻魔から報告を受けた時には彼が日本を飛び出してからすでに数刻が経過していた。 丁寧に埋め込まれた敷石を不躾に踏みつけ、洋風づくりの街をひた走る。 遅れを取りながらもようやくEUに到着したなまえは息を切らしながらベルゼブブが所有する屋敷への道を辿っていた。息せき切らし飛び込んできたなまえにも艶の混ざった笑みを崩さず迎え入れてくれたメイドは流石EU地獄を統べる王の右腕に仕えるだけのことはある。彼女への挨拶もそこそこにひらひらと翻る可愛らしい裾を追い、メイドに案内されて踏み入れた部屋にはサタン王にベルゼブブとリリス、そして鬼灯が顔を揃えていた。 「おやなまえ、そんなに息を乱してどうしたのですか」 「ど、どうもこうも…大王から鬼灯さんがEUに乗り込んだって聞いたので急いで来たんです!」 ふうふうと肩で息をするなまえの背を撫でる手のひらは普段と何ら変わりなく優しいものなのに、いささか深い谷を刻む眉間を認めその心の底に怒りをくすぶらせているのが見て取れた。 まさか戦争をふっかけるなんてことにはならないだろうが、度を過ぎた忠告は他国とのひずみにもなりかねない。 懸念にゆらりと震えるなまえの瞳を見つめた鬼灯は、心外だとでも言うように口を開く。 「別に私も喧嘩売りに来たんじゃないんですよ」 「……本当ですか?何かぎらぎらしてますけど…」 「気のせいですよ」 「イヤ売ってるだろ!君もさっさとコイツ連れて帰ってくれよ」 「いえ、私は鬼灯さんがやりすぎた時止めるために来たんです。もの申したいのは私も同じですから」 鬼灯を下からすくい上げるようにのぞき込んでいたなまえはベルゼブブに向き直ると、花蕾のほころびを思わせるふんわりとした笑みを見せた。 笑顔だけを見れば心がほぐれるようなそれなのだが、彼女もあの親書の内容を腹に据えかねたのだろう、このまま何事もなくお帰りになる気はないようだ。温厚な筈のなまえの心中が穏やかでないことを知ったベルゼブブは、冷や汗をにじませながら喉元までこみ上げた文句をぐっとこらえる。 鬼灯は彼を満足そうに見やり、ワゴンに山と積まれた土産を室内へと引き入れた。 「遅くなりましたが親善の品です」 「部屋の外にあったのってお土産だったんですね…」 「土産なんかで俺は懐柔されないぞ」 「そう言わずに……是非飾ってください」 所狭しと肩を連ねる土産は何れもかさばり置き場所に困る物ばかりで、細部にも毒をふくむ鬼灯のやり口になまえは感心しながら見入っていた。 今日ばかりは彼女の助け船も期待出来そうにない。そう悟って苦虫を噛みつぶしたように顔をしかめたベルゼブブはがっくりと肩を落とした。 「あとこれも良かったらどうぞ」 「あ、うちの庭に置いてあったハエトリ草ですね」 「ええ、植物園で折角買ったので使い道があった方が良いかと」 「ちょっと大きすぎて困っていたのでちょうど良かったです」 何かの化け物のような声をあげて大きな口でぱっくりと蠅の王を飲み込もうとするそれを2人仲良く眺める夫婦は、命の危機に瀕している彼など気にもとめずに和やかな会話を交わしていた。 常なら歯止めとなるなまえが間に入らないため、鬼灯の独壇場となってしまっている。真に怒らせてならないのは冷徹な補佐官に寄り添う彼女なのでは、と思い至ったベルゼブブが何とか食肉植物から抜け出そうとするのをよそに、鬼灯はつかつかとサタンの傍へ歩み寄る。 「こちらは大王からの親書です、無難なことしか書いていないので適当に読んでください」 「適当でいいの?」 「そしてここからは私個人の意見。私は元来合理主義に徹していますがナメた真似をされるとどうにも呵責したくなります。相手が国王でも喜んで金魚草の餌にだってします」 敵意を向けられているのはなまえではないのにぞわりとした悪寒が背筋を這うくらいには剣呑とした気配を背負った鬼灯に、サタンは恐れをなして震え上がった。脊髄をぎりぎりと締め付けられるような恐怖を覚えさせられればもう大王や日本を侮った文章など書けないだろう、となまえは息をつく。 そうして言いたいことをすべて吐露した鬼灯がくるりと踵を返したのを追おうと踏み出した足をはたと止めたなまえは、すっかり茫然自失となった彼らに向き直って頭を下げた。 「お騒がせいたしました、けれど平和な国民性を逆手にとって日本を見くびるのはもうやめてくださいね。……二度目はないと思ってください」 至極丁寧に一礼したなまえが上げた面には穏やかな笑みが宿っていた。緊迫した空気にはそぐわない穏和がすぎる笑顔だ。この部屋に足を踏み入れた瞬間から最後までそれを崩さない彼女にはむしろ恐ろしさを感じてしまう。 ひっと息をのんだベルゼブブたちを横目に、リリスはなまえの新たな側面を目の当たりにして殊更興味を持ったように紅をひいた唇を引き上げたのだった。 * 「しかし、なまえはてっきり止めに来たのだと思っていました」 「はい、鬼灯さんが無茶をしないよう止めに来たんですよ」 「それにしては割と自由にさせてもらいましたが」 「私も言いたいことがあったので」 閻魔への報告を済ませ、執務室にて暫しの休憩。 手中にある器に満たされた水面を波紋がゆるりと広がっていくのを見届けてから、なまえはやわらかな微笑みを鬼灯へ寄せた。 彼はちらりとこちらを一瞥し、相も変わらないその柔和な笑みに肩をすくめて茶を一口啜る。 「なまえを本気で怒らせると恐ろしいですねぇ」 「怒ってなんていませんよ?ただ、この賑やかで平穏な場所をなくしたくないだけです。鬼灯さんも同じでしょう?」 「私は別に、侮られたことに腹が立っただけです」 「ふふ、そうですか?」 「そうですよ」 こちらを見つめる鬼灯の心を透かしたような瞳はひどく優しくて、胸中が浮ついて落ち着かないようなむずがゆさを覚える。それに追い打ちをかけるべく包み込むような微笑を向けられてはたまらない。 彼女からふらりと瞳をそらした鬼灯は図星を突かれて揺らぐ心を誤魔化すように渋みのある萌葱色を飲み込んだ。不自然に宙を泳ぐ鬼灯の眼差しに気がついたなまえは慈しむように唇をほころばせると、そっとまぶたを伏せる。 「ずっと続いていけばいいですね、この穏やかな時間が」 「心配せずとも、これからも何も変わりませんよ」 「…はい」 切な願いをつむぐように囁かれたその声音の節々に、この地獄を大切に想うなまえの心が織り込まれている。鬼灯は鼓膜を揺さぶる彼女の言葉への返答に強い意志を込めて、なまえのなだらかに弧を描く頬を手のひらでそっと包み込んだ。 あえかに睫毛を震わせて鬼灯の科白を噛みしめるように頷いた彼女は、心ごとくるむように重ねられた肌を求めてすり寄ったのだった。 |